第21話:ドン・ゾコ黄泉比良坂店は、明日も営業しています
午前一時四十五分。出勤。
いつもの道を歩いて、いつもの角を曲がって、いつもの行き止まりに出ると、ドン・ゾコの看板がぼんやりと姿を見せている。従業員入り口から入り、横のスイッチを入れ、ホコリっぽい控室でエプロンを付ける。続けて店内の電気、蛍光灯を点けるとぱちぱちと音を立てて店内が照らされた。壁一面の商品、そしてPOPが浮かび上がる。
この一年で百枚を超えた。新商品が入るたびに書いて、季節が変わるたびに書いて、面白い客が来るたびに書いた。猫缶のPOPは三回も書き直した。人語を話す猫が「文字が小さい」と文句をつけてきたからだ。客のことを考えて書け、と店長は言った。猫の意見も客の意見だ。
レジの真後ろ、千歳さんの壁の上には、一枚だけ特別なPOPがある。
『代理店長 鬼怒川 ——二十五年間、ありがとうございました』
あの夜、店長に押しつけて、店長が置いていったPOP。一年経ったのに少しも色褪せないのは、この店が境界にあるからなんだろうか。
「おはようございます」
天音がモップを持って入ってくる。相変わらずの金髪ボブが鮮やかだが、どのぐらいの頻度で美容院に行っているのかは、まだ聞けていない。
「天音おはよ。今日の仕入れ、朧から連絡あった?」
「地下三階に置いてあるって。あとで取りに行く」
「三階か〜、もう迷わない?」
「……まだちょっと迷うよ」
「難しいよな、構造が毎回微妙に変わるし……」
鬼怒川店長がいなくなって知ったことはたくさんあるが、一番驚いたのはこのドンゾコは地下奥深くまで建物が続いていて、まるでダンジョンのようになっていることだ。謎だった仕入れは、その中で行われていた。俺も天音も、もう一年も経つのにまだ地下三階までしか踏み入れられていない。
天音がモップを動かし始める。袖から腕が見える。霊紋は——もうほとんど残っていない。境界がリセットされてから、霊に触った時の反動がずいぶん軽くなった。薄い線が手首にうっすら見えるくらいだ。
「ね、今日さ」
天音がモップの手を止めた。
「姉が来るかも」
「え、店に?」
「うん。見えるか分かんないけど、近くまで来てみたいって」
天音が姉にLINEを送ったのは、店長が成仏した翌週で、天音から連絡するのは初めてだったらしい。それから月に一回くらい、二人でごはんを食べに行くようになったと聞いている。
「生きてる人間にこの店が見えるのって、だいぶ追い詰められてる時だけでしょ。姉は普通に元気だから、たぶん見えないんだけどね」
「じゃあなんで来るの」
「……わたしがここで働いてるって話したら、『行ってみたい』って。見えなくてもいいから、楽しそう、って」
天音がモップを動かしながら、少し笑った。
「変な姉でしょ」
「いい姉じゃん」
「……うん」
ざしきが棚の上からぴょこんと顔を出した。
「おはよー」
「おはよう。棚の上——」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「片付けろっていうんでしょ。やだ」
鬼怒川店長でも無理だったものが、俺に片付けられるわけがない。
◇ ◇ ◇
客が来た。
常連の犬が尻尾を振って入ってきて、店内を一周して、何も買わずに帰る。でもレジの前で俺を見上げてくれるようになった。前は店長を見ていた。今は、俺を。
「——またね」
犬が尻尾を一回だけ振って、自動ドアの向こうに消えた。
花子さんズがトイレットペーパーを三つ持ってレジに来た。
「あんた、最近字うまなった?」
「え、そうですか」
「前よりは読みやすいわ。あ、花子さんバージョンのPOP、まだ?」
「描いてますよ。来週には」
「楽しみにしてるわ。トイレに貼るから」
口裂け女が来た。サングラスにマスクのフル装備だが、最近はカラコンを片方だけにしている。おしゃれの変化だそうだ。
「いらっしゃいませ」
「カラコンの度なし。あと、新しいリップ入った?」
「入りましたよ。マスクの下用の——」
「それそれ」
レジ袋を渡すと、口裂け女がマスクの上から微笑んだ。
「ねぇ、店長さん。わたし、たまに人間に見えてもいいかなって思うようになった」
「見られたいんですか?」
「……ちょっとだけね。こんなに綺麗にメイクしてるのに、誰にも見えないのはもったいないでしょ」
それもそうだ。口裂け女が出ていった。ハイヒールの音が遠ざかっていく。
◇ ◇ ◇
午前四時。
自動ドアが開いて、律が入ってきた。よれたスーツ姿は変わらないが、前より少しだけ顔色がいい。その後ろから、いつからいたのか、奏太がひょいと顔を出す。
「いらっしゃいませ!」
「……こんばんは」
律はいつもぎこちない。奏太はいつも通りニコニコして律に絡んでいる。
「律〜、どう、転職先」
「……まあ、ぼちぼち。うまくやっていけるといいんだけど」
「律ならできるっしょ」
二人の間に流れる空気は、最初に会ったときよりずっと穏やかになっていた。
「相馬さん、POP増えましたね」
珍しく律が話しかけてくれた。
「毎日、書いてるから」
「字、前よりうまくなりました?」
「……どうだろ? まぁ、流石に上手くなったか!」
奏太が横から口を出す。
「律、なんか買えよ。毎回手ぶらで帰んなって」
「幽霊に言われたくない。お前だって何も買わないだろ」
「俺は金ないから。死んでるし」
いつものやりとりだ。二人は来るたびにこんな感じで、それを聞くのが俺はわりと好きだった。
律のポケットの中で、古銭がかすかに光っているのが見えた。「来なくていい日が来たら捨てろ」と奏太に言われた、あの古銭だ。捨てる日は、まだ来ていないらしい。
それでいいと思う。急がなくていい。
◇ ◇ ◇
午前五時。閉店だ。
壁に手を当てると、ほんのり温かい。
「千歳さん、店長、今日もありがとうございました」
蛍光灯がふわりと光った。天音が棚を整理している。ざしきが棚の上で丸まっている。赤い着物の端っこが、いつも通りはみ出している。パイプ椅子は空っぽのまま、レジの横にある。
外に出ようとしたとき、自動ドアの向こうに人影があった。
女性だった。二十代後半くらい。天音に少しだけ似た顔立ちで、髪は黒くて長い。コートの襟を合わせて、店の前に立っている。
「あ——」
天音が声を上げた。
「お姉ちゃんだ」
天音の姉は、店を見ていた。正確には、店があるはずの場所を見ていた。俺たちには見える看板も、自動ドアも、蛍光灯の光も——たぶん、この人には見えていない。天音が自動ドアから外に出て、姉の前に立った。
「……来てくれたんだ」
「うん。見えないんだけど、本当にここにあるの?」
姉が店の方向を指差す。
「オバケがいっぱい来る店っていうからどんだけ辛気臭いんだろ、って思ってたのに、なんか、いい雰囲気じゃない?」
千歳さんだ、と俺は思った。千歳さんの温かさが、境界の外にまで漏れている。見えなくても、感じる人には感じるんだろう。 天音が姉の手を取った。
「紹介するね。わたしの——職場」
見えない店を指さして、天音が笑った。姉も笑った。似た笑い方だった。
◇ ◇ ◇
天音と姉が朝ごはんを食べに行ったので、俺は一人で店に戻った。
百枚を超えた蛍光紙が、消灯した蛍光灯の下でぼんやり光っている。一枚一枚に、この一年の記憶が入っている。猫缶のPOP。雪女用の冷感スプレーのPOP。人面犬のビーフジャーキーのPOP。激辛ラーメンのPOP。全部、客のことを考えて書いた。
レジの下から、蛍光紙を一枚取り出して、マジックペンのキャップを外す。
絵を描く。
リーゼントの男。仏頂面。腕組み。——鬼怒川店長。
その隣に、温かい光。壁の中から微笑んでいる女性。——千歳さん。
金髪でモップを持った女の子。——天音。
サングラスとマスクの美人。——口裂け女。
トイレットペーパーを抱えた三人組。——花子さんズ。
パーカーで茶色い髪の青年。——奏太。
スーツ姿のくたびれた男。——律。
赤い着物の子供。棚の上。——ざしき。
尻尾を振っている犬。——常連の犬。
そして端っこに、名札をつけた男。——俺。
成仏した人も、まだいる人も、壁の中の人もみんな笑顔だ。
真ん中に、大きく字を書く。店長の字には遠く及ばない。でも前より少しだけ、読みやすくなった字で。
『いらっしゃいませ』
書き終えて、入口の横に貼って少し離れて見る。下手だけど、いい感じ。明日も、蛍光紙を広げて、新しいPOPを書く。来る客のために。まだ来ていない客のために。
——いらっしゃいませ。
幽霊のお客様も、妖怪のお客様も、行き場のない魂も。
ドン・ゾコ黄泉比良坂店は、明日も営業しています。




