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第17話:鬼怒川店長の告白

 次の日、俺は出勤するのが怖かった。


 午後二時に起きて、卵かけご飯を食べて、スマホを見て、テレビをつけて。いつもと同じ昼間。でも、頭の中は昨夜のことでいっぱいだった。


 店長の手が透けていた。おぼろが「成仏しろ」と言った。店長が死んでいると知った。二十五年間。店長はずっと死んでいた。


 あのリーゼントも、あの仏頂面も、あの達筆なPOP文字も。全部、死んだ人間のものだった。


 ——いや、違う。


 死んでいようがいまいが、鬼怒川きぬがわ店長は鬼怒川店長だ。俺を「人手が足りねぇ」で雇って、POPの書き方を教えて、殺された客のそばに黙って立ち続けた人だ。


 それは変わらない。変わらないはずだ。


 でも、手が透けていたのは、嘘じゃない。


     ◇ ◇ ◇


 午前二時、何食わぬ顔ができているかはわからないが……いつも通り出勤すると、店の前に天音あまねが立っていた。中に入らず、従業員用ドアの前で、突っ立っている。


「……天音?」

「あ。……おはよ」

「入らないの?」

「入るよ。入るけど」


 天音がドアの前で足踏みしている。昨夜泣いていた目は、もう赤くない。でも顔色が悪い。


「……店長の顔、見るのがちょっと」

「うん」

「でも、入る」

「うん」


 二人で同時に店に入った。蛍光灯がチカチカしている。いつもの光景——いや、いつもの光景がいつもの光景に見えない。朧は言った。この蛍光灯も、この壁も、この棚も「建物が疲れている」と。


「遅ぇぞ」


 鬼怒川きぬがわ店長がレジの奥にいた。いつもの仏頂面に、いつもの腕組み、いつものリーゼント。今日はまだ、透けていない。



「すみません、ちょっと寝坊しました」

「お前はいつも寝坊だ」

「5分前です」

「それは遅刻寸前っつーんだ」


 天音がバックヤードにモップを取りに行き、俺は棚の整理を始める。昨日の話をどこかで隠れて聞いていた様子の奏太はパイプ椅子にいない。今夜はまだ来ていないのか。ざしきは棚の上で丸まっている。赤い着物の端っこがいつも通りはみ出している。


 全員が、今夜も“普通”にしようとしている。


     ◇ ◇ ◇


 客は少なかった。


 たまにくる化け猫と、電池を探しに来た少年の霊。穏やかな客で、怨念も黒い霧もなかった。持て余した時間で、俺は新商品の霊感キャンドルのPOPを描いていた。ロウソクの炎の絵を描いて、周りに小さな魂の光を散らす。字は店長に——。


「店長、字お願いします」


 蛍光紙を差し出した。店長は受け取って、俺の絵をじっと見る。


「……炎の描き方、うまくなったな」


 店長に褒められた。こんなタイミングで。


 店長がマジックペンを取って、キュキュキュッと、いつもの手つきで文字を入れていく。迷いのない線だ。達筆というのは、まさにこのことを言うのだろう。完璧なレイアウトだ。


 その手が、昨夜透けたのだ。


「……店長」

「なんだ」


 言おうか迷ったけれど、モヤモヤし続けるのも嫌だ。今までの俺だったら、スルーして、なかったことにしていたかもしれないが、口を開いた。


「昨日、朧が言ったこと。俺、まだ整理できてないです」


 店長の手が止まった。マジックペンのキャップを閉じて、蛍光紙をカウンターに置いた。


「……だろうな」

「店長が二十五年前に死んでるとか、成仏とか。頭では聞いたけど、全然実感がない。だって店長、普通にここにいるし。普通にPOP、書いてるし」


「普通じゃねぇよ。俺は」


 店長が、低い声で言った。


「死んでる。二十五年前に死んだ。それは本当だ」


 初めてだった。店長自身の口から、はっきりと聞いた。昨夜は朧が言っただけで、店長は否定も肯定もしなかった。


「……じゃあ、なんで——」

「ここにいるのか、か?」

「はい」


 店長が壁を見た。


「この店を、任されたからだ」


 店長が長く息を吐いた。煙草を吸わないのに、煙を吐くみたいな溜息は、店長のクセだ。


「……お前ら、聞きたいか。俺がなぜここにいるか。この店が何なのか。全部」


 天音がモップの手を止め、振り返って店長を見る。


「……聞きたい」


 天音の声は小さいけど、はっきりしていた。


「俺も聞きたいです」


 鬼怒川店長が腕組みを解いて、バックヤードに向かう。パイプ椅子を三つ並べて、座れと顎で示した。俺と天音が座ると、ざしきが棚の上から顔を出して、こっちを見る。


「ざしき、お前も聞くか」

「うん」


 ざしき相手の店長はいくらか優しそうになる。棚から降りてきた座敷は、天音の膝の上に座り天音は無言でざしきの頭を撫でた。


 鬼怒川店長が、残りのパイプ椅子に座る。ガタン、と音がした。


「……俺は昭和の終わり頃に生まれた。実家はクソみたいなとこで、親父は酒飲みで、お袋は俺が中学のときに出ていった。高校は三日で辞めた。喧嘩だけが取り柄のクソガキだった」


 店長の声が、いつもと違った。低いのは同じだが、角が取れている。思い出話をする時の声だ。


「そのクソガキは——ガキの頃から、見えたんだ。幽霊が」


 俺と天音が顔を見合わせた。

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