第二部・第18話:全振り
壁にラケットの音が当たり、跳ね返ってくる。
翔は、それを返す。
返球の精度は、だいぶ揃ってきていた。
面の角度。
打点の位置。
足の運び方。
ひとつずつ確認しながら打っているのに、思考だけは別のところで動いている。
昨夜、メモ帳に打ち込んだ箇条書きが、頭の中で何度も再生される。
・気を許しているように見える
・だが危険性は高い
・追い詰めた時、刃物に走る可能性あり
・感情で揺れた人間としてではなく、殺人鬼として扱う
書き出した時は、冷たすぎると思った。
今読み返すと、まだ甘い気がする。
由美をどう処理するか。
考えれば考えるほど、まともな方法が一つもないことに、翔は気づきつつあった。
◇
まず、真正面から行くのは無理だ。
由美に証拠を突きつけて、責めて、追い詰めて、その結果として由美が壊れる――そういう絵面は、外から見れば「男が女を追い詰めた」にしかならない。
しかも由美は、自分を被害者として見せるのが上手い。
第二部に入ってきたあの初日、教室で笑顔を作って、人の輪の中心に滑り込んだ。
あの能力を、舐めてはいけない。
翔が下手に動いた瞬間、由美の物語は完成する。
かわいそうな転校生が、過去に巻き込まれていた事件のことで、配信者の男に追い詰められた――そういう構図ができ上がる。
世論はそれを信じる。
ワイドショーはそれを擦る。
昨日の朝に見たあの番組の空気が、そのまま由美の側へ流れ込む。
動けば、こっちが悪になる。
その一言が、ここ数日の翔の頭の中で、何度も鳴っていた。
動けば負ける。
なら、動かない側が正解になる。
◇
動かないなら、何をするか。
翔の出した結論は、ひとつだった。
持久戦。
由美を、こちらから直接削るのではなく、由美自身が勝手に削れていく状況を作る。
会話は続ける。
昔の距離を再現する。
ときどき優しくする。
ときどき距離を取る。
ときどき、意味のない不安を残す。
向こうの神経が、こちらの存在を意識し続けるように、調整する。
その繰り返しを、長く、丁寧に、続ける。
怒りのまま殴り続けた第一部の方が、楽だった。
爆発させて、走って、決着をつける。
わかりやすい。
今回は、その逆だ。
爆発しない。
走らない。
決着もすぐにはつかない。
その代わり、毎日、針の先ほどの圧をかけ続ける。
大丈夫だ、と翔は自分に言い聞かせる。
高校を卒業するまで、時間はまだまだある。
現役高校生の翔にとって、由美と同じ教室にいられる時間は、少なく見積もってもあと一年と少しは残っている。
二年弱、と言ってもいい。
その時間の中で、一日一日を無駄にせず、着実に削っていけばいい。
一日一回でいい。
由美の表情がほんの少し曇る瞬間を作る。
由美の声が一瞬だけ詰まる場面を作る。
由美の中で「もう大丈夫かもしれない」と思いかけたものが、また少しだけ揺り戻される時間を作る。
毎日、それだけでいい。
由美の精神は、おそらくそれに耐えられない。
あの女は、自分が「正しい側」にいたいタイプだ。
悪役であることに耐えられない人間は、長期戦に弱い。
刃を握らせて、人を煽った人間が、自分自身の中の罪悪感で、自分自身を殴っていく構図。
それを、翔は時間をかけて作る。
大丈夫だ。
時間は、こちらにある。
壁から返ってきたボールを、翔はもう一度返した。
パコン。
乾いた音が、夕方のコートに響く。
決まった。
この方針で行く。
◇
「兄さん!」
声がした。
ラケットを止めて振り返ると、コートの入り口で玲奈が手を振っていた。
「やっぱりいた!」
その「やっぱり」に、翔は少しだけ笑いそうになる。
「毎度毎度よく俺がいること察知できるな」
翔は言いながら、ラケットを軽く肩に乗せた。
「感良すぎだろ」
玲奈はぴょんと一歩踏み出して、コートの中に入ってくる。
「えへへ」
その「えへへ」だけで答えにしてくるあたり、本人にも自覚があるのが分かる。
ここ最近、翔がコートに来る時間帯と、玲奈が現れる時間帯は、不自然なほど一致していた。
偶然、と言うには重なりすぎている。
だが、追及はしない。
追及するほどのことでもないし、追及した瞬間にこの距離は壊れる。
玲奈は翔の前まで来て、壁打ちの跡をちらりと見た。
乾いた汗の跡。
何度も同じ位置で打っている球痕。
集中して練習した形跡が、コートの上にしっかり残っている。
「あれ?」
玲奈の声が、一段だけ高くなる。
「というか兄さん、テニス、異常なペースで上手くなっていますね?」
翔は少し顎を引いて、軽く頷く。
「だろ?」
言いながら、ラケットを一度くるりと回した。
「結構練習したからな。努力の成果だ」
玲奈は「えー」と少しだけ膨れたあと、すぐに笑顔に戻る。
「ずるい。私の前で上手くなるの」
「ずるくないだろ。約束したからな」
その言葉に、玲奈の口元が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。
第8話の指切り。
翔の小指の関節が、それを今も覚えている。
玲奈は、ラケットケースの紐をきゅっと握り直して、嬉しそうに頷いた。
「うん。約束、守ってくれてる」
軽い声。
屈託のない声。
翔は、その声を真正面から受け止めた。
受け止めた上で――胸の奥だけが、少しだけ冷えている。
◇
柊翔は、努力が嫌いではない。
むしろ、目的のための努力をする上では、根気強い方だ。
毎日少しずつ積む作業は、嫌いどころか得意な部類に入る。
そしてその根気が、いい方向に動くことも、本人が思っているより多い。
元の世界で放送部の裏方として培った地味な観察と継続は、こちらの世界に来てからも、しっかり翔を助けている。
その証拠が、コートの上にある。
ラケットの面の安定。
打点の取り方。
足の運び方。
基本のフォーム。
壁打ちの跡が残るほどの時間、毎日のように続けてきた結果が、目に見える形になっている。
玲奈の言う通りだ。
異常なペースで、上手くなっている。
ただ。
ただ、今回の場合に限り。
その努力は、復讐へと全振りされていた。
由美をどう削るか。
持久戦をどう設計するか。
卒業までの時間で、どこをどう詰めるか。
考えれば考えるほど、頭は冴え、思考は深まり、息は浅くなる。
その熱が、ボールを打つ手にも乗る。
ボールが乗れば、フォームが整う。
フォームが整えば、上達する。
復讐の延長線上で、テニスが上手くなっていく。
それだけの話だった。
玲奈は知らない。
フォームが整っていく速さは、翔が、それだけ何かに飢えている証拠だ。
翔はラケットを構え直し、もう一度、壁に向かって打った。
パコン、と音が返ってくる。
その音は、相変わらず乾いていて、相変わらず――まっすぐだった。




