第二部・第15話:外骨格の似合わない男
土曜日の朝、翔は珍しく自分から目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンの隙間から入る光はまだ柔らかく、部屋の中は静かだった。
復讐のために動いていた頃なら、土曜日は「調べる日」か「考える日」だった。
復讐が一段落し、学校に通い始め、テニスまで始めた今でも、完全に休める日はほとんどない。
何かを考えていないと、逆に不安になるからだ。
けれど今日の翔は、少しだけ違った。
考えることはある。
由美のことも、録音のことも、唯奈の物騒な提案も、消えたわけではない。
ただ、それとは別に、前から一つだけどうしてもやってみたいことがあった。
建設現場の、強化外骨格みたいなやつを、一度でいいから実際に着けてみたい。
その欲望は、我ながらどうかしていると思う。
博物館の展示を見てから、動画で現場の省人化技術を見てから、頭の中のどこかにずっと残っていた。
あの世界のズレを、自分の身体で確かめてみたい。
動画では分からない重さ、補助の感覚、身体が「持てる」に変換される瞬間を、自分の筋肉で知りたい。
考えれば考えるほど、ただの好奇心では済まなくなった。
そして翔は、都内近郊の単発バイトアプリを開き、建設系の軽作業募集を見つけた。
資格不要。
日帰り。
未経験可。
資材運搬補助。
――これだ。
自分でもびっくりするくらい、決断は早かった。
◇
現場は再開発エリアの一角だった。
仮囲いの中に入ると、まず音が違う。
金属がぶつかる音。車輪の軋み。遠くで動く重機の低い唸り。無線の短い応答。朝の冷たい空気の中に、機械油とコンクリートの匂いが混ざっている。
翔はヘルメットを渡され、安全靴と手袋のサイズを確認され、簡単な説明を受けた。
「初めてだよね?」
現場監督らしい女性が、タブレットを見ながら聞く。
年は三十代前半くらい。声がよく通る。無駄な言葉がない。
「はい」
翔が答えると、彼女は一度だけ翔の顔を見て、それから名簿にチェックを入れた。
「危ないことはさせないから。今日は資材の仕分けと運搬補助。分からなかったら勝手に触らないで、必ず聞いて」
「分かりました」
そこまでは普通だった。
問題は、そのすぐ後に起きた。
朝礼が終わり、各自の配置が決まっていく中で、翔の目は現場の端に置かれている機材に釘付けになっていた。
簡易型の補助外骨格。
腰から脚にかけて装着するタイプと、腕と背中を支えるタイプがいくつか並んでいる。
動画で見たものより、実物はもっと「道具」だった。
未来っぽい夢の装備じゃない。
擦れた樹脂、金属フレーム、油圧補助の細いライン。実用一点張りの見た目。
だからこそ、余計に触りたくなる。
翔は気づけば、監督のところへ行っていた。
「あの」
「はい?」
監督が顔を上げる。
翔は指差した。
「これ、付けたいです!」
一瞬、現場の空気が止まった。
近くにいた作業員が二人ほど、同時にこちらを見る。
監督も、数秒、無言になった。
「……は?」
「これです」
翔は真顔で言う。
「一回でいいので、付けてみたいです」
監督の表情が「何を言ってるんだこいつ」に変わる。
「いや、バイト生にそんな危険な業務させられないから」
正論だった。
あまりにも正論だった。
だが翔は諦めなかった。
「お願いします!」
監督が少し引く。
「これ付けて重いものを運ぶの、夢なんです!」
その場にいた何人かが、露骨に固まった。
夢。
強化外骨格で重量物を運ぶのが夢。
それを言っているのが、どう見ても現場慣れしていない若い男。
この世界では、その絵面自体が異常だった。
監督は頭痛を堪えるような顔で言う。
「いや、今これ付けるほど重いものなんて……あっても、そもそもそれ扱える前提じゃないし。というか、この補助外骨格って男子が付けるものじゃ……」
そこまで聞いた瞬間、翔は反射的に言い返していた。
「何言ってるんですか⁉」
現場の空気がまた止まる。
「男子をなんだと思ってるんですか⁉ 男女平等ですよ!」
自分でも何を言っているのか一瞬分からなかったが、勢いで押し切った。
「この荷物は僕が持って行きます! 重いものあれば遠慮なく言ってください! どんな仕事でもこなして見せます!」
完全に場違いな熱量だった。
周囲はドン引きしていた。
無理もない。
この世界で男子はほとんどいない。
だから“男子が自分から力仕事をやりたがる”という状況そのものが、珍獣を見るようなものなのだ。
元の世界で言えば、たとえば女子高生が工事現場に来て、目を輝かせながら「これ着けて重い資材運ぶの夢なんです!」と言い出すような感覚に近いのだろう。
反応に困る。
止めるべきだと分かる。
でも本人は本気で、しかも目が輝いている。
監督はこめかみを押さえた。
「……ちょっと待って」
そう言って、近くにいたベテランらしい女性作業員を呼ぶ。
「この子、どう思う?」
「どう思うって……」
呼ばれた女性は翔を頭から足まで見て、そして外骨格を見て、最後に監督を見た。
「絵面が終わってる」
即答だった。
「でしょ?」
「でも、まあ……今日は一台余ってるし、資材の小運搬くらいなら、危険区域に入れない前提なら……」
監督が眉をひそめる。
「本気?」
「本気っていうか、ここまで言ってるのに触らせない方が後で面倒そう」
「それは分かる」
ひどい言われようだった。
だが翔は気にしなかった。
触れるなら何でもいい。
監督は長く息を吐いた。
「分かった。条件付き」
翔の目が少しだけ見開く。
「危険区域には入らない。吊り荷の下に入らない。単独行動しない。勝手に補助レベルをいじらない。あと、変だと思ったらすぐ外す」
「はい!」
「返事だけはいいな……」
◇
装着は思ったよりも面倒だった。
腰の位置を合わせ、太ももとふくらはぎのフレームを固定し、背面の補助ユニットを接続する。
起動音は小さい。
もっと大げさな音がするかと思っていたが、実際には軽い電子音と、内部の圧が整うような低い作動音だけだった。
「歩いてみて」
監督に言われ、翔は一歩踏み出す。
違和感はすぐ来た。
重いわけじゃない。
軽すぎるわけでもない。
自分の脚なのに、自分の脚だけではない感覚。
踏み込んだ力を、一瞬遅れて“支えられる”感じがある。
もう一歩。
もう一歩。
慣れない。だが面白い。
「顔」
さっきのベテラン作業員が言った。
「すごい楽しそう」
「楽しいです」
翔は即答した。
「素直か」
そのやり取りで、周囲の空気が少しだけ緩んだ。
最初は引いていた作業員たちも、今は半分面白がっている。
監督はまだ不安そうだったが、とりあえず試しにということで、小さめの資材箱を運ばせることになった。
「持ってみて」
翔は箱に手をかけた。
重さは、見た目よりある。
だが持ち上げる瞬間、腰と脚が自然に補助される。
力任せではなく、持ち上がる。
「……っ」
思わず声が漏れた。
「どう?」
「すごいです」
これも即答だった。
「重いのに、重さの逃がし方が分かる感じがする」
監督と作業員たちは微妙な顔でそれを聞いていた。
感想がいちいち理屈っぽい。
だが、翔は本当にそう感じたのだ。
身体のどこで受ければいいかを、機械が先回りして教えてくる。
持てる、ではなく、持ち方が分かる。
それが一番近い。
「じゃあ、それ、あっちの仕分け場まで」
「はい」
翔は箱を運んだ。
歩幅を合わせる。
急がない。
置く位置を確認する。
放送部だった頃の癖なのか、翔は「物の位置」と「人の動線」を読むのが得意だった。
どこに何を置けば邪魔にならないか。どこを通ると他人の仕事を止めないか。そういうことは、考える前に身体が拾う。
一往復。
二往復。
三往復。
作業が進む。
気づけば、翔はかなり普通に戦力になっていた。
「……なんでそんなに手際いいの?」
若い作業員の一人が、素で聞いてきた。
「分からないです。多分、位置取り考えるのは得意で」
「そこ多分じゃなくて確定で得意なやつだよ」
「あと、外骨格が面白いです」
「そこは知ってる」
笑いが起きる。
最初の“ドン引き”が、いつの間にか“扱いに困るけど有能”くらいの空気に変わっていた。
だが問題はそこではない。
翔が有能だったわけではない。
もちろん、翔自身の覚えの速さや集中力もある。
けれど周囲がいちばん戸惑っている理由は、単純だ。
男子が自分から力仕事をやってのける。
それが、この世界ではファンタジーなのだ。
午前の後半、長尺の資材を移動させる場面で、ベテラン作業員が思わず言った。
「いや、ほんと何なの……」
翔が振り向く。
「何がですか?」
「何がって……本人が一番楽しそうにしてるのが怖いのよ」
「楽しいです」
「だからそれ」
周囲がまた笑う。
だがその笑いには、少しだけ本物の感心が混ざっていた。
◇
昼休憩に入ると、監督が缶コーヒーを片手に翔の前に立った。
「一応言っとくけど、今日は特殊だからね」
「特殊?」
「うち、単発バイトに外骨格触らせるの、普通やらない」
「ありがとうございます」
翔が素直に頭を下げると、監督は少しだけ困ったように笑った。
「……まあ、怪我しないでちゃんと指示聞くし、勝手に突っ走らないし、思ったより全然まともだったから」
「思ったより、ですか」
「最初の“これ付けたいです!”の時点でかなり不安だった」
それはそうだろう。
翔は自分でもそう思う。
監督は缶コーヒーを一口飲んでから、少し真顔になった。
「でも、ああいうの好きなんだね」
「はい」
「なんで?」
翔は少し考えた。
“世界のズレを自分の身体で確かめたいから”は、そのまま言うには重すぎる。
だから、少しだけ言葉をずらした。
「……人が足りないなら、どうやって埋めてるのか気になって」
監督は一瞬だけ目を細めた。
意外そうな顔だった。
「そういう視点で見てるんだ」
「たまたまです」
「ふうん」
それ以上は聞かれなかった。
だが翔には、それで十分だった。
この世界の人間にとっては当たり前でも、自分にはまだ全部が新しい。だから、たまたまでも、好奇心でも、入ってみる意味はある。
◇
午後の作業も、翔は真面目にこなした。
危険区域には入らない。
無茶はしない。
指示されたものだけを動かす。
だが、ひとつひとつの作業に、妙な充実感があった。
配信とは違う。
学校とも違う。
テニスとも違う。
目の前の仕事が減る。
置いた資材が次の工程に回る。
自分の動きが、誰かの作業の続きを楽にする。
それが分かる。
単純で、だからこそ気持ちがいい。
翔はふと気づいた。
これまで自分は「誰かの役に立つ」という感覚を、ほとんど復讐の中でしか考えてこなかったのかもしれない。
母のため。
自分のため。
被害者のため。
そんな大きな言葉じゃなくても、ただ一つ資材を運ぶだけで、現場は少し楽になる。
そういう単純さを、自分は知らなかった。
◇
作業終了後、外骨格を外す時、翔は少しだけ名残惜しかった。
ベルトを外す。
フレームを外す。
脚が急に自分の重さを取り戻す。
さっきまで“支えられていた”感覚が消えて、逆に少し不安定になる。
「名残惜しそう」
ベテラン作業員が言った。
「分かります?」
「分かる。けど普通はそこまで露骨にしない」
「また付けたいです」
「まだ言うの?」
「機会があれば」
その返事に、相手は吹き出した。
「変な子」
変な“子”。
その言い方が、この世界の中で自分がどう見えているのかを端的に表していた。
男。
若い。
しかも力仕事を楽しそうにやる。
存在としてファンタジーすぎるのだ。
だが、それでもいいと翔は思った。
ファンタジーでも、役に立てるなら。
監督が最後にタイムカード処理をしながら言った。
「また来る?」
翔は少しだけ迷ってから答えた。
「……たまになら」
「今度は最初から外骨格目当てって言わないでね」
「努力します」
「努力するのそこなんだ」
周囲がまた笑う。
その笑いの中に、最初のドン引きはもうなかった。
完全に受け入れられたわけではない。
でも、“どう扱っていいか分からない男”から、“変だけど仕事できる変な男”くらいには昇格した気がした。
それだけで十分だった。
◇
帰り道、夕方の風が汗の残る首筋を冷やす。
身体は疲れている。
腕も脚も、じんわり重い。
だが頭の中は不思議なくらい静かだった。
復讐のことを忘れたわけではない。
由美のことも、録音も、唯奈の物騒な提案も、全部まだそこにある。
けれど今日は、それらとは別に、自分の身体で“仕事が終わる”感覚を知った。
それが今の翔には、思っていた以上に大きかった。
外骨格を着けたかった。
世界のズレを知りたかった。
その欲求は満たされた。
だがそれ以上に、ただ単純に、役に立てたことが胸に残っていた。
誰かのため、なんて大げさじゃない。
でも、自分が持ったものが、誰かの手間を減らす。
自分が運んだものが、次の工程に繋がる。
その感覚は、悪くなかった。
翔は、駅へ向かう途中で小さく息を吐いた。
復讐以外のことで、こんなふうに疲れる日が来るとは、少し前の自分なら想像もできなかっただろう。
そして、それを少しだけ嬉しいと思っている自分がいる。
この世界は、まだ理解できない。
男女比は歪んでいるし、歴史はずれているし、オスマントルコはあるし、地雷系は普通に生きていて、建設技術だけ妙に発達している。
なのに、その世界の中で、自分はちゃんと働けてしまった。
ファンタジーみたいなのは、世界だけじゃないのかもしれない。
自分自身も、この世界から見れば、十分すぎるほど異物なのだ。
それでも。
異物でも、役に立てるなら、それでいい。
翔は駅のホームに立ちながら、少しだけ笑った。
強化外骨格は、思っていたより夢がなかった。
だが、思っていたより現実的で、思っていたより面白くて、思っていたより――自分を前に進ませる道具だった。




