第二部・第21話:水に流すという言葉
通知が、夜のうちに一件届いていた。
翔は朝、ラインの画面を開いた瞬間、その差出人の名前を見て、しばらく動けなかった。
西織 周。
第二部に入ってから、一度も画面に出ていなかった名前。
ブロックはしていなかった。
ブロックすれば気持ちは整理できるが、それは「相手を強く意識している」と認めることになる。
だから、ただ通知だけ切って、放置していた。
その「放置」の奥から、相手の方から手が伸びてきた。
メッセージは、短かった。
――時間ある時で大丈夫
――ちょっとだけ話せないかな
――なるべく早めに会いたい
その「なるべく早めに」が、翔の指を止めた。
第43話の時の周は、再会を喜んでいるだけだった。
第44話の時の周は、こちらの怒りに言葉を失った。
どちらでもない、第三の温度の周が、今、画面の向こうにいる。
◇
「行く意味、ある?」
澪が画面を覗き込んで、静かに言った。
翔はスマホを伏せた。
「分からない」
「行かなくても、いい話ですよ」
「うん」
「行かないと、変わらないけど」
その一言で、翔は息をついた。
澪は、無理に止めはしない。
止めない代わりに、判断材料は全部こちらに渡してくる。
ここ最近、澪はずっとそうだ。
「……行く」
翔は短く言った。
「決めた」
「決めたなら、止めません」
澪は、それだけ言って自分の支度に戻った。
最後にひとこと、こちらを見ずに付け足す。
「壊れないでね」
その言葉は、第一部の終わりに何度も聞いた。
今でも、効く。
◇
待ち合わせは、駅前のチェーン喫茶店だった。
周の方が早く着いていた。
窓際の二人席で、コーヒーを前に、スマホを見ている。
以前より少しだけ髪が短い。
以前より、少しだけ大人びている。
翔は、扉の鈴を聞きながら一拍置いてから、テーブルに近づいた。
「久しぶり」
「……ああ」
翔は短く答え、対面の席に座った。
ここまでの自分の表情は、上手く作れていると思う。
配信で慣れた "普通の感じの俺" の顔。
由美への持久戦のために整えてきた、位置を読ませない笑い方。
それを、今、周にも向けている。
その時点で、翔は自分の中で軽く眉をひそめた。
――この顔、こいつにも使うのか。
戦術が、復讐相手以外のところに、滑り始めている自覚がある。
ただ、考えるのはあとだ。
話を聞く。
まずは、それからだ。
◇
「呼び出して、悪い」
周は言葉を選びながら口を開いた。
「この前、俺、ちゃんと話聞けてなかったから」
「うん」
「だから今日は、まず聞きたいって思って」
翔は、軽く頷いた。
頷きながら、自分の中で線を引く。
爆発しない。
爆発させるのは、相手の物語を完成させる行為。
20話で唯奈にも話した、"位置を固定させない" の応用――。
翔は、そう自分に言い聞かせた。
「で?」
翔は短く促した。
「何の話だ」
周は、コーヒーを一口飲んで、それから少しだけ前のめりになった。
「由美のことなんだけど」
その名前で、翔のテーブルの下の手が、わずかに動いた。
周は気付かない。
続ける。
「彼女、こっちに来てから――その、変わったって思うんだ。俺、何回か話したけど、態度見てて分かる」
翔の耳に、その言葉が入る。
入って、奥までは届かない。
「向こうの世界で、由美がやったこと、俺も知ってる」
周は、声を一段だけ落とした。
「あの時のあいつは、間違ってた。それは間違いない」
「うん」
「でも――こっちに来てからの由美、もう反省してるよ」
周はそこで、少しだけ言葉を選ぶ仕草をした。
善意で言葉を選んでいるのが、見て分かる。
悪意なら、もう少し雑だっただろう。
「本人と話をしている中で、態度を見ていて、よく分かる」
翔は、何も言わなかった。
「だからさ」
周はもう一段、踏み込んだ。
「別世界の事だし――もう前の世界の事は、水に流すっていうのは、どうだろうかと」
◇
水に流す。
その四文字が、翔の頭の中に落ちた瞬間、世界が一段、温度を下げた。
別世界の事だし。
もう反省してる。
水に流す。
三つの言葉が、頭の中で重なって、ひとつの形になる。
その形に、翔は見覚えがあった。
第44話で周が放った「もう終わってる」と、ほぼ同じ形だった。
周は、変わっていない。
翔は、ほんの一瞬、自分の戦術を試そうとした。
位置を固定させない。
優しくして、距離を取って、また優しくして――。
無理だ、と即座に分かった。
戦術は、相手の "中で位置が揺らぐこと" を前提にしている。
周は、揺らがない。
自分が "正しい側" にいると、芯から信じている。
そういう人間に、位置不明戦術は効かない。
爆発の方が早かった。
◇
「ふざけるな」
声は、低く出た。
第44話のような叫びではない。
叫ばない。
ただ、低く、はっきりと言う。
「……翔?」
周の顔が、戸惑いに変わる。
翔は、テーブルの上で軽く拳を握った。
握ったが、それ以上は動かさなかった。
「水に流す、って言葉な」
翔は、自分の声が思ったより冷たいのを聞いた。
「あれ、加害者の側が使う言葉じゃない」
「……」
「被害者の側が、自分でそう決めるなら、まだ分かる。"もういい、忘れる" って、自分で自分の傷に区切りをつけるのは、それは本人の権利だ」
「翔、俺は」
「だがな」
翔は、言葉を切らなかった。
「お前が、俺と由美の間に入って、"水に流せ" って言うのは、一番やっちゃいけないやつだ」
周は、一瞬だけ口を開けて、何も言わずに閉じた。
「お前は、被害者じゃない。加害者でもない。第三者ですらない」
翔の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「お前は、俺の事故を "なかったこと" として育った世界から来た人間だ。その世界の感覚で、こっちの俺の母親の死を "別世界の事" にされたら、俺は何の支えで立てばいい?」
周の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「それ……」
「言うな」
翔は、相手の「悪気はなかった」を先回りで止めた。
「悪気がないのは知ってる。だから余計に救えないんだ」
◇
「由美が反省してる、ってのも、お前が言うことじゃない」
翔は続けた。
「由美のことを判断するのは、俺だ。お前じゃない」
「……うん」
「お前は、"和解の橋渡し役" をやろうとしている顔をしてる。でも、俺と由美の間に橋を架ける権利は、誰にもない。俺がその橋を許可していないからだ」
周は、もう反論しなかった。
反論する隙を、翔が一つも残さなかった。
「分かったか」
翔は、最後にそれだけ言った。
「分かったなら、もう、由美の話は、お前の口からするな」
◇
しばらく、二人とも黙った。
窓の外で、車が一台、信号で止まる音がした。
店内のBGMが、一拍だけ大きく聞こえる。
周は、コーヒーカップに視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「……ごめん」
その一言は、本物だった。
本物だと、翔にも分かった。
だが、本物だからといって、許すかどうかは別の話だ。
「謝罪は受け取った」
翔は、それだけ言って立ち上がった。
「会計、俺が払う」
周は顔を上げた。
「いや、呼んだのは俺だから――」
「俺が払う」
翔は繰り返した。
「お前に貸しを作りたくない」
周は、何か言いかけて、結局何も言わなかった。
◇
店を出ると、外の光が眩しかった。
翔は、駅前のロータリーをゆっくり歩きながら、自分の手のひらを見た。
拳を握った跡が、薄く残っている。
爆発は、外に出さなかった。
第44話の自分より、確実に静かだった。
ただ。
胸の奥は、第44話の時より、もっと冷えていた。
爆発しないことが、優しさに変わるわけじゃない。
爆発しないまま、もっと深いところで線を引けるようになっただけだ。
その線は、たぶん、由美への線と同じ材料で出来ている。
復讐相手のために用意したはずの線が、いま、幼馴染にも引かれた。
戦術が、人格に染みている。
翔は、その自覚を、軽く流した。
今は考えない。
卒業まで、まだ時間はある。
澪へのラインに、短く打つ。
――終わった
――壊れてない
返信は、すぐ来た。
――おかえりなさい
その四文字を、翔は信号待ちの間、何度か読み返した。
信号が青に変わる。
翔は、駅の方へ歩き出した。




