第1話─最悪な目覚め
朝。
窓の隙間から差し込む陽光が、薄暗い寝室をぼんやりと照らしていた。
夜の間に冷え込んだ空気は、朝日を受けて少しずつ温まり始めている。窓の向こうからは、荷車の車輪が石畳を転がる音や、通りを行き交う人々の話し声が微かに聞こえてきた。
「──ッ!」
突然、俺は寝台の上で勢いよく上体を起こした。
「はっ…………はぁっ…………!」
呼吸が、うまくできない。
肺いっぱいに空気を取り込んでいるはずなのに、どういうわけか息苦しさが消えてくれない。喉の奥には何かが詰まっているような感覚が残り、心臓は今にも肋骨を突き破りそうな勢いで脈打っている。
「クソっ…………またか」
額から、一筋の汗が流れ落ちた。
寝間着はぐっしょりと湿り、背中には冷たい布地が張りついている。額だけでなく、首筋や胸元にまで汗が滲んでおり、まるで真夏の炎天下を走り回った後のようだった。
「…………」
震える手を持ち上げ、自分の顔を覆った。
掌に触れる肌は、汗で濡れていた。
そのまま、ゆっくりと指を動かす。
頬。
顎。
首筋。
どこにも異常はない。
焼け爛れた皮膚もなければ、焦げた肉の臭いもしない。喉に手を当てれば、そこには何の傷もなく、ただ激しく脈打つ血管の感触だけが伝わってきた。
「あの野郎…………次会った時は許さん」
俺はゆっくりと腕を下ろし、寝台の縁に手をついた。
「…………仕事」
掠れた声が、静かな寝室に落ちた。
「仕事…………いかなきゃ」
◇ ◇ ◇
国家魔術保安局。
それは、王都の官庁街の一角に建つ、巨大な石造りの庁舎だった。
灰色の石材を幾重にも積み上げた建物は、周囲の官庁施設と比べても一際大きく、正面玄関の上には国家の紋章を象った大きな浮き彫りが掲げられている。
建物の外観は、どちらかといえば古い城塞に近い。分厚い外壁に、等間隔で並ぶ細長い窓。正面には重厚な鉄製の門扉が設けられており、その両脇には武装した警備員が立っていた。
しかし、そんな物々しい外観とは裏腹に、建物の内部は意外なほど普通だった。
広間の中央には大きな受付台が設けられており、その向こうでは数人の職員が忙しなく書類を捌いている。
受付の前には、既に何人もの人々が列を作っていた。
何やら分厚い書類の束を抱えた商人風の男。隣の女性に何度も頭を下げている、見るからに気の弱そうな青年。制服姿の職員に連れられ、奥の通路へと案内されていく老夫婦。
その傍らでは、職員と来庁者が何やら言い争っていた。
「ですから、申請には所定の書類が必要でして……」
「昨日も同じことを言われたんだ! いったい何枚書かせるつもりなんだ!」
「お気持ちは分かりますが、規則ですので」
そんなやり取りを横目に、俺は受付へと歩いていく。
朝からご苦労なことである。
もっとも、他人事のように考えていられるのも今のうちだ。どうせ自分の部署へ戻れば、俺も似たような目に遭うのだから。
「おはようございます、ウォーカーさん」
「ああ、おはよう」
受付の女性職員が、こちらに気づいて声をかけてきた。
俺は軽く片手を上げて挨拶を返すと、制服の内ポケットから身分証を取り出した。金属製の小さな証票には、国家魔術保安局の紋章と、俺の名前が刻まれている。
エラン・ウォーカー。
それが、今の俺の名前だった。
女性職員は証票を一瞥すると、慣れた手つきで受付台の帳簿へ何かを書き込んだ。
「本日もお疲れ様です」
「そちらも。ここ最近は毎日キミの顔を見るが、もしかして連勤続きなんじゃないか?」
「あはは……実はそうでして」
苦笑する女性職員。
「今週も頑張ろう。お互いに」
「はい」
この世界に来る前、俺が思い描いていた異世界の公的機関といえば、もっとこう、剣を携えた騎士たちが整然と並んでいるような場所だった。
ところが、実際はどうだ。
書類、書類、書類。
どこへ行っても書類ばかりである。
剣と魔法の世界だろうが、文明が発展すれば役所仕事が増えるのは変わらないらしい。
まったく、嫌なところばかり前世に似ている。
そんなことを考えながら、俺は廊下を進み、階段を上がった。目的の部屋は、庁舎の二階にある。
年季の入った木製の扉を開けると、そこには見慣れた光景が広がっていた。
広々とした室内に、いくつもの机が規則正しく並べられている。壁際には天井近くまで届く書類棚が設置され、その中には大量の帳簿や資料がぎっしりと詰め込まれていた。
室内では既に何人もの職員が仕事を始めており、紙を捲る音や、筆記具が机を叩く音が絶え間なく響いている。
俺はその間を抜け、自分の机へと向かった。
そして。
「…………うわ」
思わず、そんな声が漏れた。
机の上には、大量の書類が積み上がっていた。
それも、一山や二山ではない。机の端から端まで、まるで小さな山脈でも形成するかのように、分厚い紙の束が並べられている。
俺は椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。
目の前に積み上がった書類を眺める。
一番上に置かれていた報告書を手に取ってみたが、最初の数行を読んだところで、そっと元の場所へ戻した。
「はぁ…………」
深々とため息をつく。
そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「やる気がでねぇ…………」
できることなら、このまま帰りたい。今すぐ自宅に戻り、寝台に潜り込んで、夕方まで眠っていたい。
だが、そんなことが許されるはずもなかった。
悲しいかな、俺は社会人なのである。
それも、異世界の。
……どうして、こんなことになってしまったのだろう。
俺は椅子の背もたれに身体を預けながら、ぼんやりと天井を見上げた。
国家魔術保安局。
それが、現在俺の勤めている職場の名前である。その名の通り、魔術に関する犯罪の取り締まりを専門とする国家機関だ。
一般的な窃盗や傷害、殺人といった事件は、通常の警察組織が担当する。しかし、それらの事件に魔術が関わっている場合、話は少しばかり変わってくる。
何しろ、この世界の魔術というものは、非常に厄介なのだ。
火を生み出す。
雷を落とす。
物体を動かす。
人間の精神に干渉する。
そうした、常識では考えられない現象を引き起こすことができる。
そして、そんな力を犯罪に利用する人間が現れれば、当然ながら普通の警察官では対処が難しくなる。
そこで設立されたのが、国家魔術保安局というわけだ。魔術犯罪の捜査から、危険な魔術師の拘束、必要に応じた武力制圧まで。魔術が関係する厄介事なら、大抵のものはここに持ち込まれる。
そして俺は、そんな厄介事の専門家として働いているのである。
別に、好きでこんな仕事を選んだわけではない。そもそも、俺がこの組織に所属することになったのには、少々特殊な事情があった。
数年前。あの真っ白な空間で女神と出会い、異世界へと送り出された俺は、目を覚ますと、見知らぬ男の身体になっていた。
それが、エラン・ウォーカー。
当時、国家魔術保安局に勤めていた、一人の職員だった。
どうやら俺は、彼の身体に憑依するような形で、この世界へやって来たらしい。
当然、最初は随分と困惑した。
何しろ、異世界と聞いていたのに、赤ん坊から人生をやり直すわけでもなければ、何のしがらみもない自由な身分で放り出されたわけでもなかったのだ。
目を覚ました時点で、既に名前があり、仕事があり、職場があり、社会的な立場まで用意されていた。
それも、俺が何一つ選んでいない状態で。
まったく、随分と手の込んだ転生である。
もっとも、冷静になって考えてみれば、悪いことばかりではなかった。何しろ、俺が女神から頼まれたのは、暴走する魔術師たちを止めることだったのだ。
そして、国家魔術保安局は、まさしくそうした魔術師たちを取り締まるための組織である。
情報もある。
装備もある。
協力してくれる人員もいる。
何より、国家から正式に与えられた捜査権限がある。
これほど都合のいい職場も、そうそうないだろう。そう考えた俺は、結局、そのまま保安局に籍を置くことにしたのだった。
……いや、まあ。
最初から、こんな堅苦しい組織に骨を埋めるつもりだったわけではない。
むしろ、当初はもっと自由に活動するつもりでいた。
例えば、夜な夜な街に現れては、悪事を働く魔術師たちを成敗する、正体不明の英雄。
普段はごく普通の一般人として生活しながら、裏では誰にも知られず世界の平和を守っている。
そんな、物語に出てくる影のヒーローのような存在だ。
正直に言えば、少し憧れていた。何しろ、俺には女神から授かった特別な力があるのだから。その力を使えば、きっと自分一人でも悪い魔術師たちを倒して回れるはずだ。
……などと。
そんな甘い考えを抱いていた時期が、俺にもありました。
結論から言おう。
無理である。
絶対に無理。
というか、そんなことを考えていた過去の自分を殴ってやりたい。
理由は至って単純だ。
この世界の魔術師という連中が、あまりにも強すぎるのである。
そもそも、魔術というものは、使用者によってその性質が大きく異なる。
人間の五感を狂わせる魔術や、触れたものを跡形もなく消し去る魔術など、種類を挙げ始めればきりがない。
そして、厄介なことに、魔術師たちはそうした力を極限まで突き詰めた連中なのだ。
普通の魔術使用者が、生活を便利にするために魔術を使うのだとすれば、魔術師は違う。
彼らにとって、魔術は研究対象であり、人生そのものだ。
より強力に。
より効率的に。
より精密に。
たった一つの魔術を完成させるために、何十年という歳月を費やす者さえいる。
そんな連中が生み出した魔術が、弱いはずもない。実際、過去には一人の魔術師によって都市が丸ごと消滅した事件もあったらしい。
たった一人で、だ。
強すぎワロタwwwwww
しかも、厄介なのは強さだけではない。魔術師という連中は、往々にして頭がおかしい。
俺たち保安局が相手にするような連中は、大抵の場合、一般的な倫理観や社会の法から大きく逸脱している。
人間を実験材料として扱うし、研究のためなら、他人の命を奪うことさえ厭わない。何十人、何百人という犠牲者が出たとしても、それを単なる実験結果として記録する。
そんな連中が、平然と街中を歩いているのである。しかも、本人たちに悪事を働いているという自覚がないことすら珍しくない。
昨日の晩…………いや、正確には今日の晩に遭遇した男など、まさしくその典型だった。
……思い出すだけで、気分が悪くなってくる。
ともかく、そんな頭のイカれた連中を相手に、たった一人でどう立ち向かえというのだろうか。
「せめて、あの女神に貰った力が、もっと使い勝手のいいものだったら良かったんだがなぁ」
その点、国家魔術保安局なら話は別だ。
組織として蓄積された情報を利用できるし、必要ならば応援を要請することもできる。
危険な相手には、複数の捜査官で対応すればいい。捜査に必要な費用だって、国が負担してくれる。
そして何より、何かあったとき、責任を負うのが俺一人ではない。
これが大きい。
非常に大きい。
やはり、組織というものは素晴らしい。多少の面倒な規則や書類仕事には、目を瞑ってやってもいいくらいだ。
公権力万歳。
まさか、異世界に来てから、それを実感することになるとは。
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