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第4話:未完のラストページ

 出勤二日目の夜がやってきた。

   

 今朝のファミレスの歓迎会のあと、俺は無意識に一人暮らしの家に帰っていた。寝た記憶もない。次に目が覚めた時は外も薄暗くなってきた午後四時で、朝なのか、夜なのか数分悩んでしまった。昨日のことが現実だったのか、頭もうまく回らない。


 シャワーを浴びてフラフラと近くのスーパーに行き、安い弁当を買う。ボーッと食べながらYouTubeを見ているといつのまにか時計は二十四時を刺していた。


 あの店は、今日もあるのだろうか。夢、もしくは幻覚だった可能性も大いにある。しかし、雇われたからには一度は行かなければいけない。この真面目さがあるのに、なぜ就活がうまくいかなかったのか、疑問だ。


     ◇ ◇ ◇


「このダンボール、倉庫に持っていけばいいですか?」


 夢か幻か、散々頭の中をグルグルさせたのに、ドンゾコは今日もビカビカと極彩色のネオンを光らせながらそこにあった。昨日は気づかなかった裏の“従業員口”から入ると、バックヤードには鬼怒川きぬがわ店長がドカッと座ったまま成年漫画雑誌を読んでいる。リーゼントの横顔が読書灯に照らされて、影が壁に大きく映っている。「おはようございます」と恐る恐る声をかけた。


「おぅ、お前の名札、作っといたから、エプロンにつけろ」


 見た目は本当に怖いが、すぐ歓迎会を開いてくれたり、ハンバーグを嬉しそうに食べたり、かわいらしい人なんだろう。お礼をいい、エプロンに名札をつけた。


 元々コンビニでバイトしていた過去もあるから、レジの打ち方は覚えたし、レジ締めもできる。古銭は「その他」ボタン、旧紙幣は「特殊通貨」ボタン。ドン・ゾコのレジには、普通のコンビニでは見たことのないボタンがやたらと多い。「怨念値引」とか「成仏ポイント還元」とか、押したら何がおこるかわからないボタンもある。


「新人くん、C棚の補充、お願い」

「は〜い」


 メイク用品の棚を整理している金髪姿の天音あまねは、現実のディスカウントストアにいてもおかしくなさそうだ。でもここは、普通、じゃない。言われた通り、バックヤードから段ボールを運ぶ。中身は『お清めの塩(ヒマラヤ岩塩・粗挽き)』。料理にも使えそうだが、用途欄には「除霊・浄化・下味」と書いてある。汎用性が高すぎるだろ。


 午前二時。蛍光灯がチカチカと点滅し、空気が重くなる。これが開店の合図だ。境界が開き、自動ドアが、そっと開く。


 入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。くたびれたカーディガンにチノパン。メガネのフレームが少し曲がっている。背中を丸めて、おずおずと店内を見回している。

 

……地味だ。今までの客と比べると、圧倒的に地味だ。首はちゃんとあるし、口も裂けていない。


「い、いらっしゃいませ……?」


 俺が声をかけると、男性はびくっと肩を震わせた。そっちが驚くのかよ。


「あ、あの……ここ、何でも売ってるって聞いたんですけど……」

「はい、一応……何をお探しですか?」

「その……『ファントム・ブレイド』の最終巻、ありますか?」


 なんだと!ファントム・ブレイド。それは、俺が中学時代に夢中になった漫画じゃないか。


 九十年代後半に連載が始まった異能バトル漫画。主人公の少年が「幻影の剣」を操り、異世界の敵と戦う王道ストーリー。画力は圧倒的で、ストーリーの伏線は緻密で、キャラクターは全員が魅力的で。当時の少年漫画誌で常にトップ3に入っていた。


 だが、作者が病に倒れ、連載は第四十二巻で止まってしまっている。最終決戦の直前、主人公がラスボスの城に乗り込む場面で。あの見開きの煽り文「――すべてを、終わらせに行く」を最後に。


 二十五年間、続きは描かれていない。作者は今も療養中だと聞く。


「……ファンブレ、ですか」


 俺の声が、自分でも分かるくらい変わった。


「知ってるんですか!?」


 男性の目が、一気に輝く。さっきまでの遠慮がちな態度が嘘のように、ぐいっと俺に詰め寄ってきた。


「知ってるも何も、俺、全巻持ってますよ!四十二巻まで」

「私もです! 初版で! 帯付きで!」

「帯付き!? 三十八巻の帯、もう絶対手に入らないやつじゃないですか」

「そうなんですよ! あの帯の煽り文がまた良くてね、『お前の剣は、まだ折れていない』って——」


 気づいたら、俺と男性は棚の前で人間同士のようにファンブレの話をしていた。


 第七巻の師匠が死ぬシーンの演出がいかに革命的だったか。第二十三巻のヒロイン覚醒回で見開きを三連続でぶち込んだ構成の狂気。第三十五巻の伏線回収で、一巻の何気ない背景に描かれていたシルエットの正体が判明した時の衝撃。


「あのシルエット、私ね、連載当時から気づいてたんですよ」

「えっ、嘘でしょ。あれ気づいてた人、当時ほとんどいなかったはずですよ」

「本当です。私ね、あの漫画が始まった年に就職したんです。毎週月曜日に雑誌を買って、昼休みに読むのが楽しみで。それだけが、あの頃の楽しみで……」


 男性の声が、少しだけ小さくなった。


「……二十五年、待ったんです。最終回を。でも……読むことはできなかった」


 男性が、自分の体を見下ろす。足元が、透けている。


「先月、病院で。まあ、よくある話ですよ。ちょっと不摂生で、病気しちゃって、五十二で死んじゃいました。別に、もう生きててもしょうがなかったんでいいんですけどね、でも、ずっと、あの続きが読みたかった。ラスボスとの決着がどうなるのか。主人公の剣は折れるのか、折れないのか。……それだけが、心残りで」


 俺は黙って聞いていた。胸の奥が、じわりと熱くなる。


この人の気持ちが、痛いほど分かる。好きな作品の続きが読めない苦しみ。それは「たかが漫画」で片付けられるものじゃない。人生の一部なのだ。毎週月曜日の昼休みに、コンビニで雑誌を手に取る。あのページをめくる瞬間の高揚感。


「……お客さん」

「はい?」

「最終巻は、ないですよ。この店にも。当たり前ですけど。でも——」


 俺は立ち上がった。心臓がどくどく鳴っている。鬼怒川店長がレジの奥でこちらを見ているのが分かる。試されている。


「——お客さん、ファンブレの作者って、まだ生きてますよね」

「え……ええ、まだ療養中だと、でも、最終回は描けるかどうかわからないって……」

「つまり、いつかは、そっちに行く、ってことですよ」


 男性が、目を見開いた。


「天国で待ってたほうが早いんじゃないですか?そしたら、直接聞けますよ『最終回、どうなったんですか』って」


 天音あまねがモップの手を止めている。鬼怒川きぬがわ店長が、微動だにしない。

 

 男性は、しばらく呆然としていた。それから、ゆっくりと、くしゃっと顔を歪めた。


「……たしかに?」


 笑っていた。泣きながら、笑っていた。


「天国で、本人に直接聞くって……そんなの……最高じゃないですか……」

「そうですよ、俺より先に、最終回、どうなったかわかるんじゃないですか!  聞けたら教えてください。第七巻の師匠の最後のセリフ、『お前は俺を超えた』と『お前はまだ俺を超えていない』、どっちが本来の原稿だったのか」

「……ふふ、分かりました。聞いておきます」

「あと、ファンブレの最終回はこの店にはないですけど……俺のおすすめの漫画、買ってってください。一巻完結なんで、安心して読めます」


 俺は書籍コーナーの棚から一冊を引っ張り出した。今更だけど、ここ、漫画もあるのかよ。しかも品揃えが異様にいい。男性がタイトルを見て、少し首をかしげる。


「これ、知らないなぁ」

「結構マイナーな作品です。でも、絶対好きだと思います!ファンブレ好きなら」


 俺はレジの下にあった蛍光紙を引っ張り出した。キャップを外す。鬼怒川店長が普段やっているのを三日間見ていた。キュキュキュッ。俺の字はガタガタだ。店長のあの力強い筆致とは比べものにならない。バランスも悪い。でも——書いた。


『最終回が読めなかったあなたへ。天国で作者を待て。それまでのヒマつぶしに、この一冊』


 POPを漫画の表紙に貼り付けて、男性に差し出す。


 男性はPOPの文字をじっと見つめていた。それから、顔をくしゃくしゃにした。


「……いいですね。字はだいぶ下手だけど」

「自覚あります……」


 男性は胸ポケットから財布を取り出し、そっと千円札を俺の手に乗せた。


 ——ピッ。


 光に包まれながら、男性は漫画を胸に抱えて、最後に振り返った。


「いい店ですね、ここ」

「……ありがとうございます。またのご来店を」


 光が弾けて、男性は消えた。あとには、かすかに古い漫画の匂いと、書いたPOPが残っていた。


「……ッ」


 目頭が熱い。仕事中に泣くなんて格好悪いにもほどがある。


「新人クン、鼻水出てるよ」

「出てない!出てないから!」

「出てるよ。はい、ティッシュ」


 天音が無表情でティッシュの箱を差し出してきた。受け取って鼻をかむ。盛大に。


「……くくっ」


 鬼怒川店長が、腕を組んだまま低く笑った。


「おい新人」

「はい……ずびっ」

「お前の字はクソだ」

「知ってます」

「だが、嘘は書いてなかった。……悪くねぇ」


 鬼怒川店長が、ファミレスのハンバーグを食べた時と同じ顔をした。


 残されたPOPは、店の壁の片隅に貼られた。売り場でもなく、レジの横でもなく、バックヤードの入口の横。鬼怒川店長が「ここだ」と指差した場所。


「……なんでここなんですか」

「従業員が毎日見る場所だ。忘れんな、この感覚を」


 天音がモップを持ったまま、そのPOPをじっと見ていた。何も言わなかったけど、口元がほんの少しだけ緩んでいたのを、俺は見逃さなかった。


 時計は午前三時。まだまだ夜は長い。


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