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第二部・第17話:落としどころ

 その日、翔は珍しく、最初からテレビをつけたまま朝食の席に座っていた。


 普段なら、流れている音はほとんど聞き流す。

 ニュースも、情報として必要なものだけ拾えればいい。

 けれど今日は違った。


 画面の中で、ちょうど自分が見たくない種類の話題が始まろうとしていたからだ。


 テロップが出る。


 『もし平行世界が実在して、平行世界から来た人が人を殺したら?』


 その一文だけで、胃の奥が冷たくなる。


 司会者は落ち着いた顔で、いかにも中立を装う声を出していた。


「近ごろ議論になっています。仮に、ですよ。仮に平行世界から来た人物が、向こうの世界で殺人を犯していたとして――それを、こちらの法律でどう扱うべきなのか」


 仮に。


 その言葉が妙に軽い。


 翔にとっては仮でも何でもない。

 母は実際に殺された。

 しかも、その加害者はこの世界で生きている。


 なのに、テレビの中ではそれが“思考実験”みたいな顔で扱われる。


 コメンテーターの一人が、すぐに口を開いた。


「感情としては分かるんです。被害者の立場からすれば、向こうでやったこともこっちで裁いてくれ、って当然思うでしょうし」


 そこで、わざとらしく一拍置く。


「ただ、それを法律にしてしまうと、ものすごく危険なんですよね」


 別の人物が続ける。


「証言だけで“向こうの世界では殺人犯でした”なんて言い始めたら、どこまでが本当でどこからが嘘なのか、区別できませんから」


「そうそう。しかも向こうの世界の法とこっちの法が同じとも限らない」


「被害者感情は理解しますけど、法が感情に引っ張られるのは良くないですよね」


 賛否両論、という形は保たれていた。


 向こうの世界で人を殺したなら、やはり放置するべきではない、という声もある。

 別世界の話までこの世界の法が責任を持てるのか、という慎重論もある。


 だが、翔には分かっていた。


 こういう議論は、表向き賛否両論でも、実際には“曖昧なものを法で扱うな”という方向へ流れやすい。

 その方が聞こえがいい。

 その方が安全に見える。


 画面の中の誰も、母の名前を知らない。

 目の前で人が刺される時の空気も知らない。

 自分も死んでいたかもしれない、という恐怖も知らない。


 知らないまま、正論だけを丁寧に並べていく。


 翔は、食べかけのトーストを皿の上に戻した。


 食欲は、もう消えていた。


 ◇


 学校へ向かう電車の中でも、同じ話題がスマホの画面から流れ込んでくる。


 切り抜き。

 短文投稿。

 ニュースの要約。

 法律系の解説アカウント。

 人気配信者の感想。


 言い方は違っても、要点はだいたい同じだった。


 「もし本当でも、証拠がないならどうしようもない」

 「別世界の罪をこの世界で裁くのは危険」

 「感情は分かるが、法は感情で作れない」


 “感情は分かるが”。


 その前置きは、ほとんど免罪符みたいなものだった。

 理解を示したふりをして、その先で全部切り捨てるための。


 翔は窓に映る自分の顔を見た。


 怒っている、というより、冷えている。


 これまでなら、こういう話題を見れば、胸の奥からすぐに熱が上がっていた。

 だが今は違う。


 熱くなるより先に、計算が始まる。


 もし法改正が本格化すればどうなる。

 もし慎重論が勝てばどうなる。

 もし曖昧なまま棚上げされればどうなる。


 復讐の落としどころを、改めて考えなければならない。


 その必要を、翔はもう誤魔化せなかった。


 ◇


 昼休み、人気のない渡り廊下の窓際で、翔は一人、端末を閉じた。


 由美の件を、どう終わらせるか。


 終わらせ方は、一つじゃない。


 いくつか想定している。


 たとえば、由美と殺人鬼の関係を証拠ごと暴き、社会的に潰す。

 たとえば、由美を完全に追い詰め、自分から吐かせる。

 たとえば、平行世界犯罪を放置できないという空気を作り、その流れの中で処理する。


 だがそれは全部、まだ“想定”に過ぎない。


 現状、由美はこちらに気を許しているように見える。

 会話もできる。

 笑う。

 昔みたいな空気すら、一部だけなら再現できる。


 でもそれは、安心材料ではない。


 むしろ逆だ。


 由美は、あくまで感情で人を殺した側の人間だ。


 厳密には、由美自身が刃を振るったわけではない。

 だが、感情を煽り、人を追い詰め、最終的に人を死なせた。

 その時点で、翔の中ではもう“感情で人を殺した奴”と同じ場所にいる。


 そういう人間は、追い詰められた時にどこまでやるか分からない。


 もし翔がやり返したら。

 もし真実を突きつけたら。

 もし逃げ道を塞いだら。


 その瞬間、由美が逆上して、刃物を持って翔へ向かってくる可能性は、十分にある。


 十分に、ある。


 笑って話したからといって、そこが消えるわけじゃない。

 むしろ、笑って話せるからこそ、危険性を忘れかける。

 だから、忘れてはいけない。


 翔はフェンス越しの空を見上げた。


 由美を裁くなら、あくまで殺人鬼として裁く。

 そう裁かなければならない。


 感情の揺れや、昔の関係や、一時の安心感で処理してはいけない。

 “悪いのはあいつで、お前は悪くない”という空気を利用したのは、自分の方だ。

 あれは作戦であって、判断の変更ではない。


 由美は、危険だ。

 その認識だけは、もう一度、心の奥に打ち込んでおかなければならなかった。


 ◇


 放課後、翔はそのまま真っ直ぐ家に帰らず、市営コートへ向かった。


 テニスがしたかったわけではない。

 考えを整理するために、身体を動かしたかった。


 ラケットを握り、ボールを地面に落とす。

 一度、二度、軽く弾ませてから、壁打ちスペースへ移る。


 打つ。

 返る。

 打つ。

 返る。


 単純な反復が、思考の輪郭をはっきりさせる。


 由美復讐計画。


 その言葉を、翔は頭の中でわざと冷たく呼んだ。

 “復讐”のままでは熱を持ちすぎる。

 “計画”と呼ぶことで、少しだけ距離が取れる。


 計画通りにいけば、それでいい。


 由美に対して何を感じるかは、もう重要じゃない。

 怖い、哀れだ、腹が立つ、許せない――そういう感情は、もちろん消えていない。

 だが消えていないだけで、判断材料にはしない。


 問題は、どう裁くかだけだ。


 翔がやり返して、その後、由美が逆上し、刃物で翔を刺して死ぬ。

 そういう最悪の結末は、十分あり得る。


 だから、計画は最初から最後まで、殺人鬼を裁く計画として作る必要がある。


 由美を“感情で揺れた一人の女”として見るな。

 “感情で人を死なせる人間”として見ろ。


 その線引きが、翔の中でようやく固まりつつあった。


 ボールが一度、ラケットの芯を外れた。

 壁にぶつかって変な角度で返り、翔は一歩遅れてそれを追う。


 息が上がる。


 肺が痛い。


 だが思考だけは、妙に冷えていた。


 計画通りに進めば問題ない。

 今はそう思える。


 由美が気を許しているなら、それでいい。

 そのまま許させておけばいい。


 由美の心がどう動くか。

 由美が自分をどう見ているか。

 そんなものは、もう重要じゃない。


 重要なのは、どこで何を吐かせるか。

 どうやって証拠に変えるか。

 どの段階で逃げ道を塞ぐか。


 心が動かない、というわけではなかった。


 実際には、動いている。

 動いているが、そこに意味を持たせるのをやめただけだ。


 動いてもいい。

 ただ、その揺れで計画を変えない。


 それだけでいい。


 ◇


 夜、家に戻ると、澪がリビングでニュース番組の録画を見返していた。


「まだ見てるのか」


 翔が言うと、澪はリモコンを膝に置いたまま顔を上げた。


「兄様は見ないの?」


「見た」


「じゃあ分かってるよね。世論、どんどん“慎重に”に寄ってる」


「ああ」


 翔は短く答える。


「だから考え直してる」


 澪が少し目を細める。


「何を?」


「落としどころを」


 その言葉に、澪の表情が一瞬だけ固くなる。

 だが彼女は、止めなかった。


「……どこまで考えたの」


 翔は、少しだけ間を置いてから言った。


「由美は危険だ」


「うん」


「気を許してるように見えても、あくまで感情で人を殺した側の人間だ」


 澪は黙って聞いている。


「だから、裁くなら最初から最後まで“殺人鬼を裁く”形でやる」


「感情で揺れて、途中で優先順位を変えない」


 澪は、長く息を吐いた。


「……兄様」


「なに」


「それ、前より怖い」


 翔は少しだけ笑いそうになった。

 冗談ではなく、本気の言い方だったからだ。


「そうかもな」


「否定しないんだ」


「否定できない」


 澪はしばらく何も言わなかった。


 それから、小さな声で言った。


「でも、その方が生き残る気はする」


 その一言が、妙に現実的で、翔は返事に困った。


 結局、自分が今やっているのは、生き残るための復讐なのかもしれない。

 母のため。

 自分のため。

 大義のため。

 色々あるが、一番最後に残るのは、たぶん生存の問題だ。


 刺されて死ぬわけにはいかない。

 何も残せないまま終わるわけにはいかない。


 だから冷たくなる。


 だから落としどころを考える。


 由衣が台所の方から顔を出した。


「ごはん、どうする?」


 翔はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。


「食べる」


 ◇


 その夜、自室で一人になってから、翔は由美の名前をメモ帳の一番上に打ち込んだ。


 次に、その下へ箇条書きで整理する。


 ・気を許しているように見える

 ・だが危険性は高い

 ・追い詰めた時、刃物に走る可能性あり

 ・感情で揺れた人間としてではなく、殺人鬼として扱う


 打ち込み終えたあと、翔は画面を見つめた。


 文字になると、ひどく冷たい。

 人の名前の下に、危険性と処理方針が並んでいる。


 だが、それでいいと思った。


 もうここで、心は動かさない。


 正確には、動いても意味を持たせない。


 由美復讐計画さえ、計画通りに進めば問題ない。


 それ以外の揺れは、今の自分にとってはノイズだ。


 翔は小さく息を吐き、端末を閉じた。


 外では誰かのバイクの音がした。

 部屋の中は静かで、心臓の音だけがやけに明確に聞こえる。


 テレビのニュースで、社会は賛否両論を並べていた。

 そのどちらも、自分の代わりにはならない。


 なら、自分で落としどころを決めるしかない。


 感情で始まった復讐は、ここから先、感情だけでは終わらせない。


 その決意だけが、夜の中で妙に澄んでいた。

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