プロローグ─死亡
「いきなりで申し訳ありませんが、貴方にはこれから異世界で活動してもらいます」
いつの間にか、知らない場所に来ていた。
いや、場所と呼んでいいのかすら怪しい。
見渡す限り、真っ白だった。右を見ても、左を見ても、上を見ても、下を見ても、どこまでも白い空間が広がっている。壁もなければ天井もなく、地平線すら見当たらない。
何というか、現実味がない場所である。
夢の中と言われれば納得できるし、死後の世界だと言われても、まあ、そういうものなのかと受け入れてしまいそうだった。
「そこは、概ね貴方たち地球人が想像している異世界で間違いないでしょう」
そんな俺の困惑をよそに、目の前の女性は話を続けた。
女性。ひとまず、そう呼ぶことにする。
というのも、目の前にいる存在を、単なる人間の女性として扱っていいものか判断がつかなかったからだ。
まず、恐ろしく美人なのだ。
腰の辺りまで伸びた銀色の髪は、一本一本が光を帯びているかのように輝いている。陶磁器を思わせる白い肌には傷一つなく、整いすぎた目鼻立ちは、かえって作り物めいた印象すら与えていた。
身に纏っているのは、ゆったりとした純白の衣装。薄い布地が幾重にも重なっているように見えるのに、不思議と身体の輪郭は曖昧で、どこからどこまでが衣服なのかも判然としない。
女神。
そんな言葉が、これ以上ないほど似合う女性だった。
「ただし、今回の転生には、一つお願いがあるのです」
「…………お願い?」
「はい。実は、貴方に向かっていただく世界は、今まさに滅亡の危機に瀕しています」
滅亡の危機。
随分と物騒な言葉が出てきたものだ。
「その世界では、魔術という力が非常に発達しています。人々は魔術の恩恵を受け、長い年月をかけて文明を築き上げてきました。しかし、その一方で、魔術の研究に取り憑かれた者たちが現れ始めたのです」
「魔術の研究に取り憑かれた者たち?」
「ええ。彼らは魔術師と呼ばれています。魔術の真理を解き明かすことに生涯を捧げ、そのためならば、どのような犠牲も厭わない者たちです」
女神は、そこで僅かに表情を曇らせた。
「もちろん、すべての魔術師がそうではありません。純粋に学問として魔術を研究し、人々の暮らしに貢献している者も大勢います。しかし、一部の魔術師たちは、研究のために他者の命を奪うことさえ躊躇わなくなってしまいました」
「…………なるほど」
「彼らの中には、国を滅ぼしかねない危険な魔術を生み出す者もいます。現に、いくつもの都市が魔術師たちの実験によって壊滅し、多くの人々が犠牲になりました。それでもなお、彼らは研究を止めようとはしないのです」
女神の声が、少しだけ沈んだ。
「このままでは、いずれ世界そのものが崩壊してしまうでしょう」
なるほど、なるほど。
要するに、俺がこれから行く異世界には世界を脅かす悪い魔術師たちがいて、そいつらを何とかしてほしいということらしい。
「そこで、貴方にお願いしたいのです」
女神が、真っ直ぐに俺を見つめた。
「どうか、その世界へ赴き、暴走する魔術師たちを止めていただけないでしょうか」
「…………」
「もちろん、引き受けていただけるのであれば、こちらも相応の支援をさせていただきます」
「…………支援?」
「はい。いきなり異世界で活動しろと言われても困ると思います。ですので、貴方の活動を補助するために、こちらから強力な特典を差し上げたいと思います」
「特典」
「ええ。きっと、貴方のお役に立つはずです」
転生特典。
聞いたことがある。異世界転生における最大の醍醐味と言っても過言ではない、いわゆるチート能力という奴だ。
普通の人間では到底扱えないような魔法を使えたり、常識外れの身体能力を手に入れたり、あるいは世界の法則そのものに干渉できたり。
転生先での人生を大きく左右する、まさしく夢のような贈り物。
もっとも、特典なら何でもいいというわけではない。ここで微妙な能力を渡されてしまえば、せっかくの異世界生活が一転して苦難の連続になる可能性もある。
「早速、貴方が向こうの世界で活動するための特別な力を授けましょう」
女神が、そっと右手を差し出した。
その掌に、小さな光が灯る。最初は蝋燭の火ほどの大きさだったそれが、瞬く間に膨れ上がり、眩い輝きを放ち始めた。
「それで、この特典というのは……?」
「では、貴方が異世界で活躍することをお祈りしています」
「えっ」
女神が、柔らかく微笑んだ。
それと同時に、俺の足元から淡い光が立ち上り、身体を包み込んでいく。どうやら、いよいよ転生の時間らしい。
いや、待て。
まだ特典の内容を聞いていないんだが?
「あの、すみません! 具体的に特典にはどんな能力が──」
声を上げた瞬間、身体がふわりと浮き上がった。足元の感触が消え、視界が真っ白な光に覆われていく。
こうして俺は、貰った特典について大して説明もされないまま、異世界に飛ばされることとなった。
◇ ◇ ◇
夜の街は、静まり返っていた。
日中は多くの人々で賑わう大通りも、今では人影一つ見当たらない。
道の両脇には古びた石造りの建物が立ち並び、窓という窓には固く鎧戸が下ろされている。
通りを照らすのは、一定の間隔で設置された街灯だけだった。
硝子の覆いに収められた淡い光が石畳をぼんやりと浮かび上がらせ、その外側には、夜の闇が深く沈んでいる。
そんな街路を、一人の男が歩いていた。
黒い詰襟の制服に、同色の制帽。腰には革製のベルトが巻かれ、肩から羽織った外套は膝の辺りまで伸びており、歩くたびに裾が小さく揺れた。
「はぁ、何で異世界に来てまでこんな事をしないといけないんだ…………」
男は独りでにそう呟く。
「女神から貰った力も使いづらいし、堪ったものじゃない」
その服装は、街の治安を預かる者のものだった。
襟元に施された銀色の徽章。制帽の正面に刻まれた、剣と鎖を組み合わせた紋章。そして、左腕に巻かれた黒地の腕章。
それらは、男が通常の警察組織とは異なる、特殊な任務に従事する人間であることを示していた。
「確か、次の巡回ルートはこっち…………」
その時。
パチパチ┄┄と。
火の爆ぜる音が聞こえてきた。
街中の、それもこんな夜更けにも関わらず。
男の視線が、通りの奥へと向く。
そこに、誰かが立っていた。
街灯から少し離れた、建物と建物の間。夜の闇に半ば溶け込むようにして、一人の人物が佇んでいる。
何かを探している様子もなければ、どこかへ向かおうとしている様子もない。ただ、薄暗い路地の入口に立ち、俯いたままじっとしていた。
奇妙なことに、その人物の周囲だけが、ぼんやりと赤く照らされていた。街灯の光ではない。もっと別の何かが、光を放っているらしかった。
「そこの方」
男が声をかけた。
返事はない。
「失礼。少し、お話を伺ってもよろしいだろうか」
すると、人影の肩がぴくりと動き、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ああ……」
男は、ようやく声を発した。
「お巡りさん。夜分遅くに、どうも」
にこりと笑う。
近所の知り合いにでも出会ったかのような、気安い笑顔だった。
「……どうも」
制服の男は軽く会釈を返した。
「こんな夜更けに、一体何をされているのですか」
「私ですか?」
「ええ」
「いやあ、少しばかり研究をしておりましてね」
「研究、ですか」
「はい。これがなかなか面白いものでして。気がつけば、こんな時間になってしまいました」
痩せた男は、困ったように笑った。
その拍子に、彼の右手が僅かに持ち上がる。
赤い光が揺れた。
制服の男は、そこで初めて、相手が何かを手に持っていることに気づいた。
炎だった。
赤々と燃える、小さな炎。男の手元で、ぱちぱちと乾いた音を立てながら揺れている。
いや。
正確には、炎だけではない。
何かが燃えているのだ。
細長い、棒のようなもの。
表面は黒く炭化し、ところどころから白っぽいものが覗いている。炎に包まれたそれは、時折小さく痙攣するように揺れ、焼け焦げた破片を石畳へ落としていた。
その片端には、五本の突起があった。
長さも太さも、それぞれ異なっている。そして、その先端には、黒く変色した《《爪》》らしきものが残っていた。
「…………それは」
「これですか?」
男は、自分の手元に視線を落とした。
「ああ、これはですね。人間の手です」
あまりにもあっさりとした返答だった。
まるで、今日の天気でも答えるかのように。
「…………」
「なかなか面白いでしょう? 人間の身体というのは、部位によって燃え方が違うんですよ」
男は嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、困ったことがありましてね」
「…………」
「どうにも、試料が足りないんです」
そう言って、男はゆっくりと顔を上げた。
その目が、制服の男を捉える。
「ああ、そうだ」
何かを思いついたように、男は手を打った。
「せっかくだ、貴方にも私の研究成果を体験していただこう」
次の瞬間。
痩せた男の手元で、炎が膨れ上がった。
燃えていた人間の手が、一瞬で黒い塊へと変わる。
その周囲から、赤い炎が溢れ出した。まるで、狭い容器に押し込められていた何かが、突然解き放たれたかのようだった。
ゴウッ!
夜の街に、昼間と見紛うほどの光が溢れる。
そして。
パチパチ──と。
その場に、火の爆ぜる音だけが残った。
石畳の上では、黒く焼け焦げた制服の男が、もう二度と動くことなく横たわっていた。
──そして。
俺は、死んだ。
主人公が強敵相手に何度もリトライする感じの物語です。
まあ、最後には…………ね。
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