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第7話:午前二時の不法侵入

 その夜の午前二時は、また少しだけ違う空気が流れた。


 チカチカと不規則に瞬くのが、開店を知らせるいつもの蛍光灯の合図だ。だけど今夜は瞬く間もなく、店内の照明が「パリンッ!」という甲高い音を立てて一斉に弾け飛んだ。


「うわっ!?」


 俺は思わず頭を抱えてしゃがみ込む。暗闇に包まれた店内に、非常口の鮮やかな緑色の光だけが浮かび上がる。


「新人クン、動かないで」


 少し離れた場所から、天音あまねの鋭い声が飛んだ。今まで店にやってきたどんなヤバい客——首なしライダーや口裂け女——の時とも違う、ヒリついた緊張感が滲んでいる。


 自動ドアが、スライドして開くのではない。見えない巨大な力で「こじ開けられる」ように、メキメキとレールが歪む嫌な音が響いた。


 入ってきたのは、「客」ではなかった。


 真っ黒なヘドロのような泥の塊。その表面には無数の目玉や、苦悶に歪む人の顔のようなものが浮かんでは消えている。足元は透けているどころか、ずっしりとしたおぞましい質量を伴い、店内の床をゆっくりと進んでくる。


「……厄介なやつ」


 天音がモップを両手で構えながら、小さく震えている。天音は今までに色んなヤツを救ってきたはずなのにこの反応。結構ヤバいんじゃないか。


「怨念が寄り集まりすぎて、自我も形もなくなってる。あれは買い物に来たんじゃない。ただ……壊しに来た」

「壊すって……何を?」

「この店に決まってる」

「えええ……」


 冗談じゃない。ここは、俺たちにとっての――。


 何か、何かしなきゃいけない。お客様として扱ってみるのはどうだろうか。俺がレジカウンターから出ようとした瞬間、背中の首根っこを強い力で掴まれた。


「引っ込んでろ、新人」


 低く、地を這うような声だった。


 いつもは見守るだけの鬼怒川きぬがわ店長が、覇気をまとい立っていた。普段のぶっきらぼうだがどこか面倒見の良いヤンキー店長ではない。その眼光は、絶対零度のように冷たく、そして底知れぬ怒りに満ちていた。


「て、店長……」

「天音。お前もだ。そいつには絶対に触るんじゃねえ」


 鬼怒川店長は、黒いエプロンを無造作に、引きちぎるように脱ぎ捨てた。腕まくりされた白いシャツの、両腕の周りの空気が、陽炎のようにゆらゆらと歪んで見える。

店長がただそこに立っているだけなのに、急激に空気が重くなり、息をするのも苦しくなった。圧倒的な威圧感。俺は本能的に後ずさってしまう。


『ギィィィィィィィッ……!!』


 妖怪…なのか、魔獣と言った方がいいのだろうか。呼び方がわからないが、そいつが耳をつんざくような咆哮を上げる。ヘドロの一部が鋭い槍のように変形し、陳列された商品をなぎ倒しながら、真っ直ぐに鬼怒川店長へと襲いかかった。


「……客には礼を尽くす。それが商売だ」


 店長は一歩も引かない。飛来する泥の槍を、素手で真正面からバンバンと殴り弾いている。泥の槍が弾け飛び、周囲の棚にベチャベチャと降り注いだ。


「だがな」


 鬼怒川店長は、すぐ横の棚の足元から、巨大な段ボール箱を片手で無造作に引っ張り出した。


 先日、俺が腰を痛めそうになりながら棚の下にストックした『お清めの塩(ヒマラヤ岩塩・粗挽き)』の箱だ。20キロも入った業務用サイズで、側面の用途欄には「除霊・浄化・下味」とふざけた説明が書かれている代物である。


「この店に土足で踏み込んで、売り物を荒らすようなクズは――客じゃねぇ。ただの『不良品』だ」


 店長がダンボールに手を突っ込み、大量の粗挽き岩塩の袋を雑に引きちぎった。


『ガァァァァァッ!!』


 妖怪は巨体を揺らし、店を飲み込まんばかりの津波と化して押し寄せてくる。だが、鬼怒川店長は一切の恐怖を見せず、深く腰を落とした。


「ぅおーっしゃア、オラァアアアアアアッ!! 浄化ァ!!」


 店長が、鷲掴みにした岩塩を、迫り来る妖怪の顔面(と思われる中心部)に向けて、力任せにぶち撒けた。


バチバチバチッ!!


 ただの塩のはずなのに、ヘドロに触れた瞬間、激しい火花のようなものを散らすと、一気に焼けこげた臭いが充満する。鼻、さらにその奥まで入り込む酷い臭いに気絶しそうになった。


『ギィャァァァァアアアッ!』


 浄化の痛みに耐えかねたのか、妖怪の動きが止まる。その、ほんの一瞬の隙に、俺と妖怪の無数の目玉の一つが、バッチリと目が合ってしまった。


「あ……」


 妖怪はありえない早さで俺の背後に回り込むと、その巨体の一部を鋭い大鎌のような形に変形させ、俺の頭上高く振り上げた。


 死の気配。


 体が鉛のように重く、声すら出ない。非常灯の緑色の光に照らされ、振り下ろされる黒い刃がスローモーションのように見えた。


 死ぬ。俺はここで、真っ二つにされる――!


「……消えな」


 ドンッ、と床を踏み抜くような音と共に、一陣の風が吹く。俺と妖怪のゼロ距離の間に、鬼怒川店長が割り込んでいた。


 大きく振りかぶった右ストレート。


 空気が爆ぜるような音を伴って、その拳が、振り下ろされる大鎌の刃ごと妖怪の中心部へと深々と突き刺さった。恐怖を感じる間もない。


――ドゴォォォォォォンッ!!!


まるでダンプカーが衝突したような轟音が、ドン・ゾコ中に響き渡った。


 店長の拳から放たれた目に見えない「何か」の衝撃波が、妖怪の巨体を完全に貫通し、背後の壁に特大の風穴を開けた。


『ア……ァァ……ァ……』


 断末魔の悲鳴を上げる暇もない。特級の妖怪と呼ばれたおぞましい泥の塊は内側から弾け飛び、瞬く間に乾燥して黒いチリとなって崩れ落ちてた。これは、ある意味での成仏、なのだろうか。それとも……。


 床にはパラパラと落ちた岩塩と、妖怪の残滓である黒い砂だけが残った。


「……す、すげぇ……」


 俺は腰を抜かしたまま、呆然と呟くしかなかった。店長が一体何者なのか、俺はまだ何も知らない。『規格外のバケモノを、粗挽き岩塩と己の拳だけで粉砕したヤンキー』という、圧倒的な事実だけがここにある。


 底知れない。このドン・ゾコというふざけた店も、それを涼しい顔で仕切っているこの男も。


「店長、またそんな派手にやって。棚、壊れちゃったよ」


 天音あまねがため息をつきながら、壁に立てかけていたモップを手に取る。


「すまん、店を守るのが俺の仕事だ」


 鬼怒川店長は、何事もなかったかのように乱れたリーゼントを指で軽く撫でつけた。だが、その呼吸はわずかに荒い。人間離れしたあの動きは、間違いなく彼自身の身体にも相当な無茶を強いているはずだ。


「おい新人。腰抜かしてねぇで、さっさと掃除しろ。床が塩まみれだ」

「は、はい……!」


 俺は慌てて立ち上がる。ふと、店長の後ろ姿を見た。広くて、大きくて、絶対に揺るがない背中。この人が命懸けでこの場所を守っていることだけは、痛いほど伝わってきた。


「……あの、店長」


 俺はレジの下のいつもの黄色の蛍光紙とマジックペンをじっと見た。


「化け物相手じゃ、俺のPOPは役に立たないかもしれないですけど。……次にあんなのが来たら、俺にも手伝わせてください。掃除でも、商品の補充でも、なんでもやりますから」


 鬼怒川店長は、俺をちらりと見て、フンと鼻を鳴らした。


「……百年早い。てめぇはてめぇの仕事に集中してりゃいいんだ。しばらくは字の練習でもしてろ」


     ◇ ◇ ◇


 閉店間際。午前四時五十分。蛍の光が流れ始めている。今日の客は……客ではなかったが、あの妖怪だけだった。掃除に時間がかかったが、なんとか閉店までには間に合った。と、一息ついたその時だった。

 

 自動ドアが開いた。


『もう閉店だ』


 と言いかけた鬼怒川店長の声が、途中で止まる。


 黒いコートの男だった。年齢はよく分からない。俺と同じくらいにも、もっと上にも見える。穏やかな顔立ちで、白い手袋をしている。口元にだけ、薄い笑みが貼りついていた。


 足元を見た。透けていない。でも、生きた人間の「重さ」もない。霊たちの「揺らぎ」もない。なんだこの人。分類できない。


 男は店内をゆっくり見回した。壁のPOPに目を留め一瞬だけ足を止める。それからレジ横の缶コーヒーを一本手に取った。


「これ、ください」


 柔らかい声だった。嫌な声じゃない。でも耳に残る。俺は通常通りレジを打った。缶コーヒー、四十九円。男が小銭を、カウンターに置いた。


 ——ピッ。


「いい店ですね」


 それだけ言って、男は自動ドアの向こうに消えた。


「……今の、なに?」


 天音が掃除の手を止めて店長を見た。店長は腕を組んだまま入口を睨んでいる。眉間の皺が、いつもより深い。


「店長、知り合いですか?」

「…………しらねぇな」


 嘘だ。鬼怒川店長は嘘が下手だ。でも、それ以上聞ける空気じゃなかった。


 蛍の光が終わり、蛍光灯が落ちる。午前五時。境界が閉じていく。

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