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第10話:船幽霊のSOS

 その夜は、最初から空気がおかしかった。


 午前二時の十分前。まだ境界は開いていないはずなのに、蛍光灯がバチバチと激しく明滅している。ジーッという低い唸りが天井から降ってきて、棚の商品がかすかに振動していた。


「……また、変なのきたね」


 天音《天音》がモップの手を止めた。ざしきが棚の上で風呂敷にくるまっている。怯えているのか、手鞠をぎゅっと抱きしめて震えている。


「こわい。外がこわい」


 妖怪も、妖怪が怖いことがあるのか。奏太かなたがパイプ椅子から立ち上がって、入口のほうを見て叫んだ。


「え、なんか、すごい来る」

「すごいって何が」


 俺が訊ねると、奏太が叫んだ。


「すごい、多い!!」


 鬼怒川きぬがわ店長がレジの奥から出てくる。腕を組んでいない。珍しく、両手をカウンターについている。


「……全員、下がれ!」


 午前二時。


 蛍光灯が一斉に消えた。真っ暗になった店内に、自動ドアのスライド音だけが響く。


 そして——水の匂いがした。瞬間、人が……溢れていた。


 いや、人じゃない。霊だ。十人、二十人……数えきれない。全員がびしょ濡れで、着物や作業着がぼろぼろで、足元から水が滴っている。海藻が肩にかかっている者、顔が青白く膨れ上がっている者。


 幽霊船からのお客だ。しかも、何十人もいる。


「い、いらっしゃいま——」


 声が出なかった。


 これまでの客は、一人か、多くても三人だった。個別に話を聞いて、商品を勧めて、POPを書く。それが俺たちの仕事だった。


 でも今夜は違う。船から来た幽霊たちは買い物をする気配がない。棚を見ていない。商品には目もくれず、全員が同じ方向を向いて、何かに追われるようにこちらを見ている。


『た……助けてくれ……』


 先頭の男が、かすれた声を絞り出した。


『底から、何かが来る。押し寄せてくる。俺たちの居場所が——』

『頼む、ここなら安全だと聞いて——』


 声が重なる。何人もが同時に喋り始めて、聞き取れない。水の匂いが店内を満たす。床が濡れてきた。


「……お客様! 落ち着いてください! 一人ずつ——」


 俺は前に出ようとした。先頭の男の肩を掴んで落ち着かせようと手を伸ばす。だが。


 ——すり抜けた。


 俺の手が、男の肩を通り抜ける。冷たい水を掻くような感触だけが指先に残って、それ以外は何も掴めない。そうだ、相手は霊なんだから。


「新人クン!」


 天音が俺の横をすり抜けて前に出ると、先頭の男の腕をしっかりと掴んだ。


「大丈夫。ここは安全だから。座って」


 掴めている。天音の手は、霊の体を確かに掴んでいる。俺の手はすり抜けたのに。


「天音、なんで——」

「いいから! 新人クンは後ろの人たちを奥に誘導して! 声で! 触らなくていいから!」


 天音の声がいつもと違う。鋭い。俺は言いかけた言葉を飲み込んで、船幽霊たちの前に立った。


「お客様! 奥にスペースがあります! こっちに来てください!」


 俺は声だけで誘導する。何十人もの霊を、声だけで。


     ◇ ◇ ◇


 混乱は小一時間続いた。天音が前線で霊たちを一人ずつ落ち着かせている。腕を掴み、肩に手を置き、しゃがみ込んでいる者を引き起こす。一人、また一人。その手つきに迷いがない。俺はそれを見ながら、自分の手を見る。俺は触れられないのに、天音はなぜ……?


 奏太が棚の上から「こっちこっち! 奥空いてるよ!」と叫んでいる。奏太は霊だから声が霊に届きやすいのか、俺の呼びかけよりも霊達の反応がいい。ざしきは棚の上で震えていたが、不思議と彼女の周りだけ商品が棚から落ちなかった。座敷童子の「幸運」って、そういう使い方もできるのか。


 鬼怒川店長は入口に立って、押し寄せる霊の波を止めていた。両腕を広げて、自動ドアの前に立つ姿は、まるで堤防みたいだ。


「落ち着け! 客には客の礼儀がある。入るなら並べ」


 鬼怒川きぬがわ店長の声はぶっきらぼうだったが、船幽霊たちが少しずつ落ち着いていく。それでも、店の限界は見えていた。棚が軋む。蛍光灯がバチバチ鳴り続ける。店内に収容できる霊の数には限りがある。


「店長、まだ来ます!」

「……分かってる」


 鬼怒川店長の声に、初めて焦りが混じった。


「さすがに客が多すぎだ。店がもたねぇ」


 あと数人で店がパンクする、その時——船幽霊たちの波が、ぴたりと止まった。自動ドアを見ると、あの黒いコートの男が立っていた。


「——おやおや。大変なことになっていますね」


 穏やかな声だった。嵐の中に、凪が差し込んだような空気。男が一歩、店内に入った。それだけで、バチバチという音が消え、白い光が安定する。


「少しだけ、お手伝いしますよ」


 男が白い手袋を外す。自動ドアの枠に素手でそっと触れると、押し寄せていた霊の波が止まった。ほどなくして、入口の向こうに見えていた暗い霧が薄れ、外の空気までもが静まり返った。


「ふぅ、境界の流れを少し整えました。しばらくは大丈夫でしょう」


 男が手袋をはめ直す。何でもないことのように。


「……何をした?」


 鬼怒川店長の声。低く、硬い。


「案内人の仕事ですよ。境界の交通整理のようなものです」


 男は微笑んだ。船幽霊たちが、少しずつ落ち着いた表情になっている。パニックが収まっていた。


「この方たちは、境界の乱れに巻き込まれたんです。悪意があるわけじゃない。帰り道が分からなくなっただけです」


 黒いコートの男は、霊たちのほうを向いた。


「もう大丈夫ですよ。道は開いています。帰れる方は帰ってください」


 船幽霊たちが、一人、また一人と入口に向かい始めた。振り返って頭を下げる者もいた。水の匂いが少しずつ薄れていく。


 全員がいなくなるまで、十分もかからなかった。


     ◇ ◇ ◇


 俺は嵐のあとのような店内を見渡す。床は水浸し、棚はいくつか傾いている。海藻がC棚の角にひっかかって、缶詰が通路に転がっている。でも、静かだった。


「……なんだったんだ……でも、まぁ、よかった……」


 俺がぼそっと言うと、乱れた髪の天音がモップを手に取り俺に押し付けた。


「よくない。床がやばい。海藻くさい」


 いつもの天音節に、ちょっとだけ安心する。でも、天音の腕がかすかに震えているのが見えた。何十人もの霊に触れ続けたあとだから、だろうか。


 黒いコートの男は、入口に立ったまま鬼怒川店長と向き合っていた。


「今日はこれで失礼します。ただ、店長さん——」

「代理だ」

「代理店長さん。今日の規模は、前兆です。これからもっと増えますよ」


 鬼怒川店長は、何も答えない。


「お店を守る方法は、いくつかあります。何かあれば、また来ますよ」


 男はコートの襟を直して、自動ドアの向こうへ消えた。今夜も、名前は聞けなかった。


 鬼怒川店長が入口を睨んだまま、低く呟いた。


「……『境界の案内人』なんて、こっちは知らねえよ」


 嘘か本当か、分からない。店長はいつも、あの男の話になると表情が読めなくなる。


     ◇ ◇ ◇


 閉店作業。水浸しの床をモップで拭く。天音と奏太かなたと三人がかりで。ざしきは——応援だけしていた。


 腕がだるい。モップを絞りながら、さっきのことを思い出す。幽霊の肩に手を伸ばして、すり抜けた感触。冷たくて、何もなくて、指だけが虚しく空を掻いた。


 だが、天音は掴めていた。しっかりと。


「……天音」

「なに?」

「さっき俺、霊に触ろうとして、すり抜けた。でも、天音は掴めてた」


 天音の掃除の手が、ピタリと止まった。


「……さぁ、見間違いじゃない?」

「そんなわけ」

「ほら、早く拭かないと朝になるよ」


 それだけ言って、天音はモップを動かし続けた。


 時計は午前五時。店の外が白み始めている。ざしきが棚の上で、ようやく手鞠を離して眠りについた。鬼怒川店長がレジを締めながら、誰にともなく言う。


「……時代が、変わりやがる」


 その声には、何十年分かの重さがあった。

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