第二部・第23話:祝う、という殺意
ノクターンのカウンターは、いつも通り黒く磨かれていた。
翔は隅の席に座り、コーヒーを前にしばらく黙っていた。
唯奈は氷を仕込みながら、こちらを見るともなく見ていた。
無言の時間が、ある程度続いた頃。
翔は、口を開いた。
「相談なんだけど」
「うん」
唯奈は手を止めなかった。
顔も上げなかった。
それが「聞いてる」という合図なのは、もう翔にも分かっていた。
「もうすぐ、復讐相手の誕生日なんだ」
唯奈の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
止まって、すぐにまた動き始めた。
「へえ」
たった一音の相槌に、明らかに温度があった。
「祝うのと、祝わないの、どっちが追い詰められるか、分からなくて困ってる」
翔は、自分の声がいつもより低いのを聞いた。
「何もしないと、それが当たり前だ、ってふざけた勘違いをしてきそうだから、何かはしたい。だが、ここで分かりやすく落とせば、以後ずっと警戒される」
「それで?」
「だから、小さな親切をして、警戒は維持しつつ、本心を読まれなくする――そういうのがいいんじゃないかと、ここまでは考えた」
唯奈は、ようやく顔を上げた。
「考えてる方向は、悪くない」
「だが」
翔は、コーヒーカップを軽く回した。
「気付いた」
「何を」
「俺は、女子が喜ぶプレゼントってのが、そもそも分からない」
唯奈は、ぱちっと瞬きをした。
数秒、店内のBGMだけが流れた。
唯奈は、グラスを台の上に置き、両肘をカウンターについた。
「兄さん」
「はい」
「いま、その方向に行きかけてるけど、そっち、本筋じゃない」
「は?」
「プレゼントの中身を考えてどうするの。それ、由美にとっての“正解”を兄さんが探してる時間でしょ」
翔の指が、止まった。
言われてみれば、その通りだった。
翔はここまで、ノートに「由美が喜びそうな物」を二、三行、書きかけていた。
それは由美のための時間だった。
復讐者として、最もやってはいけない時間の使い方だった。
翔は、ノートを閉じた。
「……お前、なんでそんな冷静なんだ」
「冷静じゃないよ」
唯奈は、軽く笑った。
「ただ、こういう話、何度か考えたことあるだけ」
その「何度か」の一語の裏に、ほんの一瞬だけ、影が差した。
唯奈はすぐ目を逸らし、グラスをまた拭き始めた。
翔は、その目の動きを見て、何も言わなかった。
言わない方が、いいと判断した。
◇
「じゃあさ」
唯奈は、グラスを拭きながら言った。
「その人の味方で、兄さんを警戒してる人って、いる?」
翔は、考えた。
由美の周囲には、何人か "由美を信じている" タイプのクラスメイトがいる。
ただ、彼女たちは翔を警戒しているわけではない。
翔のことは、せいぜい "配信やってる男子生徒" 程度の認識でしかない。
由美に近くて、なおかつ、翔を警戒している人間。
その条件を満たす人物は、頭の中で一人しか出てこなかった。
「……居るな」
翔は、低く言った。
「一応、一人だけ」
唯奈は、視線だけこちらに向けた。
「誰、とは聞かない」
「うん」
「兄さんの中で、その人の顔が浮かんでるなら、それで十分」
翔は、頷いた。
頷きながら、頭の中ではその顔がはっきりと浮かんでいた。
昨日、駅前のチェーン喫茶店で会った人物。
「水に流す」と言って、翔をぶち切れさせた人物。
善意で由美の側に立ち、翔から切り離された人物。
西織 周。
あの男は、由美のことを「もう反省している」と言った。
ということは、由美の "改心" を信じる側に立っている。
由美に何かあれば、まず周が動く。
逆に、翔が由美に何かしようとしている兆候を察知すれば、周はそれを由美に伝える。
この上ない、伝書鳩だった。
◇
唯奈は、グラスを拭く手を止めずに続けた。
「そいつに、誕生日プレゼントするってことと、プレゼントしようか考えてるってのを、伝える」
「……周に?」
名前が漏れた。
唯奈は反応しなかった。
ただ「うん、周さんね」とは言わなかった。
翔が誰の名前を言ったか、覚えるが言及しない。
その距離感が、ありがたかった。
「電話で、殺意を見せず、棒読みがベスト」
唯奈は、淡々と続けた。
「難しいなら、チャットでもいいよ。文面、考えられるなら」
「……」
「文面、私がチェックしてもいいよ」
翔は、コーヒーカップから手を離した。
……まさか。
頭の中で、唯奈の言っていることの全体像が、ようやく繋がった。
翔は、唯奈の顔を見た。
唯奈は、こちらを見ていない。
手元のグラスだけを見ている。
「お前、何やらせる気だ」
「身近な人が警戒しろと言う警告を、本人が受ける」
唯奈は、グラスを台に置いた。
「結果、何もない。何もないまま、誕生日が過ぎる」
「……」
「相手の頭の中には“警戒しろと言われたのに、何も来なかった”という違和感だけが残る。罪悪感と警戒心が、本人の中で勝手に膨らんで、プレッシャーと混乱になる」
翔は、ゆっくり息を吐いた。
「……それ、お前の中で、どれくらい確度ある?」
「九割」
唯奈は即答した。
「人間、自分から疑った話の方が、他人から疑わされた話より、ずっと長く尾を引くから」
唯奈の答えに、翔は反論する材料を持っていなかった。
持っていない、ということは、その理屈が正しい、ということだった。
◇
「……整理させてくれ」
翔は、自分の指でカウンターを軽く叩いた。
「俺は、由美に直接何かしない」
「うん」
「俺は、周に “由美の誕生日プレゼントを考えている” と伝える」
「うん」
「周は、それを心配して、由美に “警戒した方がいい” と伝える、もしくは何らかの形で由美の耳に入る」
「うん」
「結果、由美は誕生日に身構える。だが、何も来ない」
「うん」
「身構えた分だけ、何も来なかった事実が、由美の中で “疑い損” になる。次は、自分が変な方向に疑った、という罪悪感が乗る。さらに、その罪悪感の上に、新しい警戒が積まれていく」
唯奈は、軽く頷いた。
「九割、その流れになるよ」
「お前、本当によく思いつくな」
その言葉に、唯奈は手を止めずに、少しだけ声を低くした。
「そんなんでもないよ」
返ってきたのは、それだけだった。
翔は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、20話の "ならよかった、うん、良かったよね" の続きが出てくる予感があった。
今は、そこには触らない方がいい。
◇
「ただ」
翔は、頭の中で別の問題を取り出した。
「周に連絡を取るのは、正直しんどい」
昨日の喫茶店の冷えた空気が、まだ胸の奥に残っていた。
あの後、翔と周は連絡を取り合っていない。
ブロックはしていない。
それでも、どちらからも、メッセージを送っていない。
「電話は無理だ」
翔は、はっきり言った。
「向こうが、まだ昨日のことを引きずってる。声で話せば、その気配で、こっちの “普通” が崩れる」
「だね」
唯奈はあっさり同意した。
「じゃ、チャット」
「ああ」
「文面、私が見ようか?」
翔は、一拍置いた。
ここで唯奈に文面を見せれば、唯奈はもう一度、翔の復讐の "共犯者" になる。
20話で、唯奈は一度こちらの方法を聞いて「ならよかった」と引いた。
「うん、良かったよね」と、自分に言い聞かせるように繰り返した。
その唯奈に、もう一度、武器の調整を頼むのか。
翔の中で、軽く葛藤が起きた。
起きたが、その葛藤は短かった。
唯奈は、最初から共犯者だった。
20話で引いた振りをしただけで、結局、こうしてまた助言してきている。
翔がそれを受け取らない、という選択肢は、唯奈の側にも存在しなかった。
「頼む」
翔は、短く言った。
「文面、見てくれ」
「分かった」
唯奈は、軽く頷いた。
頷いた瞬間、唯奈の口の端が、少しだけ上がった気がした。
錯覚かもしれなかった。
錯覚でなくても、翔は何も言わなかった。
◇
「文面、方針だけ決めとこう」
翔は、ノートを開き直した。
由美の好み、というページを破り捨て、新しい白紙のページを開く。
「重すぎず、軽すぎず」
唯奈が、言葉を継ぐ。
「迷ってるんですけど、って体で出す。決断を相手に投げない。ただ“迷っている自分の気配”だけを、相手に渡す」
「結論を求めない」
「うん。求めない。求めると、相手が“それは止めた方がいい”と返してきて、それで会話が終わってしまう」
「会話が終わるのは、まずい」
「まずい。短くてもいい、向こうの頭に残る感じで終わらせる」
翔は、ノートの白紙に、箇条書きで方針を並べていく。
・由美の名前は出す(あえて)
・「誕生日」「プレゼント」の単語を使う
・「迷っている」のニュアンスを残す
・結論を出さない
・あくまで世間話のテンションで送る
・送信時刻は、夜の遅すぎない時間(深刻な印象を避ける)
唯奈は、それを横から覗き込んだ。
「悪くない」
「悪くないか」
「ただ、最後の“あくまで世間話のテンション”、ここが一番難しい。送信前に必ず私に見せて」
「分かった」
「あと、もう一個」
唯奈は、グラスを置いてから言った。
「兄さん、自分で書いてる時、絶対に殺意を込めるから」
「……」
「殺意を込めた文面は、文字越しでも、ちゃんと伝わる。だから、書いた後で一度、深呼吸して、自分の文面を声に出して読んで。一回でも違和感を覚えたら、もう一度書き直して」
「……お前、本当に何者なんだ」
唯奈は、笑わなかった。
「バーで、夜の話を、聞きすぎただけだよ」
その答えは、明らかに嘘だった。
翔は、それも言わなかった。
◇
翔は、ノートを閉じた。
文面は、まだ書いていない。
書く前段階の、方針と手段だけが決まった。
手段はチャット。
送る相手は、周。
内容は、由美の誕生日プレゼントを迷っている、という体。
目的は、周経由で由美に "警戒情報" を流すこと。
結果として、由美の誕生日当日には、何も起きない。
その "何も起きなかった" こと自体が、由美への加害として機能する。
翔は、コーヒーを飲み干した。
昨日、駅前で「水に流す」と言われて爆発した相手が、今日の夜には、こちらの "情報の運び役" になる。
怒りを処理しきっていない相手を、もう武器に組み込んでいる。
その速度に、自分でも少しだけ、ぞっとした。
ただ、止める理由はなかった。
◇
ノクターンを出ると、外は夜だった。
駅前の街路樹が、軽く揺れている。
ポケットに入れたスマホは、まだ周のトーク画面を開いていない。
今夜、文面を書く。
明日、唯奈に見せる。
唯奈が頷いたら、送る。
手順は、決まった。
翔は、夜風の中で、軽く息を吐いた。
ふと、20話の唯奈の声が、頭をよぎった。
――ならよかった。
――うん……良かったよね。
あの時、唯奈は何かに安堵していた。
今夜、唯奈は安堵しなかった。
代わりに、口の端を上げかけて、すぐ戻した。
その差を、翔は今夜のうちに考えるつもりはなかった。
考えてはいけない、という気がした。
翔は、家へ向かって歩き出した。
誕生日まで、あと数日。




