第二部・第16話:見られていた言葉
ノクターンの扉を開ける前、翔はほんの一瞬だけ立ち止まった。
都心の空気は、夜になると昼間より少しだけ軽くなる。人は減らない。音も消えない。なのに、昼間のような圧迫感だけが薄くなる。だからこの時間の街は嫌いじゃなかった。嫌いじゃない、と言えるものが自分の中に少しずつ増えてきていることに、たまに自分でも戸惑う。
建設の単発バイトをしてから数日が経っていた。
強化外骨格を着けて、重いものを運んで、周囲に引かれながらも妙な感心を向けられて、最後には普通に「戦力」として扱われたあの一日は、思っていた以上に身体へ残った。筋肉痛はもう抜けたのに、感覚だけが残っている。自分の身体が“役に立った”という実感は、配信の数字とも、学校での居場所とも、テニスでのラリーとも違った種類の手応えだった。
それでも、由美のことは消えない。
録音のことも、唯奈の危うい提案も、玲奈との約束も、全部並んだまま消えずにいる。
最近の翔は、そういう複数の線を、以前より少しだけ上手く持てるようになっていた。復讐だけに全部を流し込んでいた頃より、進み方が遅くなった代わりに、視界は広い。良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。ただ、一つだけ確かなのは――今の自分は、もう第一部の頃みたいに、たった一つの熱だけでは動けない、ということだった。
扉を開ける。
ベルが鳴る。
店内の空気は、相変わらず黒と赤と甘い匂いで出来ていた。制服姿の女子が二人、窓際の席でスマホを囲んで笑っている。カウンターの中では、唯奈が氷をグラスに落としていた。カラン、と高い音がして、唯奈が顔を上げる。
目が合う。
その瞬間、唯奈の表情がほんの少しだけ変わった。
「あ」
軽い声。
でも、その一音に、いつもの営業用の軽さだけじゃないものが混じっていた。
「いらっしゃい」
翔はカウンターに近い席に座った。
唯奈はすぐには近づいてこない。先に注文を取る。飲み物を作る。別の客へ笑う。その一連の流れを崩さず、自然な間で翔の前にグラスを置いた。
「今日は何にする?」
「コーヒーで」
「りょーかい」
言いながら、唯奈は一度だけ翔の顔をまっすぐ見た。
その視線に、探るような色がある。
翔は気づいたが、何も言わなかった。言わなくても、そのうち向こうから来る気がしたからだ。
案の定、コーヒーが置かれてから数分後、唯奈はカウンターの内側から身を乗り出すようにして言った。
「翔」
呼び方が変わっていた。
兄さん、ではない。
少しだけ距離を詰めた声。
「……配信、してたんだ」
その一言に、翔の指がカップの縁で止まった。
思ったよりも、心臓は跳ねなかった。
驚きはした。だが、予想外とまでは言えない。唯奈が自分のことをどこまで知っているか、ずっと曖昧だっただけで、配信者としての自分を見つけられていても不思議ではなかった。
「……見たのか」
「うん」
唯奈はあっさり頷いた。
「この前、なんか引っかかったから。兄さん……じゃなくて、翔がさ。あの相談した時の言い方、普通の失恋とか喧嘩とか、そういうやつじゃなかったし」
翔はコーヒーを一口飲んだ。
苦い。
だが、その苦味のおかげで、声の温度を少しだけ整えられる。
「事情があってね」
曖昧に言う。
だが唯奈は、その曖昧さをそのまま受け取らなかった。
「その事情って、復讐のこと?」
真正面から来た。
翔は目を上げる。唯奈は笑っていない。怖い顔でもない。ただ、興味本位ではない目をしている。
「……そこまで見てるのか」
「見たよ」
唯奈はカウンターに肘をついた。
「驚いた。この間の言い方からして、まだ復讐は終わってないみたいだったから。まさか無事終わってたなんて思わなかった」
その言葉の選び方が、妙に正確で、翔は少しだけ目を細めた。
“無事終わっていた”。
普通なら言わない言い方だ。
でも唯奈はそこを選ぶ。終わったか終わってないか、ではなく、“無事”かどうか。つまり彼女にとって、復讐という言葉は最初から「終わればいいもの」ではなく「終わっても無事かは分からないもの」として扱われている。
翔は、少しだけ息を吐いた。
「いや」
短く言う。
「終わってない」
唯奈の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「え?」
「結論だけ言うと、他に黒幕がいた」
言葉が落ちる。
「……しかも証拠がない」
その瞬間、唯奈の表情が変わった。
驚きはした。
でも、ただ驚いただけじゃない。
どこかで「ああ、そうか」と辻褄が合った顔をした。
「なるほど……」
小さく呟く。
「そういうことか」
翔は、その反応を見逃さない。
「何が」
唯奈は視線を少しだけずらしてから戻した。
「いや、なんか。この前の相談の時、翔が“終わった人”の顔してなかったから」
静かな言い方だった。
「復讐が無事終わった人って、もっと別の顔になると思う。空っぽになるとか、逆に軽くなるとか。……でも翔は、終わってない人の顔だった」
言い当てられている。
翔は苦笑するしかなかった。
「顔に出すぎだろ、俺」
「かなり」
唯奈は即答した。
「配信はちゃんとしてたけどね。でも、ちゃんとしすぎてて、逆に変だった」
ちゃんとしすぎていて、変。
それは、配信という形に合わせて感情を整えすぎていた、ということなのかもしれない。放送部だった頃から、空気を整えることには慣れていた。だが整えたものが完璧すぎると、人は逆に“中身”を嗅ぎ取る。
唯奈は、少しだけ口元を緩めた。
「でも、配信して自分の気持ちを口に出せるだけすごいよ」
その声は、本心に近かった。
「私にはできないし」
一拍。
「たぶん、一生できないままだと思う」
翔は、その言葉に何も返せなかった。
唯奈は今まで、危うい提案をする側だった。人の底を読んで、冷たい答えを出す側だった。だから、こういう種類の“弱さ”を見せられるのは、少し予想外だった。
「……できない、って」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
唯奈は肩をすくめる。
「そのまんまだよ。自分のことを人に話すの、向いてないし。話したところで何も変わらないって思っちゃうし」
「でも、相談会とかやってるだろ」
「人の話を聞くのと、自分の話をするのは別じゃん」
その返しは、妙に納得できた。
翔もそうだ。人の表情を読むのはまだいい。だが自分の中身を言葉にするのは、いつだって難しい。配信で話せたのは、あれが“話すしかない”地点まで追い込まれていたからであって、才能でも勇気でもない。
翔は何となく言った。
「唯奈みたいな美人なら、配信すれば人気出そうだけどな」
軽口のつもりだった。
少なくとも、重い空気を少しだけずらすための言葉だった。
唯奈は一瞬、笑いそうな顔をした。
でも、その笑いはすぐに消えた。
「……美人で良かったことなんてないよ」
静かな声。
「男が居ないんだから」
その言い方に、翔はすぐ返事ができなかった。
この世界では、男が少ない。
それはずっと前から分かっている。
だが“美人であること”がこの世界でどういう意味を持つのか、ちゃんと考えたことはなかった。
元の世界なら、外見は武器になることがあった。守りにも、攻めにも、選択肢にもなった。
でもこの世界では、男が少ない。男の視線は希少で、女同士の評価や競争の形も違っているはずだ。美人であることは、得よりも先に「見られる」「値踏みされる」「利用される」に繋がるのかもしれない。
唯奈は、カウンターの上のグラスを指先で少しだけ回した。
「人気が出るって、いいことばっかじゃないし」
「……そうかもな」
翔が言うと、唯奈は少しだけ肩の力を抜いた。
「でしょ」
そこからしばらく、二人は何も言わなかった。
店内の別の席から笑い声がする。氷がグラスに当たる音。コーヒーマシンの低い稼働音。外の車の走る気配。
その全部があるのに、今この席の周りだけは妙に静かだった。
翔は、ふと気づく。
唯奈とこうして普通の温度で会話していること自体が、少し不思議だった。最初に会った時の唯奈は、都心で迷った自分に声をかけてきた地雷系の女だった。二度目に会った時は、相談相手の顔をして人の底を見せてきた。今は、配信を見た上で、自分の話ができないと言う。
顔が多い。
多いのに、どれが嘘という感じでもない。
それが、少し怖くて、少し楽だった。
「……何」
唯奈が言う。
「今、なんか変なこと考えてたでしょ」
「考えてない」
「嘘。ちょっと顔が優しかった」
「何だそれ」
「褒めてる」
そのやり取りに、翔は少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
唯奈はそれを見て、わざとらしく眉を上げた。
「へえ。ちゃんと笑うんだ」
「……俺を何だと思ってる」
「なんか、ずっと重いもの抱えてる人」
即答だった。
翔は返す言葉を失った。
重いものを抱えている。
その通りだ。
だがそれを、こうもあっさり口にされると、否定も肯定もやりづらい。
「で?」
唯奈が声を落とす。
「その黒幕って、どうするの」
翔はコーヒーを飲み干した。
この話を、どこまで言っていいのかは分からない。
でも、何も言わないのも違う気がした。
「小さな目標を積む」
翔は言う。
唯奈が少しだけ目を細める。
「へえ。前よりまとも」
「前がまともじゃなかったみたいな言い方だな」
「うん。正直ちょっと危なかった」
そこも即答だった。
「でも今のそれは、悪くないと思う」
玲奈の言葉が、頭をよぎる。
小さな目標をたくさん作る。最後は運に頼る。そこまでやって駄目なら、諦めがつく。
あの考え方を、翔はもう自分の中に取り込んでいた。
「……証拠を探す。順番に」
「そっか」
唯奈は短く頷く。
「じゃあ、翔は今、“終わらせる”より“積む”のターンなんだ」
その言い方が妙に的確で、翔は笑いそうになった。
「ゲームみたいに言うな」
「似たようなもんでしょ。終盤こそ素材集め大事だし」
軽口なのに、間違っていないのが困る。
翔はふと、前から気になっていたことを聞いた。
「唯奈は、何でそんなに人の話の構造が分かるんだ」
唯奈は一瞬だけ視線を止めた。
「構造?」
「何を隠してるかとか、どこで壊れそうかとか。……この前の提案もそうだし」
店の奥で、誰かが皿を落としそうになって小さな音を立てる。唯奈はそちらを一瞬見て、それから戻った。
「見てたら、何となく分かるだけ」
「何となく、で済むレベルじゃない」
「そう?」
唯奈は少しだけ首を傾げた。
「じゃあたぶん、そういうのばっか見てきたんじゃない?」
答えになっているようで、なっていない。
だがその曖昧さは、今の翔には十分だった。踏み込めば、向こうも黙る気がしたからだ。
結局、自分たちは似ているのかもしれない。
見なくてもいいものを見てしまう。
言わなくてもいいことを知ってしまう。
その上で、全部を口には出さない。
翔は席を立った。
「今日は帰る」
「うん」
唯奈は引き止めない。
「また来る?」
その問いに、翔は少しだけ考えた。
「……多分」
唯奈は、それで十分だという顔をした。
「じゃあ、今度は配信の話じゃないやつしよ」
「何だよ、それ」
「普通の話」
その言い方が、少しだけ可笑しかった。
普通の話。
今の自分たちには、たぶんそれが一番難しい。
翔は軽く手を上げて、店を出た。
外の空気は少し冷えていて、肺の奥まで入ってくる。
夜の街は相変わらず賑やかで、なのに自分だけが妙に静かな場所を歩いているみたいな気がする。
配信を見られていた。
復讐のことも、ある程度知られた。
それなのに、世界が崩れるわけでもない。
むしろ、知った上で話す相手が一人増えただけだ。
その事実が、怖くて、少しだけ救いだった。
美人で良かったことなんてないよ。
男が居ないんだから。
唯奈の言葉が、歩きながら頭の中で反響する。
この世界は、ズレている。
歴史も、男女比も、技術も。
そのズレは制度や街並みだけじゃなく、人の生き方の重さにも出ている。
翔はそれを、少しずつ実感し始めていた。
復讐だけを見ていた頃は、自分の痛みだけで手一杯だった。
今は、自分以外の痛みも見えてしまう。
それが余計なことなのか、必要なことなのかは、まだ分からない。
ただ、少なくとも。
自分はもう、第一部の頃みたいに、自分一人の怒りだけでは進めない。
その代わりに、少しずつ、他人の言葉が残るようになってきている。
玲奈の「小さな目標」。
澪の「壊れないで」。
父の「生きててよかった」。
唯奈の「配信して自分の気持ちを口に出せるだけすごいよ」。
その全部を抱えたまま、翔は歩く。
夜の街は広い。
でも今夜の翔には、それが少しだけ怖くなかった。




