第8話:午前三時のラブレター
午前二時。今日も境界が開く。
蛍光灯がチカチカ。空気がひんやり。もうこれで何回目だろう。最初は胃がキュッとなったのに、今では「ああ、開店だな」くらいの気持ちで迎えられる。慣れって怖い。
「新人クン、品出し終わった?」
「あ、はい。C棚の補充完了です」
少し伸びてきていた天音の金髪の根元が、キレイに染め直されている。昼間に美容院に行ったのだろうか。……いや、この時代、こんな想像するのもアウトか。
「D棚のペット用品もやっといて」
「了解です」
鬼怒川店長がレジ奥の定位置で腕を組んでいる。いつもの夜勤。いつもの光景。
——のはずだった。
自動ドアが開いた。
霊の客なら、足元がうっすら透けている。蛍光灯の光が体を通り抜けて、ぼんやりした影が床に落ちる。二週間もいると、入ってきた瞬間に分かるようになった。
だが、入ってきた男の足元は、透けていなかった。革靴が、はっきりと床を踏んでいる。影も、くっきり。
「……え」
俺は品出しの手を止めた。
二十代後半くらい。スーツのネクタイが緩んで、シャツの第一ボタンが外れている。目の下に深い隈。少し長めの黒髪で、頬がこけている。何日もまともに寝ていない顔だ。残業続きのサラリーマン、といった風貌だ。
男は店内をぼんやり見回した。焦点の合わない目。ここがどこか分かってないみたいな顔。
「いらっしゃ……いませ……」
声が裏返った。いや、だって。生きてるじゃんこの人。
天音がモップを止めて、こちらを見た。
「新人クン。あの人——」
「……透けてない」
鬼怒川店長が、レジ奥でわずかに目を細めた。
「生きてやがるのか」
低い声。
「え、生きてる人がここに来ることって——」
「ある。滅多にねぇがな」
店長はレジから出てこない。ただ、男を見ている。
「どん底にいる人間には、この店が見える。そういう仕組みだ」
どん底。俺もそうだった。就活に全部落ちて、何もかも嫌になって、夜中にふらふら歩いていたら、この店を見つけた。
この男も、今、あの日の俺と同じ場所にいるのか。
くたびれたサラリーマン風の男は、店内をゆっくり歩いていた。棚を一つ一つ見ている。でも商品を手に取るわけでもない。何を探しているのかも分かっていないような足取り。
「あの……」
俺が近づくと、男がこちらを見た。目が赤い。
「ここ……何の店ですか」
「怪安の魔殿、ドン・ゾコです。ディスカウントストア……みたいなもの、です。何か、お探しですか?」
「……分かんない。分かんないけど、なんだか、ここに来なきゃいけない気がして」
目的も聞けないまま、男はB棚の前で立ち止まった。便箋やペン、封筒が並んでいる文房具コーナーだ。男はそこで、ポケットから封筒を一つ、そっと取り出した。折り目がついて、端がくたびれている。何度も取り出しては戻した、みたいな封筒だった。
男は手に持った封筒を見つめたまま、動かなくなった。
——と、そのとき。
自動ドアが、もう一度開いた。
今度の客は、透けていた。
二十代半ばくらいで、明るめの髪に軽めのパーカー、デニム。ラフな格好だけど背筋がまっすぐで、どこか気の強そうな顔つきだった。透けた足で床を踏む音は、しない。
霊の客が入った瞬間、くたびれた男が振り返った。
虚ろだった目が、一気に見開かれる。唇が震えて、顔から血の気が引いて——それからゆっくりと、赤くなった。
「——か、奏太……?」
くたびれた男が、明るめの髪の男に向かって言った。
「……律」
二人が互いの名前を呼び合い、店内が、しん、と静まり返る。蛍光灯のジーッという音だけが店内に響いた。男性同士がじっと見つめ合う、異様な雰囲気だった。揉め事に発展しそうだと感じた俺は、一歩前に出る。だが、天音が俺の袖を引いた。
「新人クン。……下がろ」
「え」
「邪魔しちゃだめ」
天音の声がいつもよりやわらかい。俺は黙って頷いて、天音と一緒にレジの横に下がった。鬼怒川店長は腕を組んだまま、何も言わない。
◇ ◇ ◇
二人の男はしばらく動かなかった。律と呼ばれたサラリーマン風の男がよれたシャツを右手で整えたあと、一歩踏み出した。
「お前……なんで……」
律は、あとから店内に入ってきた幽霊・奏太に向かって手を伸ばすも、途中で止めた。
「この店、面白いよな。死んだ奴が買い物できる店だって」
奏太が少しだけ笑った。凛々しい顔が、急に可愛らしくなる。
「面白いとかじゃなくて、お前、死ん——」
「だから、死んだやつが買い物できるんだって。話聞いてた〜?」
「お前、なんでそんな……」
律の声が詰まる。代わりに、奏太がゆっくりと口を開いた。
「俺が死んでもう一年だぞ。いつまでそんな面してんだよっ」
「……うるさいな。お前に言われたくない」
律が目を逸らした。
二人のやりとりを見ていると、彼らが生前の知り合いであることがわかった。生きている時の二人のやりとりも、こんな感じだったのだろう。ちょっとぶっきらぼうな律と、無邪気に笑う奏太。
「俺ら、喧嘩したまんまだったよな? お前が『もう顔もみたくねえ』って言って、……そのまま」
奏太が微笑みながら言うと、律が肩を震わせながら小さな声で返す。
「お前に、最後に言った言葉がそれだったんだ。『もう顔もみたくねえ』って。……そしたら、本当にいなくなっちまって、俺……」
「いや、俺が悪かったんだって! 先に怒ったの俺だし」
奏太があっけらかんと応える。
「そういう話じゃねえだろ」
律の声は掠れていた。そのまま、律は膝から崩れ落ちた。
「か、奏太……ごめん、ごめん、会いたかった、なんで、どうして……っ」
涙が溢れて、床にまで落ちている。……ああ、そういうことか。二人の間にある空気で、俺は理解した。この人たちは、友達のそれじゃないんだ。律が崩れそうな顔をしている理由も、奏太が「いつまでそんな面してんだ」と怒る理由も、友達の雰囲気ではない。
「お前がいなくなって、苦しくて、でも誰にも言えなくて……」
奏太がゆっくりと律に近づいた。透けた手を伸ばして——律の頭に、そっと乗せる。触れてるのか触れてないのか分からないくらい、淡い。
「知ってる。……分かってた。お前がずっと一人で抱えてるの。だから来たんだ、ここに」
奏太が、静かに言った。
「お前のせいで俺、成仏できてないからね? お前が一歩も前に進めなくて、俺のせいで止まってる。それが——嫌なんだよ」
律が顔を上げる。ぐしゃぐしゃだった。
「お前、死んでるくせに俺の人生に口出しすんなよ」
「死んでるからだろ! 俺はもう進めないしね〜。でもお前は前に、進まないと。ずっと……下向いてどうすんだよ」
奏太の声も震えている。律が、握りしめていた封筒を差し出した。
「……これ。お前に書いたんだ」
「えーー! なんだよ、それ、手紙なんてくれたことなかったじゃん」
「お前が死んでから書いた。渡せないの分かってて、でも書かなきゃどうにかなりそうで——」
奏太が封筒を受け取る。透けた指で、丁寧に開け、便箋を広げて——しばらく、黙って読んでいた。
「……バカだな〜、お前。俺のこと大好きだったんじゃん。直接言えよ」
「言えないから書いたんだろ……」
「いるよ? 今、ここに。ちゃんと言ってよ」
律が、泣き笑いの顔で奏太を見る。俺たち店員に聞こえない声で、耳元で囁いていた。
◇ ◇ ◇
俺はレジ裏のペン立てに手を伸ばしかけた。POP用のマーカーと色画用紙。何か書いてあげたい——と思ったところで、天音が俺の手をそっと押し返した。
「今回は、いいんじゃない」
「え?」
「店ってさ、買い物するだけが存在価値じゃないよ。場所として存在するだけでも、いいんじゃない」
B棚のほうをちらっと見る。二人はまだ話している。声は聞こえないくらい小さい。でも、さっきまでの張り詰めた空気が、だいぶ緩んでいた。……そうだな。POPは商品の魅力を伝える言葉だ。でも今夜は、売るものがない。売らなくていい夜なんだ。
「マーカー持つのが早ぇよ」
鬼怒川店長が、ぽつりと。
「すみません」
「謝んな。……悪くねぇ判断だ」
褒めてるのか叱ってるのか分からない。いつも通り。
◇ ◇ ◇
律が帰る前に、奏太がジャケットのポケットから何かを取り出した。古銭だ。錆びた銅の、小さな穴あき銭。
「これ、持ってて」
「なにこれ」
「これ持ってたら、またこの店にお前も来れるらしい。……でもな」
奏太が律の手に古銭を乗せた。
「来なくていい日が来たら、捨てて」
律の顔が歪む。
「そんなの——」
「来なくていい日ってのは、俺を忘れる日じゃないから。前を、向ける日?」
奏太が律の目を見た。律が古銭を握りしめる。指の関節が白くなるくらい。
「……まだ、捨てない」
二人が店を出ると、奏太の姿は一瞬で消えてしまった。
◇ ◇ ◇
「ねえねえ天音、あの二人って付き合ってたのかな、付き合う前かな?」
「さぁ、どうだろう。……でも、付き合って1ヶ月とかっぽくない?」
「え、俺もそう思った!!」
「触り方がまだぎこちなかったよね」
絶対にあしらわれると思ったのに、天音が意外にも“恋バナ”に乗ってくれて嬉しい。お客様のプライベートを想像してはいけない気もするが、さすがにあの二人は気になるって。どっちがどっ……。
「……境界が薄くなってやがるな」
閉店作業をしていると、鬼怒川店長がぽつりと言った。
「生きた人間に、店が見えた。昔は、もっと追い詰められた奴にしか見えなかった」
「律さんも十分追い詰められてたと思いますけど」
「追い詰められてはいた。だが、本来あの程度じゃ見えねぇ」
店長が入口のほうに目をやった。前に、黒いコートの男が立っていたあたりを。
「……まずいんですか」
「境界ってのは壁だ。薄くなりゃ——破れる」
それだけ言って、レジに戻った。
天音が小さく呟いた。
「……最近、変だとは思ってた。風とか、蛍光灯の点滅とか」
時計を見た。午前四時四十分。自動ドアの向こうに、夜明けの気配が薄く滲んでいた。




