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第5話:おじさんになった人面犬

その夜の客は、四つ足で来た。


 午前二時。いつものように蛍光灯がチカチカと点滅し、境界が開く。自動ドアがスライドした瞬間、床すれすれの高さから何かがトトトトッと駆け込んできた。


「わっ」


 俺の足元を小さな影がすり抜ける。犬だ。柴犬サイズの、茶色い毛並みの犬。首輪はない。尻尾をぶんぶん振りながら、店内を嬉しそうに走り回っている。


「い、いらっしゃいま……犬?」

「犬だね」


 天音あまねがモップの柄にあごを乗せて、店内を走る犬を目で追っている。


「犬も来るんだ、この店……」

「動物の霊も来るよ。猫とか、金魚とか。前にカブトムシが来たことある」

「カブトムシの未練って何なんだよ……」

「メスに会えなかったって。見合い相手探してあげたら成仏した」


 俺は一瞬、天音が冗談を言っているのかと思ったが、彼女の顔は真顔だった。この店では何が起きても驚いてはいけないのだと、四日目にしてようやく分かりはじめている。


 犬は店内をひとしきり走り回った後、お菓子コーナーの前でぴたりと止まった。前足で立ち上がり、棚に並んだ商品をじっと見ている。


「……ん?」


 違和感があった。犬が棚を見ている、のではない。棚の商品を「選んでいる」ように見える。前足でちょいちょいと、ビーフジャーキーのパッケージを指差す——いや、指はないから肉球で押すような仕草をしている。


「おい新人。あいつの顔、ちゃんと見たのか」


 鬼怒川きぬがわ店長が、レジの奥から低い声で言った。


「顔……?」


 俺は恐る恐る犬の正面に回り込もうとした、犬がこちらを振り向く。


「ぅぇっ!?」


 思わず尻もちをつく。犬の顔が……人間だった。


 正確には、五十代くらいの中年男性の顔が、犬の頭部にくっついていた。丸い鼻、垂れた目、うっすらとした無精髭。どこにでもいそうな、くたびれたおじさんの顔。それが柴犬の胴体から生えている。


「じ、人面犬……!」

「うん。人面犬だね」


 天音が何でもない顔で頷く。この子の「動じない」スキルは一体どこで身につけたんだ。


「あの……お客様?」


 恐る恐る声をかけると、人面犬は人間の口を開いた。


「ビーフジャーキー、ください」


 声も完全におじさんだった。居酒屋で枝豆頼むみたいなトーンでビーフジャーキーを所望している。


「は、はい! ビーフジャーキー! どれがいいですか」

「あ、できれば厚切りで……あと、ビールに合うやつがいいんですけど」

「ビールに合うビーフジャーキー……えーと……」


 俺はおつまみコーナーを物色する。人面犬が俺の後ろをトトトッとついてくる。尻尾を振りながら。可愛いのか怖いのかまったく判断がつかない。


「新人クン」


 天音が近づいてきて、小声で言った。


「この子、たぶん犬だよ。人間じゃなくて」

「え? だって顔は完全におじさん……」

「顔がおじさんなだけ。中身は犬。見てて」


 天音が人面犬の前にしゃがみ、手招きをした。


「おいで」


 天音が手を差し出すと、人面犬はおじさんの顔のまま、ぱたぱたと尻尾を振って天音の手に頬をすり寄せた。おじさんの顔で甘えている。シュールすぎる光景だ。


「ね、犬でしょ」

「犬だ……」


 天音が人面犬の頭を撫でる。人面犬は目を細めて、おじさんの顔で「はふぅ」と幸せそうなため息をついた。世界で最も混乱する「かわいい」だった。


「でも、なんで人の顔に?」

「僕は、おじさんになりたかったんです。そうすれば、ご主人さまとずっといられると思ったんです」


 天音に質問したつもりだったが、答えてくれたのは犬だった。そうか、人語が喋れるわけで、コミュニケーションも取れるのか。


「お客様。飼い主さんのこと、教えてもらえますか?」


 俺が訊ねると人面犬は、ぽつりぽつりと話し始めた。おじさんの声で。


「ご主人は……一人暮らしのおじさんでした。毎日、仕事から帰ってきて、僕のご飯を用意してくれて、散歩に連れて行ってくれて。僕が一番好きな時間は、夜、ご主人がテレビを見ながらビーフジャーキーを食べているときでした。僕はご主人の膝の上で丸くなって、ご主人の匂いを嗅いで……」


 人面犬の尻尾が、ゆっくりと垂れていった。


「でも、ある日から、ご主人が構ってくれなくなったんです」

「構ってくれなくなった?」

「ご主人のところに、別のおじさんが来るようになって。二人で難しい顔をして、書類を見て、電話をして。ご主人はどんどん元気がなくなって、散歩にも行かなくなって……」


 別のおじさん。たぶん、仕事関係か、借金関係か。人間の事情が、犬と飼い主の関係を壊したのだ。


「僕は思ったんです。僕がおじさんになれば、ご主人の隣に座って、一緒に難しい顔をして、一緒にビーフジャーキーを食べられるんじゃないかって」


 それが、こいつの「未練」の正体か。犬のままでは飼い主を助けられない。だから人間になろうとした。でも、犬の魂に人間の顔が乗っかっただけで、結局何もできないまま死んでしまった。


「……君は、おじさんになりたかったんじゃないよね」


 天音が、静かに言った。


「飼い主の隣にいたかっただけだよね。犬として」


 人面犬のおじさんの顔が、くしゃっと歪んだ。泣いているのか笑っているのか分からない表情だった。犬は泣けないから、人間の顔で泣いているのかもしれない。


「新人クン、ペット用品のG棚、下の段」


 天音あまねの指示が飛んだ。俺は走った。G棚の下の段にあったのは、小さな箱だった。ラベルには『ペット用ボイスチェンジャー(犬語⇔人語 双方向対応)』と書いてある。こんなもんまで売ってるのか、この店は。


「これ?」

「うん。貸して」


 天音がボイスチェンジャーを人面犬の首にそっと巻きつけた。


「ねぇ、これつけたら、犬の声で話せるよ。人間の顔じゃなくても、ちゃんと気持ちは伝わる」


 天音がボイスチェンジャーのスイッチを入れた。ピッ、と小さな電子音。


「あ……あ……」


 人面犬が口を開く。おじさんの声が途切れ、代わりに——


「ワン」


 犬の声だった。小さくて、少しかすれた、柴犬の声。


「ワン、ワンワン!」


 人面犬の顔が変化し始めた。おじさんの輪郭が薄れ、その下から茶色い毛並みと黒い鼻と丸い目が現れる。人面が剥がれ落ちるように消えていき、そこにいたのは、ただの柴犬だった。


「ワン!」


 尻尾がちぎれそうなほど振れている。柴犬は天音に飛びつき、顔をぺろぺろと舐めた。


「あはは、くすぐったい、やめて、ちょ、やめ、あはは」


 天音が笑っていた。いつものぶっきらぼうな顔が崩れて、年相応の、十七歳の女の子の笑顔になっている。でも、さっきまで「おじさん」だったことを思い出すと少しだけ背筋がゾクっとする。


「POP、書くか?」


 鬼怒川きぬがわ店長が、レジの後ろから蛍光紙を投げてよこした。俺に向かって。


「え、俺が書くんですか?」

「お前が書きたそうな顔してるからな」


 書きたそうな顔。そんな顔してたのか、俺。でも、たしかに、書きたいと思った。蛍光紙を広げて、マジックペンのキャップを外す。キュキュキュッ。まだガタガタだけど、昨日より少しだけマシになった気がする。


『おじさんにならなくていい。犬のままで最強。ワンチャン、天国でもご主人の膝の上。』

「……ワンチャンて。ダジャレ?」


 天音が呆れた声を出したが、口元は笑っていた。


 柴犬がPOPの匂いを嗅いで、尻尾を一振りした。それから、ポケットなんてないはずなのに、どこからか硬貨をくわえて俺の足元にポトリと落とした。


 ——ピッ。


 光に包まれる柴犬は、最後に一声、高く澄んだ声で鳴いた。


「ワン!」


 ありがとう、と聞こえた気がした。光が弾けて、柴犬は消えた。POPと、ドッグフードの匂いがかすかに残っていた。


「……いい犬だったね」


 天音がぽつりと言った。その右手が、自然と左腕の袖を引っ張っている。


「天音、どうかした? 腕——」

「なんでもない」


 天音は袖を直して、すぐにモップを手に取った。背を向けたまま、掃除を始める。


 気のせいだったのかもしれない。でも一瞬、犬の頭を撫でていた天音の右手が、指先だけ透けて見えた気がした。……蛍光灯のチカチカのせいだろうか。


 鬼怒川店長は天音の背中をじっと見て、何も言わなかった。時計は午前三時半。POPを壁に貼りながら、俺は天音の笑顔を思い出していた。あんな風に笑うんだ、あの子。


 犬に舐められて笑う十七歳と、レジの奥で腕を組むヤンキー店長と、蛍光ペンのインクが指についたままの俺。


 変な職場だ。でも、先月よりだいぶ、俺の気分はいい。

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