第12話:わたしより幽霊のほうがマシ
激辛爆辛ラーメン事件から三日。あのPOPのおかげで在庫は地味に減っていて、一日に二、三個ずつ売れている。マーケティングってすごいんだな。しかし、今夜は客が少ない。午前三時を過ぎて、来店は常連の犬の霊が一匹だけ。ペットフードを眺めて満足そうに帰っていった。買わないのかよ。
「ひまーひまひまひま〜〜」
奏太がレジ横のパイプ椅子でだらけている。足が透けているのに行儀悪く組まれているのがわかる。
「ひまなら棚の整理でも手伝ってよ」
俺がそういうと、奏太は唇を尖らせる。
「えー、俺バイトじゃないし。客だし」
「客なら何か買え」
「この店のもの、あと一歩“いらない”んだよな」
それはそうだ。そのうちやってくるお正月には福袋が売られるらしいが、あの世に持っていくにはゴミすぎる。ざしきは棚の上で丸くなって寝ていて、赤い着物の端っこが棚からはみ出していて、商品のタグみたいになっていた。
「新人クン」
天音がモップを動かしながら言った。
「ん?」
「字、前よりマシになったね」
「……マシ?」
「ほめてるの。受け取って」
俺が激辛ラーメンの横に貼ったPOPを見る。字はまだガタガタだけど、ラーメンの絵を横に描いた。湯気がもくもく出てるやつ。天音が「絵はいいのに字で台無し」と言ったのが三日前で、それが褒め言葉なのか貶し言葉なのか未だに判断がつかない。
平和な夜だ。こういう夜があってもいい。何も起きなくて、蛍光灯がジーッと鳴ってて、天音がモップの水を替えに行って、奏太が「なんかおもしろいことない?」と聞いてきて、鬼怒川店長がぶっきらぼうに返す。この繰り返し。
——でも、平和な夜ほど、気づいてしまうこともある。
◇ ◇ ◇
モップの水を替えに行った天音が、なかなか戻ってこなかった。
バックヤードの水道は店の裏にある。蛇口をひねって、バケツに水を溜めて、戻ってくるだけ。いつもなら二分もかからない。
十五分は経った。
「……天音、遅くない?」
奏太がパイプ椅子から首を伸ばす。鬼怒川店長はレジ奥で腕を組んだまま、何も言わない。でも目線がバックヤードの方を向いているのは分かった。
「ちょっと見てくる」
俺がバックヤードの扉を開けると、天音はバケツの横にしゃがみ込んでいた。水道は出しっぱなし。蛇口から水がバケツを溢れて、コンクリートの床をじわじわ濡らしている。
「天音?」
天音が左腕を右手で押さえていた。ぎゅっと。服の上から。痛いのを我慢しているときの、あの握り方だ。
「大丈夫。水、止めるの忘れてただけ」
嘘だ。天音も、鬼怒川店長と同じで、嘘が下手だ。
「腕、見せて」
「……やだ」
「天音」
「やだって言ってんの」
強い声だった。でも、震えていた。よく見ると髪は傷んでいるし、前よりも痩せている。もともと細い体が、さらに弱々しく見えた。
俺は水道の蛇口を閉めた。溢れた水がコンクリートの隙間に吸い込まれていく。蛍光灯の安っぽい光が、天音の金髪を白っぽく照らしている。
「……前から気になってた」
言ってしまった。
「幽霊船の夜。何十人も霊を掴んだあと、天音の腕……。聞いたら『見間違いじゃない?』って言った。あれ、嘘だったでしょ」
天音が顔を上げた。目が合う。いつものドライな目じゃなくて、もっと奥のほうが揺れていた。
「……座敷童子を抱き上げた時も。左腕に何か浮かんでた。天音がすぐ袖を引いたから、はっきりとは見えなかったけど」
「……新人クンってさ」
天音が、ゆっくりと立ち上がった。
「変なとこ、見てるよね」
左腕を押さえていた右手を離す。天音がパーカーの袖をゆっくりとまくった。左腕の、二の腕の内側に
——青白い紋様が、浮かんでいた。
静脈みたいに枝分かれしている。でも血管じゃない。もっと細くて、もっと冷たい光を帯びている。蛍光灯の光とは違う、自前の光。まるで肌の下に霜が張っているみたいだった。
「……なに、これ」
「霊紋。って、店長は呼んでる」
天音がまくった袖をそのままにして、自分の腕を見下ろす。
「霊に触ると、できるの。一回触るたびに一つ増えるわけじゃなくて、じわじわ広がっていく感じ。最初は手首だけだった。半年前くらい。今はここまで来てる」
肘から上、二の腕の途中まで。青白い枝が、何本にも分かれて広がっている。
「これが——」
俺は思わず、息を呑んだ。
「わたしが、あっち側に引っ張られてる痕だって、店長は言ってた」
あっち側とは、死者の世界ということか。
「触れば触るほど、削られる。そのうちこれが全身に回ったら——」
天音が、ふっと笑った。笑い方がいつもと違った。
「わたしのほうが幽霊になる。……ま、そしたら霊のほうがマシだから、ちょうどいいかもね」
——わたしより幽霊のほうがマシ。
天音が時々呟く、あの言葉。軽い口癖だと思っていた。ドライな天音が、ちょっと自虐っぽく言う冗談だと。
冗談じゃなかった。
「それ、鬼怒川店長は知ってるの」
「最初から知ってるよ。——むしろ、それでわたしを雇ったんだと思う」
「どういう……」
「昔。店長が知ってた人に、同じ力を持った人がいたって。その人も、霊に触れることができた。その人のことは、あんまり教えてくれなかったけど……」
天音が袖を下ろした。霊紋が布の下に隠れる。
「わたしがここに来た時、店長が最初に聞いたのは『お前、触れるのか』だった。履歴書も年齢も聞かないで。それだけ聞いて、『採用だ』って」
鬼怒川店長が知っていた、同じ力を持った人とは誰なんだろうか。店長が時々見せるあの表情——店の壁を見つめて、何かに話しかけるような顔に、何か手がかりがあるような気がした。
「天音」
「なに」
「なんで、今まで言わなかったの」
天音が少し考えてから、答えた。
「……言ってどうなるの。新人クンに言っても治らないでしょ。心配させるだけじゃん」
「心配、するよ。当たり前じゃん」
「だから言いたくなかったの。戻ろ。店長に怒られる」
水がたっぷり入ったバケツを細い腕が持つ。
「天音」
「……なに」
「ちゃんと聞かせてよ。全部。天音がいつからその力を持ってるのかとか、どう思ってるのか、とか」
「……今度でいいでしょ」
「いや、今がいい」
俺が言い切ると、バックヤードの扉が開いた。そこには、鬼怒川店長が立っていた。どこから話を聞いていたんだろうか。天音と俺を……優しい目で見ている。
「天音。見せたんだな。」
天音が小さく頷いた。鬼怒川店長が、長い息を吐く。煙草は吸わないくせに、煙を吐くみたいな溜息だった。
「……入れ。二人とも。話がある」
店長がバックヤードの奥にあるパイプ椅子を指さしたので、二人で座った。いつの間にか奏太が入口から顔を覗かせている。
「奏太。お前も聞いとけ。ざしきは寝かしておけ」
「え、俺もいいの」
「関係ねぇ話じゃねえからな」
四人がパイプ椅子に座る。鬼怒川店長がゆっくりと口を開いた。
「天音の力は——昔、俺が知ってた女と、同じもんだ」
店長の目が、一瞬だけ遠くなった。
「あいつも、霊に触れた。触れるたびに削られた。そして最後に——」
言葉が、途切れた。鬼怒川店長が続きを言わない。天音が黙っている。奏太が珍しく口を閉じている。
俺は待った。
「……その話は、また今度だ」
鬼怒川店長が立ち上がった。パイプ椅子が、ガタンと鳴る。
「今日は天音の話を聞け。天音、こいつらに話せ。お前の過去。お前がここに来るまでのこと」
天音が、バケツの水面をじっと見つめていた。そこに映る自分の顔を確かめるみたいに。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「——わたし、五歳のときに初めて幽霊に触ったの」
天音の声が、いつもより少しだけ高かった。子供の頃の自分を思い出すとき、人は無意識に声が高くなると誰かに聞いたことがある。
「幼稚園の帰り道にね、おばあちゃんが立ってた。手を差し伸べられて、近所のおばあちゃんだと思って手を繋いだの。そしたらすっごい冷たくて。隣にいたお母さんが、私を見て『誰かと手を繋いでる?』って怖がってた。お母さんには、おばあちゃんの姿が見えなかったから。だから『近所のおばあちゃんだよ?』って言ったら、お母さんは悲鳴を上げたの。だって、おばあちゃんは三日前に死んでたから」
天音が、自分の左手を見る。
「それからずっと、見えるし、触れる。触ると相手が安心するみたいで、寄ってくるんだよね。電車でも、学校でも、わたしの周りだけいつも冷たかった」
「……それで?」
「最初はお母さんが気づいた。『この子の周りだけおかしい』って。病院に連れていかれて、異常なし。お祓いに連れていかれて、効果なし。そのうちお母さんが怖がるようになった」
母親に怖がられる、そんな残酷なことがあるだろうか。
「中学のとき、クラスの子にも気付かれた。『天音ちゃんの隣の席、寒くない?』って。悪気はなかったと思う。でもそれから誰もわたしの隣に座らなくなった。」
「……」
「お姉ちゃんがいるんだけど、お姉ちゃんだけは私に優しかった。唯一の話相手だった。お姉ちゃんにも霊は見えなかったけど、それでも理解してくれた。そのお姉ちゃんが、大学に行くから家を出て……そこから、私は学校にも行かなくなった。それで、夜中に家を出て、ふらふら歩いてたら——」
「ドンゾコが、が見えたんだ」
俺が言った。天音が少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そう。新人クンと同じ。どん底の人間には見えるから、この店」




