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第20話:店長(見習い) 相馬 廻

壁のヒビが、大きく開いた。


 ひびに沿って、オレンジ色の温かい光が溢れている。毎晩のドンゾコの店内とは違う、夕暮れみたいな色をしていた。誰かの体温みたいな色だ。


 光の中から呼吸が聞こえた。体全体で感じられる、千歳ちとせさんの呼吸。この店ごと、千歳さんが呼吸していた。俺たちはずっと、この中で守られていたのかもしれない。


「……千歳」


 鬼怒川きぬがわ店長のリーゼントの影が、オレンジの光に照らされて壁に映っている。二十五年間ずっとそうしてきたように、壁に手を当てた。


 しかし、今夜は違う。手が——壁の中に、沈んだ。光が、店長の手を飲み込んでいく。手首から肘、肘から肩へ。引っ張られているんじゃない。店長が自分から入っていっている。


「店長! 店長!!」


 俺が叫んで駆け寄ろうとすると、天音が俺の腕をつかんだ。


「——待って」


 天音あまねの目が、壁を見ていた。光を見ていた。俺には見えない何かを、天音は見ていた。


「……泣いてる」

「え?」

「壁が——千歳さんが、泣いてる。なんだろう、ホッとしてる」


 天音に見えるものが、俺には見えなかった。でも、店の暖かさは感じられる。鬼怒川店長が、壁の中に半分沈んだまま振り返る。腕も、胴も、リーゼントも、全身が透けていた。でも、最後まで仏頂面だけははっきりしていた。


「天音」

「はい」

「霊紋のこと——無理すんな。お前にしかできないことは、お前にしかできない分だけでいい」


 天音が唇を噛んだ。頷いた。


「ざしき」

「……うん」

「幸せになれよ」

「ざしきがいるだけで、幸せなんだよ!」


 店長が、俺を見た。


「新人」


 ——最初に会った日と同じ呼び方だった。


「はい」

「POPの極意、教えとく」

「え、今——」

「字は下手でいい。絵も下手でいい。——客のことを考えて書け。それだけだ」


 客のことを考えて書く。当たり前のことだ。POPの基本中の基本。でも、この人が言うと、当たり前のことが当たり前じゃなくなる。この店の客は、死んだ人間と、行き場のない妖怪だ。彼らのことを考えて書け、と。彼らが手に取りたくなるように、彼らが少しだけ救われるように。


「……はい」

「あと、メシはちゃんと食え。死ぬぞ」

「店長にだけは言われたくないです」


 言ってから気づいた。しまった。この人、もう死んでる。店長が——笑った。


「……違ぇねぇ」


 壁の光が、ふわりと強くなった。店長の体が胸まで、首まで、さらに沈んでいく。蛍光灯が——全部、一斉に灯った。安定した温かい光が、店内を満たしていた。蛍光灯なのに蛍光灯の色じゃない。二十五年前、この店を建てた人の色だった。


 千歳さんが、最後の迎えに来た。


「——おう」


 店長が、壁の向こうに声をかけた。俺たちには見えない誰かを見ている。


「千歳」


 壁の光が、返事みたいにもう一段明るくなった。鬼怒川店長の体が、完全に光に沈んでいく。最後に見えたのは、かっこいい広い、あの背中だった。


 光の中の何かで、誰かを抱きしめている。


「待たせたな——行こう」


 その一言で、壁が閉じた。


     ◇ ◇ ◇


 光が消え、暗闇が襲ったが、もうすでに外には朝日のうす明るさが広がっていた。もうすぐ五時だ。


 壁を見ると、ひびがない。あんなに大きく裂けていたのに、壁はつるりとした灰色に戻っていた。ただ——壁の色が、少しだけ変わった気がした。


 レジを見ると、当たり前だが……誰もいない。


 パイプ椅子、商品棚、蛍光紙のPOPはあるのに、レジの奥に立っているはずの、リーゼントの男がいない。カウンターの上に残された『代理店長 鬼怒川』の名札だけを残して——いなくなった。


 本当にいなくなった。


 天音が崩れるように座り込むと、ざしきが天音の膝に飛び込んだ。俺は——立っていた。立っているしかなかった。座り込んだら終わりだと思った。店長がいなくなった瞬間に座り込む店長はいない。俺は、この店を継ぐと言ったんだ。


 店長のために書いた最後のPOP。『代理店長 鬼怒川 ——二十五年間、ありがとうございました』。店長の手から、いつの間にかカウンターに戻っていた。持っていかなかったのか。いや——置いていったんだろう。


 おぼろが音もなく、俺の横に立った。


「——いい店ですね。境界はリセットされました。しばらくは安定します。——新しい管理者に移行するまでの間、私が繋ぎを務めます」

「……あなたは、結局何者なんですか」


 今なら聞ける気がした。


「案内人です。ずっとそう申し上げている通り」

「案内人って——」

「境界の案内人。迷った魂を、あるべき場所に案内する者。——鬼怒川さんも、私の古い知り合いでした」


 二十五年前からの知り合いだったのか?


「千歳さんのことも?」


 朧が頷いて微笑んだ。


「千歳さんは、私が案内するはずだった魂です。でも彼女は案内を断った。自分の魂で店を建てると言って。——頑固な方でした。鬼怒川さんと、よく似ていた」


 鬼怒川店長と、千歳さんと、二人とも頑固だったらしい。お似合いの二人の生前の姿が見たかったな。朧が自動ドアに向かう。


「次にお会いするときは、管理者の引き継ぎの話をしましょう。——店長さん」


 朧が俺を、店長と呼んだ。


「まだ店長じゃないです。名札もないし」

「名札は、ご自分で書いてください。POPと同じように」


 朧が静かに、明るい店外へ出て行った。


     ◇ ◇ ◇


 午前五時になったので、天音と二人で店を閉めた。店内はまだキレイではないが、それは明日以降に整えればいい。レジの下で、店長が使っていたマジックペンを見つけた。


 俺はそのマジックペンを手に取って、蛍光紙を一枚取った。名札を書く。お世辞にも綺麗とは言えない字で。


 『店長 相馬そうま めぐる


 ——いや、違う。


 書き直した。


 『店長(見習い) 相馬 廻』


 天音が横から覗いた。


「見習いって」

「だって見習いだし」

「店長がカッコの中に注釈入れてるの、ダサすぎない?」

「うるさい。いいんだよこれで」


 天音がモップを片付けながら、ふっと笑った。


「……壁、触ってみた?」

「え?」

「触ってみなよ」


 俺は壁に近づいた。店長がいつも手を当てていた壁だ。手を当てる。


 ——温かい。


 コンクリートの温度じゃない、もっと柔らかくて、もっとやさしい温度。まるで、誰かの手のひらみたいな。


「……ありがとうございます。鬼怒川さん、千歳さん」


 壁に向かって呟いた。


 蛍光灯がふわりと一回だけ、明るくなった。


 返事みたいに。


     ◇ ◇ ◇


 外に出て、天音と並んでいつもの交差点を歩く。東の空がだいぶ明るい。


「天音」

「ん」

「店長って呼ぶなよ。俺のこと」

「呼ばないよ。見習いでしょ」

「それもやめて」

「じゃあ何て呼ぶの」

「廻でいい」

「めぐ、る……やだ、新人クン、のままでもいい?」


 信号が青になり振り返ると、ドン・ゾコの看板が見えた。朝の光の中で、看板がまだ見えている。薄く、ぼんやりと。閉店セールの張り紙は消えていたが、看板だけが、朝日の中で光っていた。


 ——大丈夫。


 そう思った。根拠はない。POPの腕前はまだまだだし、仕入れルートは知らないし、境界の開閉も覚えていない。


 でも、この店は続く。千歳さんが建てて、鬼怒川店長が守って、俺たちに渡してくれた店。


 天音が隣で欠伸をした。


「……朝ごはん、卵かけご飯?」

「納豆も食べるよ」

「栄養バランスの話、店長に最後まで言われてたよね」

「ヨーグルトも食べるかな」


 朝の風が、背中を押す。暖かい、風だった。

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