第18話:怪安の魔殿ドン・ゾコの秘密
「見えるだけじゃねぇ。話しかけてくるし、近づいてくる。しかし、俺が睨むとあいつらは怯えて逃げた。俺の霊力が強すぎて、幽霊のほうが怖がるんだ。……俺はつえぇからな。そんな俺が、十八歳のときに出会った女がいる」
鬼怒川店長の目が、遠くなった。壁を見ている。あの壁。
「名前は——」
蛍光灯がチカ、と明滅した。一回だけ。まるで、名前を呼ばれるのを待っているみたいに。
「——千歳」
蛍光灯が、ふわりと明るくなった。一瞬だけ。いつもの青白い光じゃなくて、温かい色の光。俺は息を呑んだ。天音も。ざしきも。
「千歳は——俺と同じで、霊が見えた。だが俺と違うところが一つあった」
店長が天音を見た。
「あいつは、霊に触れることができた。——お前と同じだ、天音」
天音の手が、ざしきの頭の上で止まった。
「……わたしと、同じ?」
「ああ。触れるたびに削られる。それも同じだ。お前の腕の霊紋と、同じものが、千歳の腕にもあった」
「千歳と俺は——」
ぶっきらぼうな店長が言葉を選んでいる。
「——恋人だった」
蛍光灯がまた、ふわりと揺れた。
「十八歳で出会って、二十で一緒に暮らし始めた。あの頃は霊の暴走がひどくなっててな。境界が不安定で、幽霊も妖怪も、行き場がなくて現世をうろうろしていた。口裂け女に人面犬、てけてけにくねくね、かまいたちなんてのもいたな。今のこの状況と似ている。いや——今よりもっとひどかった」
店長が拳を握った。
「千歳は境界を安定させるには、境界に『場所』を作ればいいんじゃないか? と考えた。霊が迷わずに来れる場所を作ろうと。現世とあの世の間に、店を——」
「店って……ここ? ドン・ゾコ?」
「ああ、そうだ。……この店は、千歳が建てた」
俺は店内を見回した。蛍光灯。棚。壁。床。天井。薄汚れたカウンター。安っぽい商品。
「でも、境界に建物を建てるなんて、普通の方法じゃできねぇ。建材がいる。境界を固定する力がいる。千歳が選んだ建材は——」
店長の声が震えた。この人の声が震えるのを聞いたのは初めてだった。
「——自分の命だ」
突然、店が揺れた。蛍光灯が明滅した。壁がきしんだ。
「千歳は自分の魂を使って、店を建てた。壁も、棚も、蛍光灯も、全部千歳の魂でできている。この店は——千歳そのものだ」
店長は、いつも手を当てていた壁を見つめた。「まだ大丈夫だ」と話しかけていた壁は、壁じゃなかった。千歳さん、だったんだ。
「最後に千歳が言ったのは——」
店長が目を閉じた。
「『お店、お願いね。……待ってるから』」
蛍光灯が、長く、ゆっくりと、明滅した。消えそうになって、また点いて。まるで呼吸するように。そんな辛いことがあるのか。感情をそのまま俺は吐き出す。
「千歳さんがそれを望んだとして、店長はなんでそれを許したんですか?そんな、悲しすぎる。二人で生きる道もあったんじゃないですか!」
「……もう、俺も千歳も限界だった。千歳の体は霊紋でいっぱいになっていて、もうその時の俺には救い方がわからなかった。若かったんだろうな」
天音の膝の上で、ざしきが泣いていた。声を出さずに。赤い着物の袖で目を擦っている。天音はざしきを抱きしめたまま、唇を噛んでいた。
「それから二十五年、俺はこの店を守ってきた。千歳の代わりに。代理店長として」
ずっと気になっていた名札の「代理」。最初に見たときから引っかかっていた言葉は、そういうことだったのか。
「本当の店長は、千歳だ。俺はずっとこの店を預かってるだけだ」
店長が目を開けた。
「だが——限界だ。朧の言う通り、俺の力はもう持たない。千歳が建てた店が壊れかけている。蛍光灯が明滅するのは、千歳が苦しんでるからだ。俺のせいで」
「店長のせいじゃない——」
「俺のせいだ」
店長が強い声で遮った。でも、怒りじゃない。
「二十五年間、俺は一人でこの店を回してきた。千歳に話しかけて、壁に手を当てて、大丈夫だと言い聞かせて。でも大丈夫じゃなかった。一人で境界を支えるには限界がある。千歳もそれを分かっていたはずだ。だから——」
店長が、俺を見た。
「お前らが来た」
俺と天音を、交互に見た。
「天音が来て、廻が来て。——正直、助かった」
ぶっきらぼうの権化みたいな人間が『助かった』と言うなんて。目頭がじわりと涙で滲む。
「でも、助かったからこそ、分かったんだ。もう限界だって。お前らがいなかったら、とっくに崩壊してた。お前らが来てくれたから、ここまで持った。でも——これ以上は」
店長の右手が、また透けた。今度は一瞬じゃなかった。三秒、四秒消えてたあと、ゆっくりと戻った。
「……朧は正しい。俺が成仏すれば、境界はリセットされる。千歳の魂も解放される。店は残る。新しい管理者が引き継げば」
「じゃあ——」
「だが」
店長が立ち上がった。
「今日じゃねぇ。明日でもねぇ。まだやることがある」
「やることって」
「お前らに、この店の全部を教えること。商品の仕入れルート、境界の開閉の仕組み、常連への対応。——POP書きの極意もな」
店長の口角が、ほんの少しだけ上がった。笑顔は結構可愛いんだよな、とその場に似つかわしくない感想が脳裏をよぎった。
「俺がいなくなっても回るようにする。それが終わるまでは、まだここにいるから、バシバシしごいてやる」
天音がパイプ椅子の音をならしながら勢いよく立ち上がった。
「店長!」
「なんだ」
「……ありがとう。話してくれて」
「礼を言うな。言うのが遅すぎただけだ、悪かったな」
ざしきが天音の足にしがみついたまま、鬼怒川を見上げる。
「こわいおじちゃん、いなくなっちゃうの?」
店長がざしきの頭をぽんと叩いた。
「すぐにはいなくならねぇよ。——棚の上、片付けとけ」
「やだ」
即答するざしきに店長は満面の笑みを見せた。
◇ ◇ ◇
帰り道は今日も、天音と二人。信号が赤になる、いつもの交差点。
「千歳さん、って——」
天音が呟いた。
「わたしと同じ力を持ってて、自分の命で店を建てた人」
「うん」
「……すごい人だったんだね」
信号が青になり、二人で歩き出す。
「天音」
「ん」
「俺、この店を継ぎたい」
天音が立ち止まる。
「……急にどうしたの」
「急じゃないよ。ずっと考えてた…なんて。嘘。急だよ。今、決めた」
天音がじっと俺を見ている。
「就活全敗のフリーターが、幽霊向けディスカウントストアの店長になるの?」
「字はへったくそだけど」
「絵は描けるけど」
「POPは店長と連名だけど」
「店長がいなくなったら字も描かないとだよ」
「……練習する」
天音がふっと笑った。笑うとタレ目になる顔が可愛らしい、と、思った。
「……頼りないけどね。まぁ、他にいないしな〜」
「褒めてる?」
「褒めてない。マシって言ってるだけ」
マシ。天音のいちばん強い褒め言葉だ。
東の空が白む。看板が消えていく。今朝は——消えるのが少しだけ早かった気がした。
気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃないといいと思った。




