表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

66/68

第二部・第18話:全振り

壁にラケットの音が当たり、跳ね返ってくる。


 翔は、それを返す。


 返球の精度は、だいぶ揃ってきていた。

 面の角度。

 打点の位置。

 足の運び方。

 ひとつずつ確認しながら打っているのに、思考だけは別のところで動いている。


 昨夜、メモ帳に打ち込んだ箇条書きが、頭の中で何度も再生される。


 ・気を許しているように見える

 ・だが危険性は高い

 ・追い詰めた時、刃物に走る可能性あり

 ・感情で揺れた人間としてではなく、殺人鬼として扱う


 書き出した時は、冷たすぎると思った。

 今読み返すと、まだ甘い気がする。


 由美をどう処理するか。

 考えれば考えるほど、まともな方法が一つもないことに、翔は気づきつつあった。


 ◇


 まず、真正面から行くのは無理だ。


 由美に証拠を突きつけて、責めて、追い詰めて、その結果として由美が壊れる――そういう絵面は、外から見れば「男が女を追い詰めた」にしかならない。

 しかも由美は、自分を被害者として見せるのが上手い。

 第二部に入ってきたあの初日、教室で笑顔を作って、人の輪の中心に滑り込んだ。

 あの能力を、舐めてはいけない。


 翔が下手に動いた瞬間、由美の物語は完成する。


 かわいそうな転校生が、過去に巻き込まれていた事件のことで、配信者の男に追い詰められた――そういう構図ができ上がる。

 世論はそれを信じる。

 ワイドショーはそれを擦る。

 昨日の朝に見たあの番組の空気が、そのまま由美の側へ流れ込む。


 動けば、こっちが悪になる。


 その一言が、ここ数日の翔の頭の中で、何度も鳴っていた。


 動けば負ける。

 なら、動かない側が正解になる。


 ◇


 動かないなら、何をするか。


 翔の出した結論は、ひとつだった。


 持久戦。


 由美を、こちらから直接削るのではなく、由美自身が勝手に削れていく状況を作る。

 会話は続ける。

 昔の距離を再現する。

 ときどき優しくする。

 ときどき距離を取る。

 ときどき、意味のない不安を残す。


 向こうの神経が、こちらの存在を意識し続けるように、調整する。


 その繰り返しを、長く、丁寧に、続ける。


 怒りのまま殴り続けた第一部の方が、楽だった。

 爆発させて、走って、決着をつける。

 わかりやすい。


 今回は、その逆だ。


 爆発しない。

 走らない。

 決着もすぐにはつかない。


 その代わり、毎日、針の先ほどの圧をかけ続ける。


 大丈夫だ、と翔は自分に言い聞かせる。


 高校を卒業するまで、時間はまだまだある。


 現役高校生の翔にとって、由美と同じ教室にいられる時間は、少なく見積もってもあと一年と少しは残っている。

 二年弱、と言ってもいい。

 その時間の中で、一日一日を無駄にせず、着実に削っていけばいい。


 一日一回でいい。

 由美の表情がほんの少し曇る瞬間を作る。

 由美の声が一瞬だけ詰まる場面を作る。

 由美の中で「もう大丈夫かもしれない」と思いかけたものが、また少しだけ揺り戻される時間を作る。


 毎日、それだけでいい。


 由美の精神は、おそらくそれに耐えられない。

 あの女は、自分が「正しい側」にいたいタイプだ。

 悪役であることに耐えられない人間は、長期戦に弱い。


 刃を握らせて、人を煽った人間が、自分自身の中の罪悪感で、自分自身を殴っていく構図。

 それを、翔は時間をかけて作る。


 大丈夫だ。

 時間は、こちらにある。


 壁から返ってきたボールを、翔はもう一度返した。


 パコン。


 乾いた音が、夕方のコートに響く。


 決まった。

 この方針で行く。


 ◇


「兄さん!」


 声がした。


 ラケットを止めて振り返ると、コートの入り口で玲奈が手を振っていた。


「やっぱりいた!」


 その「やっぱり」に、翔は少しだけ笑いそうになる。


「毎度毎度よく俺がいること察知できるな」


 翔は言いながら、ラケットを軽く肩に乗せた。


「感良すぎだろ」


 玲奈はぴょんと一歩踏み出して、コートの中に入ってくる。


「えへへ」


 その「えへへ」だけで答えにしてくるあたり、本人にも自覚があるのが分かる。


 ここ最近、翔がコートに来る時間帯と、玲奈が現れる時間帯は、不自然なほど一致していた。

 偶然、と言うには重なりすぎている。

 だが、追及はしない。

 追及するほどのことでもないし、追及した瞬間にこの距離は壊れる。


 玲奈は翔の前まで来て、壁打ちの跡をちらりと見た。

 乾いた汗の跡。

 何度も同じ位置で打っている球痕。

 集中して練習した形跡が、コートの上にしっかり残っている。


「あれ?」


 玲奈の声が、一段だけ高くなる。


「というか兄さん、テニス、異常なペースで上手くなっていますね?」


 翔は少し顎を引いて、軽く頷く。


「だろ?」


 言いながら、ラケットを一度くるりと回した。


「結構練習したからな。努力の成果だ」


 玲奈は「えー」と少しだけ膨れたあと、すぐに笑顔に戻る。


「ずるい。私の前で上手くなるの」


「ずるくないだろ。約束したからな」


 その言葉に、玲奈の口元が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。

 第8話の指切り。

 翔の小指の関節が、それを今も覚えている。


 玲奈は、ラケットケースの紐をきゅっと握り直して、嬉しそうに頷いた。


「うん。約束、守ってくれてる」


 軽い声。

 屈託のない声。


 翔は、その声を真正面から受け止めた。


 受け止めた上で――胸の奥だけが、少しだけ冷えている。


 ◇


 柊翔は、努力が嫌いではない。


 むしろ、目的のための努力をする上では、根気強い方だ。

 毎日少しずつ積む作業は、嫌いどころか得意な部類に入る。

 そしてその根気が、いい方向に動くことも、本人が思っているより多い。

 元の世界で放送部の裏方として培った地味な観察と継続は、こちらの世界に来てからも、しっかり翔を助けている。


 その証拠が、コートの上にある。


 ラケットの面の安定。

 打点の取り方。

 足の運び方。

 基本のフォーム。

 壁打ちの跡が残るほどの時間、毎日のように続けてきた結果が、目に見える形になっている。


 玲奈の言う通りだ。

 異常なペースで、上手くなっている。


 ただ。


 ただ、今回の場合に限り。


 その努力は、復讐へと全振りされていた。


 由美をどう削るか。

 持久戦をどう設計するか。

 卒業までの時間で、どこをどう詰めるか。

 考えれば考えるほど、頭は冴え、思考は深まり、息は浅くなる。

 その熱が、ボールを打つ手にも乗る。

 ボールが乗れば、フォームが整う。

 フォームが整えば、上達する。


 復讐の延長線上で、テニスが上手くなっていく。


 それだけの話だった。


 玲奈は知らない。

 フォームが整っていく速さは、翔が、それだけ何かに飢えている証拠だ。


 翔はラケットを構え直し、もう一度、壁に向かって打った。


 パコン、と音が返ってくる。


 その音は、相変わらず乾いていて、相変わらず――まっすぐだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ