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第3話:午前五時の歓迎会

 午前五時、「蛍の光」が、止まると同時に蛍光灯が消えて、外の明るさが少し差し込むだけの薄暗い店内になった。


 今にも騒ぎ出しそうだった呪物や霊具だったが、蛍光灯に照らされていないだけで田舎のおばあちゃんちの誰も出入りしていない部屋のように穏やかだ。


 ……いや、穏やかじゃない。俺の精神は全然、穏やかじゃない。


「新人。レジ締めだ」

「は、はい……」


 鬼怒川きぬがわ店長に言われるまま、俺はレジを操作する。といっても、今夜の売上は少しの硬貨と旧一万円札。これ、銀行で両替できるのだろうか。いや、そもそもこの店に銀行口座はあるのか? 税金とか……。


「なにも考えないほうがいいよ。考えるだけ、無駄」


 俺の顔を見て、天音あまねさんが言った。エプロンを外した中の黒いTシャツの胸には『I ♡ HELL』とプリントされていた。金髪ボブによく似合っているけれど。


「天音さん、そのTシャツ……」

「店長にタダでもらった」

「センスが終わってる……」


 鬼怒川店長もエプロンを外し、下に着ていた白いシャツの袖をぐるぐると腕まくりしている。長い間働いているのに、リーゼントは微動だにしていない。あの髪型、一体どれだけのハードスプレーを消費しているのだろう。


「新人、飯は」

「え?」

「腹は減ってねぇかと聞いてる」

「あ……減って、ます。めちゃくちゃ」


 言われて気づいたが、昨日の昼から何も食べていない。就活の面接でボコボコにされ、気力を失ったまま夜の街をさまよい、気づいたらここにいたんだった。胃が、ぎゅるると音を立てる。


「っし、歓迎会だ」

「……かんげい、かい?」

「入社祝いだろうが。今の時間、ファミレスしかやってねえから行くぞ。天音、お前の歓迎会をやったあそこ、まだあるよな?」

「あるよ。国道沿いの、二十四時間営業」


 歓迎会。入社祝い。ファミレス。あまりにも普通の単語が並んで、逆に混乱する。さっきまで首なしライダーと口裂け女を接客していた人間と、これからファミレスでドリンクバーを飲むのか。


     ◇ ◇ ◇


 午前五時二十分。俺たちは店の外に出た。


 驚いたことに、ドン・ゾコの外観は深夜に見たときとまったく違っていた。あの極彩色の看板も、不気味なバクのマスコットも、けたたましいテーマソングも消えている。そこにあるのは、ただのシャッターが閉まった空きテナントだった。


「え……店が……」

「朝になると見えなくなるの。人間には。私たちには見えてるけど」


 天音が何でもないように説明する。つまり、この店は深夜の境界が開いている時間帯だけ「存在」しているということか。いや、存在はしているのか。ただ見えないだけなのか。また頭がおかしくなりそうだ。


「ほら、行くぞ。さっさと歩け」


 鬼怒川店長が、俺たちの前をずんずん歩いていく。早朝の道路沿いを闊歩するリーゼントのヤンキーは、控えめに言って異様だ。だが本人はまったく気にしていない。


「……この辺も、ずいぶん変わったな」

「変わったって、何がですか?」

「建物だ。あそこの角に銭湯があったはずだが、なくなってやがる」


 あそこの角。今はおしゃれなコインランドリーになっている場所だ。銭湯なんて、この辺りにあったのだろうか。少なくとも俺が引っ越してきた三年前には、もうなかった気がする。


     ◇ ◇ ◇


 ファミレスに入ると、鬼怒川店長の動きが止まった。入口のウェイティングボードに取り付けられたタッチパネルの受付端末を、じっと睨んでいる。横から天音さんがさっと受付をすますと、窓際のボックス席に案内され、三人で座った。天音さんは俺の隣、鬼怒川店長が向かい側。


「……はぁ〜?」


 鬼怒川店長が、メニューを開いた途端に声を上げる。


「コーヒー一杯、五百円だと?」

「最近また値上がりしたみたい。物価がやばいんだよ。でもドリンクバーならほら、セットで安い」

「あのなぁ、六十円でハンバーガーが食えたんだぞ」

「いつの時代の話ですか……」


 冗談めかして聞いたが、鬼怒川店長はメニューから目を離さず「昔の話だ」とだけ言った。


「店長、いつものハンバーグでいいの」

「……ああ」


 天音が慣れた様子で言うと、鬼怒川店長はメニューを閉じた。ハンバーグセット、千九十円。天音はパンケーキ、俺はモーニングセット。タブレットで注文を済ませると、二人はすぐにドリンクバーに向かい、先に天音さんがメロンソーダを持って戻ってきた。


「……天音さんって、いつからドン・ゾコで働いてるんですか?」


「二年くらい。高校辞めてから」

「高校、辞めちゃったんですか」

「いろいろあって。っていうか、敬語やめていいよ。私、年下でしょ。天音、でいい」

「え、天音さん、……天音……は、十七ぐらいです…?」

「だから敬語やめてって言ったのに、ふふ」


 少しだけ恥ずかしそうに彼女はパーカーのフードを被り、メロンソーダを一気に啜った。


 十七歳。高校中退。深夜のオカルトディスカウントストアで夜勤バイト。彼女のほうが俺なんかよりよっぽど波乱万丈な人生を歩んでいる気がする。


「新人クンは……大学生?」

「あ、いや、大学は去年卒業しました」

「じゃあ、しゃかいじ……んには見えないケド」

「……見えないですよね」


 23歳。周りの同級生は皆就職して、風格も大人っぽくなっている。けれども俺はいつまで学生に見えてしまうんだろうか。


「……俺は、大学受験に失敗していわゆるFラン大学生で。それを言い訳にしてたら就活も失敗しちゃって。今はいわゆる……フリーターってやつです」

「ふぅん」


 正社員になるために再度就職活動を頑張ろうと先月バイトもやめたのに全然うまくいかず、まさに俺は“ドンゾコ”にいる。


 料理が運ばれてくる。鬼怒川きぬがわ店長は、ハンバーグの皿を前にして、じっと見つめていた。ナイフとフォークを手に取ったその手つきはぎこちなく、最初の一切れを口に運ぶまでにやたらと時間がかかる。だが噛んだ瞬間、鉄面皮がほんの一瞬だけ緩んだのを、俺は見逃さなかった。


「……悪くねぇ」


 鬼怒川店長がぼそりと言う。


「毎回同じこと言うよね、店長」


 天音がパンケーキを頬張りながら笑った。鬼怒川店長は「うるせぇ」と返したが、その声には棘がなかった。不思議な光景だった。ヤンキー店長と、高校中退の金髪バイトと、就活全敗のフリーター。朝のファミレスで、ハンバーグとパンケーキとモーニングセットを食べている。外から見たら、どう見えるのだろう。たぶん、ちょっと変な三人組。でも、昨日より気分は悪くない。


「……新人」


 店長が、コーヒーカップを置いて話す。


「今夜のこと、どう思った?」


 どう思った、か。正直に言えば、まだ整理がついていない。首なしライダー、口裂け女、毒舌POP、成仏、古銭。情報が多すぎて、脳がオーバーフローしている。


「……怖かった。めちゃくちゃ怖かったですよ。でも……」


 目玉焼きの黄身を箸で割る。とろりと流れ出した鮮やかな黄色が、ドン・ゾコの蛍光看板の色に似ていた。


「ライダーが、成仏したとき、口裂け女が『また来るね』って笑ったとき、結構、嬉しかった、ですかね」


 天音がこちらを見た。


「就活で何十社回っても、『ありがとう』なんて一回も言われなかったから」


 言ってから、自分でも驚いた。そんなことを思っていたのか、俺は。


「……わかる。私も、そうだったから」


 その声は、普段のぶっきらぼうな調子とは少し違っていた。


「まぁ、私も、いろいろあって。学校にいられなくなって。でも、店長だけが、私を普通に扱ってくれた。客は普通じゃないけどね。だから続けてる。ここぐらいしか、居場所ないから」


 居場所。その言葉が、暖かいなと思った。鬼怒川店長がコーヒーカップを置く。三杯目のコーヒーを、全部飲み干していた。


「……居場所ってのは、探すもんじゃねぇ。気づいたらそこにあるもんだ」


 誰に言ったのかわからない。天音にか、俺にか、あるいは自分自身にか。


     ◇ ◇ ◇


 ファミレスを出たのは午前六時過ぎだった。空が白み始め、始発電車の音が遠くから聞こえる。普通の朝が、普通に始まろうとしている。


「ごちそうさまでし、あ、あれ?」


身なりを整えて、奢ってもらったことに感謝を述べようとするとすでに店長の姿はなかった。


「店長、どこいった?」

「店に住んでるんだよ、だから店に帰った。私の家はあっちだから、じゃあね」


 天音が片手を上げて、駅のほうへ歩いていく。『I ♡ HELL』が朝日に照らされて、妙にポップに輝いていた。


「……また明日」


 また明日、俺はあの店に行くのか。でも、歓迎会までしてもらっちゃったし、行かないわけには。ゆっくりとアパートへの道を歩き始める。やたらと眠い。しかし、深夜労働をこなした体は、どこかいい疲労感だった。明日は、どんな客がくるんだろう。

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