第13話:わたしの隣は、ずっと空席だった
「そう。新人クンと同じ。どん底の人間には見えるから、この店」
奏太が口を開きかけて、閉じた。こいつにしては珍しい。
「……続けていい?」
「うん」
天音がバケツから目を離して、天井を見上げた。バックヤードの天井は蛍光灯が一本だけで、薄暗い。
「ドン・ゾコに来たのは、二年前の冬。夜中の三時くらい。家を出て、あてもなく歩いてたら、たどりついた。自動ドアが開いて、入ったら——レジの奥にヤンキーが立ってて、霊より怖かった」
鬼怒川店長がわずかに眉を動かした。
「俺は怖くない」
「知ってます。でも、初対面の人間はみんなその髪型でドン引きです」
「ドン引きとはなんだ」
天音がふっと笑う。この二人のやりとりは、いつ見ても漫才みたいだ。
「店に入った瞬間、分かったの。ここ、霊がいるって。普通の店じゃないって。でも不思議と逃げようとは思わなかった。外よりずっと温かかったから。気温の話じゃないよ。わたしの周り、いつも冷たいから。霊が寄ってくるせいで。電車でも、家でも。——でもここは違った。霊がたくさんいるのに、冷たくなかった。むしろ、ちゃんとした温度があった」
俺に霊は寄ってこないが、なんだかわかる気がした。この店はリアルお化け屋敷のようだけれど、温かい。
「店長にはなんで“触れる”ことがわかったの」
「店の中を眺めてたら、棚の陰から霊が、ひょっと出てきて。犬の霊。——わたしがその犬を無意識に避けたのを見て、店長は見えることが分かったんだと思う。見える人間の避け方って、見えない人間の避け方と違うから」
鬼怒川店長が、何も言わない。ただ壁に背を預けて、腕を組んでいる。
「『採用だ』って言われた。履歴書もなしで。時給も聞いてないのに。わたしが『バイトの応募なんてしてないんですけど』って言ったら——」
「『人手が足りねぇんだ』」
天音と鬼怒川店長が同時に言った。天音が口元を手で覆った。笑っている。
「——それ、俺のときと同じじゃん」
俺も言った。まったく同じだ。同じセリフで雇われた。この人、何人そのやり方で採用してるんだ。
「……必要だったからだ。それだけだ」
鬼怒川店長が低い声で言った。
「天音。お前がここで働くようになって、店の回転が変わった。霊に触れる人間がいるといないとでは、全然違う。お前がいなきゃ、幽霊船の夜は乗り切れなかった」
「……うん」
「だが、それと引き換えに、お前の体が壊れていくのは——」
店長が言葉を切った。壁を見た。何かに話しかけるような、あの顔。
「……俺は、もう二度と、同じことを繰り返すつもりはねぇ」
低くて、重い声だった。「同じこと」というのは、触れる力を持っていた、もう一人の——。
天音が鬼怒川店長を見上げた。
「店長。わたし、辞めないよ」
「そういう話をしてるんじゃねぇ」
「辞めないし、死なないし、幽霊にもならない」
天音の声が強かった。いつものドライな声と違う。芯がある。
「ここが、わたしの居場所だから。お姉ちゃんが出ていって、お母さんとも暮らせなくなって、学校も辞めて——全部なくなった後に、ここだけ残った。ここを手放すくらいなら、腕の一本くらい」
「馬鹿言ってんじゃねぇ」
鬼怒川店長が声を荒げた。天音が一瞬びくっとする。店長が声を荒げるのは珍しくないけど、今の怒り方は違った。怒りの下に、別のものが透けていた。
「腕一本で済む話じゃねぇんだよ。あいつも——」
また、途切れた。「あいつ」。さっきも言いかけて止めた名前。
「……その話は、いつかちゃんとする。今日じゃねぇ」
鬼怒川店長がバックヤードの扉に手をかけた。
「新人」
「はい」
「お前に聞く。天音の話を聞いて、どう思った」
急に振られた。奏太がこっちを見ている。天音も見ている。
——どう思ったか。
正直に言えば、怖い。天音の腕に浮かんだ霊紋は、見た瞬間に背筋が冷たくなった。触れるたびに削られる。全身に回ったら幽霊になる。そんなの、怖いに決まっている。
でも。
「……俺、店長や天音と比べるとなにもできないんですけど」
鬼怒川店長が黙って待っている。
「POP一枚で気持ちが動く客もいた。首なしライダーも、花子さんも。霊に触らなくても、この世の未練から解放してあげる方法はあると思うんです」
言葉がまとまらない。でも止められない。
「だから——天音が触らなくてもいいように、俺がもっとやれることを増やします。POP書くのも、絵を描くのも、客の話を聞くのも。天音一人に全部背負わせない方法を、俺が見つけます」
沈黙。
奏太が「おー」と小さく呟いた。鬼怒川店長が俺を見ている。表情は変わらない。でも、さっき天音を見ていたときと同じ——遠い目。何かを重ねている目。
「……百年早ぇな」
「百年で済むなら、短いものかもしれないです」
鬼怒川店長がバックヤードを出ていった。残された三人、しばらくの間その場に佇んでいた。
「新人クンが言うとさ」
天音が静寂を破る。
「ん」
「なんかできそうな気がするから不思議」
天音の声が、少しだけ震えていた。泣いてはいない。泣く手前の、もっと奥のところだ。
「……ま、期待しないで待っとく」
「……期待してくれていいよ」
「うわ、気持ちわる。結構気持ちわる。」
奏太が「いいシーンなのにぃ!」とツッコんだ。ざしきが棚の上で「うるさぁぃ……」と寝言を言った。
◇ ◇ ◇
閉店作業。いつもの流れ。レジ締め、棚の整理、モップがけ。
今夜は天音がモップを持たなかった。俺が「貸して」と言ったら、天音は少し驚いた顔をして、黙ってモップを渡した。
「……別に、できるけど」
「知ってる。でも今日くらい休んでいいでしょ」
天音がレジカウンターに肘をついて、俺がモップをかけるのを見ている。視線が背中にくっついている感じがする。
「新人クン」
「ん」
「絵、もっと描いたほうがいいよ。字はまだクソだけど、絵はいいと思う。ラーメンのPOP、湯気のところ好きだった」
不意打ちだった。天音が具体的に何かを褒めてくることは、ほとんどない。
「……ありがとう」
「お礼言わなくていいって言ったでしょ」
「それは天音の話。俺はお礼言いたいときに言う」
天音が何か言いかけて、やめた。カウンターに突っ伏す。金髪が広がる。
「……めんどくさい奴」
褒めてるのか貶してるのか。たぶん、天音の中では、どっちでもない第三の何かなんだと思う。
◇ ◇ ◇
帰り道。天音と二人で歩く。いつもの道。コンビニの明かりと、信号の点滅。 いつもは天音が半歩先を歩く。今日は横に並んでいた。
「ねぇ」
「ん」
「お姉ちゃん、LINEくれるんだ。大学生活が楽しそうな写真も送ってくれる。」
「返してるの?」
「『元気』だけ、返してる。」
「……天音らしいけど、たまには写真とか送れば? 撮ってあげようか」
「絶対イヤ」
信号が赤になった。立ち止まる。車は一台も通らない。深夜の交差点に、俺と天音だけ。
「でも、お姉ちゃんに、いつかこの店のこと話したいなって。ちょっとだけ思った。今日」
信号が青に変わった。天音が歩き出す。
「話せばいいじゃん」
「なんて説明すんの。『深夜のディスカウントストアで幽霊相手にバイトしてます。腕に霊紋出てるけど元気です』って?」
「いいんじゃない。嘘じゃないし」
天音が立ち止まった。振り返る。
「……新人クン」
「ん」
「明日も出勤する?」
「するよ。毎日してるでしょ」
「うん。——じゃ、また明日」
天音が角を曲がっていく。いつもの帰り道。いつもの別れ方。でも今夜は、天音の背中が少しだけ軽く見えた。パーカーのフードが裏返っているのは直っていなかったけど。
東の空がうっすら白み始めている。午前五時。ドン・ゾコの看板が、朝の光に溶けるように薄くなっていく。
近々、続きの話を聞こう。鬼怒川店長が言いかけて止めた、「あいつ」の話を。




