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第二部・第22話:下手だと思うなら

 午後、翔は家を出た。


 昨日の周との一件から、頭の中が少しずつ重くなっていた。

 冷たい線を引いたつもりが、線そのものの重みが胸の奥に残っている。


 このまま部屋に篭っていれば、ろくな思考にしかならない。

 澪に「ちょっと出てくる」と告げて、駅前に向かった。


 目的はなかった。

 空気を入れ替えたかった。

 それだけだった。


 ◇


 駅前のロータリーを回ったところで、看板が目に入った。


 ピンクと白で刷られた、簡素なポスター。


 『第14回 春のオープン個人戦テニス大会/本日開催/飛び入り参加可』


 会場は、駅から歩いて十分ほどの市営コートだった。

 飛び入り参加可、という赤字の文字が、嫌に目立っている。


 翔は、その文字の前で足を止めた。


 壁打ちは、毎日続けていた。

 復讐への全振りの副産物として、フォームも体力も整っていく自覚はあった。

 ただ、対人で打った経験はほぼ無い。


 自分が今、どのレベルに立っているのか。


 誰かに測られた、客観的な数字が、欲しかった。


 翔はスマホで会場までの道を確認し、そのまま歩き出した。


 ◇


 受付は、想像以上に簡素だった。


 高齢のスタッフが、参加用紙を差し出してくる。


「お名前、ご年齢、連絡先、レベルの自己申告だけでいいですよ」


 翔は名前を書きながら、ふと顔を上げた。


「これ、男女別ですか?」


 スタッフはきょとんとした。


「いえ、混合ですよ。男女別だと、男性は人数が集まらないので」


「……ああ、なるほど」


 翔は短く頷いた。


 元の世界では、テニスの大会は男女別が当たり前だった。

 こちらの世界に来て初めての大会で、何の疑問も持たずに流されかけていた。

 男女別にすれば、男性枠の参加者が一桁になる。

 その時点で大会として成立しない。

 だから混合にせざるを得ない。


 言われてみれば、当然だった。


 ◇


 コートに案内されると、参加者の視線が一斉にこちらを向いた。


「あれ、男の子?」


「珍しい」


「中学生……いや、高校生かな」


 近くで準備運動をしていた女性プレイヤーが、苦笑混じりに口元を緩めた。


「この辺の大会で男性プレイヤー、見ないからねえ」


「うん。この大会、結構レベル高いし。たぶん飛び入りは厳しいかも」


「ま、頑張ってね」


 明らかに「下手なんだろう」と決めつけた声色だった。

 悪意はない。

 ただ、判断材料がそれしかない。

 地元の小さい大会、レベル高め、男性プレイヤーの飛び入り――。

 その三点で、ほぼ自動的に「素人だろう」という結論が出ている。


 翔は、ラケットケースの紐を握り直した。


 胸の奥で、軽く何かが音を立てる。


 ――下手だと思うなら。


 翔は、口の中で小さく呟いた。


 ――その前提を、覆してやる。


 ◇


 1回戦。


 相手は、五十代くらいの女性プレイヤーだった。

 経験者の動きをしていた。

 フォームに無駄がない。

 判断も早い。


 だが、翔のサーブが入った瞬間、彼女の表情が固まった。


 返球できなかった。


 翔は、自分の打球の質に少し驚いた。

 壁打ちで反復してきたフォームが、相手のコートでも同じ精度で再現できている。

 毎日、毎日、同じ位置で同じ球を打ち続けてきた。

 その単純な蓄積が、ここで効いていた。


 1セット目、6−1。

 2セット目、6−0。


 ストレート勝ち。


 観客席が、ざわついた。


 翔がコートを出るタイミングで、誰かがスマホを構えているのが視界の端に映った。

 一人ではなかった。

 数人が、こちらにレンズを向けていた。


 その時点では、翔はまだ気にしていなかった。

 強いて言えば「珍しい男性プレイヤー」を撮っているのだろう、と思った。


 ◇


 休憩中、ベンチでスマホを開いた翔は、軽く目を見開いた。


 通知が、いくつか来ていた。


 X、ライン、それから事務所からのメッセージ。


 Xを開く。

 短い切り抜き動画が、もう上がっていた。


 『芸能人の柊翔、テニスがガチで強いと話題』


 動画のサムネは、自分のサーブの瞬間だった。

 投稿時刻は、たった三十分前。


 ……正体バレるの、早くね?


 翔は、その単語が思考に浮かんだのを自分で苦笑した。


 よく考えれば、当然だった。

 顔を売るために配信や芸能をやっている。

 顔と名前が表で出ている人間が、地元の小さい大会に飛び入りで参加して、あっさり勝った。

 観客の中に、ファンが一人いるだけで、もう動画は出る。


 会場の中を一度見回す。

 観客席の方で、こちらを見ている女性が何人かいた。

 その中の一人と目が合うと、軽く会釈してきた。


 ファンだ。

 しかも、たぶん初手から気付いていた。


 19話で澪が言っていたことが、頭をよぎる。


 ――公的に活動実績がある芸能人は、保護エリアの対象から外される。

 ――事務所が安全管理を担保できる前提なら。


 切り抜き動画は、活動実績にカウントされる類のものだった。


 翔は、深く息を吐く。

 これは、悪い動きではない。


 むしろ、想定よりだいぶ早く転がり始めた、というだけだ。


 ◇


 2回戦。


 相手は、三十代の女性プレイヤーだった。

 1回戦の相手より、明らかに技術が高かった。

 球種も多彩で、コースも厳しい。

 しかも、明らかに本気で来ていた。


 女性プレイヤー側の「男性に負けるわけにはいかない」という空気が、コート上にうっすら漂っていた。

 悪気というより、競技者として当然の意地だった。


 翔は、それを正面から受けた。


 壁打ちで身についた集中力が、ここで効いた。

 長いラリーになっても、フォームが崩れない。

 相手がミスを誘ってくる場面で、こちらは淡々と返し続ける。


 最終的に、フルセットの末に翔が押し切った。


 観客席の騒ぎが、明らかに大きくなっていた。


「誰、あの男の子」


「テニスやってるなんて聞いたことないけど」


「素人……じゃないでしょこれ」


 ざわめきの中で、誰かのスマホが、また光っていた。


 ◇


 3回戦は、相手が棄権した。


 理由は分からない。

 受付のスタッフが申し訳なさそうに「相手の方、体調不良だそうで」と告げた。


 翔は、不戦勝で決勝に進んだ。


 休憩の間、翔は壁にもたれて水を飲んだ。

 頭の中で、勝った試合を二つ並べる。

 1回戦、ストレート。2回戦、フルセット。


 悪くない。

 むしろ、想像していたよりずっと上手くいっている。


 決勝の相手は、プロで活動している選手らしい――そう、別の参加者が話しているのが聞こえた。

 翔はテニスのプロ選手に詳しくないので、名前を聞いてもピンと来なかった。


 ただ、頭の中で軽く計算する。


 体格差。

 パワー。

 リーチ。

 男性として、フィジカル面では分があるはずだ。


 壁打ちで磨いた集中力と、男性としての身体的な優位。

 その二つを合わせれば、プロ相手でも食らいつけるかもしれない。


 翔は、軽く頷いて立ち上がった。


 その頷きが、後で、自分でもうるさく思い出されることになる。


 ◇


 決勝。


 相手のサーブを見た瞬間、翔の計算は崩れた。


 ボールの速さが、桁違いだった。

 反応する前に、コートに音だけが残る。

 翔のラケットは、空を切った。


 先制点を、あっさり取られた。


 ……男性として、フィジカル面では分があるはず?


 翔は、自分の試合中の思考を、自分でなぞる。


 計算しただろう、さっき。

 体格、パワー、リーチ。

 それで、プロにも食らいつける、と。


 通用しなかった。

 一球目で。


 プロは、男女の身体差なんて誤差にしてしまう領域にいた。

 翔が "男性優位" を計算に入れた瞬間に、計算自体が無意味だった。


 二球目、三球目。

 ようやく、目が慣れてきた。


 翔は、ラリーを繋げる戦術に切り替えた。

 壁打ちで身につけた、フォームの安定。

 長いラリーで相手のミスを待つ、消耗戦の組み立て。

 男性優位という前提を、頭から外す。


 1セット目、4−6で落とす。

 2セット目、6−4で取り返す。

 3セット目、ファイナルセット、5−5まで進んだ。


 最後のゲーム。


 翔のサーブで始まったゲームは、デュースまでもつれた。

 息は上がっていた。

 肩は痛かった。

 壁打ちでは経験したことのない、対人の長期戦の重さが、全身にきていた。


 最後のポイント。


 翔のリターンが、ほんの数センチ、ラインの外に落ちた。


 主審の声が響く。


 負けた。


 ◇


 ネット越しに握手をした相手は、汗を拭きながら短く言った。


「強かった。普段、どこで打ってるの?」


 翔は、息を整えながら答えた。


「家の壁です」


 相手は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「冗談きついな」


 冗談ではなかったが、翔は否定しなかった。


 ◇


 帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、翔はスマホを見た。


 切り抜き動画は、すでに数本に増えていた。

 決勝の動画も上がり始めている。

 コメント欄には、テニス関係者らしい人物の好意的な反応がいくつか並んでいた。


 翔は、軽くため息をついて、画面を閉じた。


 負けはした。

 ただ、当初の目的「自分の腕を客観的に測る」は、想定以上に達成された。

 19話の保護対象としての例外条件も、勝手に強化されつつある。


 悪くない一日だった。


 ……ただ、家に戻るのが、少し怖かった。


 ◇


 玄関を開けると、リビングから澪がすごい速さで出てきた。


「兄様!」


 声が、いつもより一段高い。


「帰宅が遅いから心配しましたけど、何やってるんですか⁉ 昨日の今日だから心配したんですけど⁉」


 翔は、靴を脱ぎながら、軽く片手を上げた。


「悪い、悪い」


「悪いじゃないですよ⁉ 連絡くださいよ⁉」


「テニスの大会出てた」


「は?」


 澪が、固まった。


 数秒、無言が続いた。


 それから、澪は小さく息を吸って、ぼそりと言った。


「……兄様、たまに、私の心配を斜め上から飛び越えていきますよね」


 翔は、何も言わずに笑った。


 昨日の冷えた胸の奥に、少しだけ、温度が戻った気がした。

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