第二部・第14話:笑いながら
小さな目標を、ひとつずつ。
玲奈が言ったその言葉は、翔の中で思っていた以上に深く残っていた。
復讐を終わらせる、ではない。
由美を壊す、でもない。
まず必要なのは、証拠を積むこと。
もっと正確に言えば、証拠が浮かび上がる状況を作ることだ。
そのために、何が必要か。
距離だ。
由美が警戒を解く距離。
自分にだけ見せる顔が出る距離。
「もう大丈夫かもしれない」と思い込ませる距離。
そこまで考えたところで、翔は一度だけ目を閉じた。
嫌悪感は、ある。
こんなやり方、第一部の頃の自分なら吐き捨てていたかもしれない。
怒りのまま殴りつける方が、よほど分かりやすい。
でも今は、それじゃ足りない。
由美は、真正面から追い詰めても崩れない。
崩れるとしても、自分を守る方向にしか崩れない。
だったら、崩れる形をこっちで用意するしかない。
そこまで考えた時、胸の奥で何かが冷たく固まるのが分かった。
――今日のノルマ。
その言葉が、妙にしっくり来た。
由美と話す。
昔みたいに話す。
警戒を解かせる。
“自分はもう敵意を剥き出しにはしない”と刷り込む。
それだけでいい。
今日は、それだけでいい。
◇
放課後の教室は、昼間よりも人の輪郭が柔らかい。
授業が終わって緊張が抜けたせいか、みんな少しだけ声が大きい。
部活へ行く者、帰る者、だらだら残る者。
その雑音の中で、綾瀬由美は友達らしい女子と話しながら鞄をまとめていた。
翔は、そこへ歩いていった。
自分でも驚くほど、足取りは落ち着いている。
怒りは消えていない。
録音の言葉も、唯奈の提案も、胸の奥にまだ沈んでいる。
それでも今は、表に出す必要がない。
それどころか、出さない方がいい。
「よう」
軽く声をかける。
たった一言なのに、由美の肩が目に見えて跳ねた。
顔を上げた瞬間の目は、ほとんど怯えている。
「……え」
友達の女子がきょとんとした顔で、翔と由美を見比べる。
翔はごく自然に笑ってみせた。
「ちょっと借りる」
「あ、う、うん……?」
周囲は“知り合い同士が話す”程度の温度でそれを受け取ったらしい。
由美だけが、その温度について来られていない。
教室の外、廊下の窓際まで来てから、由美はようやく小さく言った。
「……もう二度と話しかけてこないと思ってた」
声が細い。
泣きそう、というより、
泣くにも逃げるにも、どっちへ動けばいいか分からない顔だった。
翔は、それをまっすぐ見た。
「なんで?」
由美が目を伏せる。
「いや……だって」
言葉を探している。
“怖かったから”か、“嫌われたと思ってたから”か、あるいは“責められると思っていたから”か。
翔は、その迷いを切るように言った。
「悪いのは、あいつなんだろ?」
由美の瞳が揺れる。
「お前は悪くないよ」
その一言は、由美にとって予想外だったらしい。
口元がわずかに開き、返事が遅れる。
「違……」
そこで一度止まり、
次の瞬間には、もっと小さい声になる。
「……いや、違わないけど」
その曖昧さが、翔にはむしろ都合が良かった。
由美は自分の立場を、まだ完全には決めきれていない。
悪くないと言われたい。
でも、悪くないと言い切るには記憶が重い。
その揺れがあるうちは、引き込める。
翔は、少しだけ肩をすくめた。
「気にするなって」
言いながら、自分の声が驚くほど自然なのを感じる。
演技というより、昔の空気をなぞっているだけだ。
元の世界で、何でもない話をしていた頃の、あの温度。
「俺さ、最近テニス始めて」
由美が、一瞬だけ瞬きをした。
話題の切り替わりについていけていない。
「……テニス?」
「うん」
「運動したこと、あったっけ?」
その返しが、妙に昔の距離感を思わせた。
運動したことあったっけ。
由美は、前の世界の自分を知っている。
放送部で、裏方で、前に出るのは苦手で、走るのも好きじゃなかった自分を。
翔は、小さく笑った。
「いや、ない」
「でしょ?」
「だけどさ」
少しだけ、目線を窓の外へずらす。
「実際やってみると、楽しいんだよ」
その言葉は、半分は本音だった。
玲奈とラリーする時間は、本当に悪くなかった。
呼吸が荒くなるのに、頭の中が静かになる。
復讐を忘れるわけではない。
でも、少なくともその瞬間だけは、別のものに集中できる。
由美は、その言葉にどう返していいか分からない顔をしてから、小さく笑った。
「……そっか」
「うん」
翔は頷く。
「思ったより向いてるかもしれない」
「え、何、じゃあ今後テニス部とか入るの?」
「まだそこまでは」
軽い会話。
平和な話題。
まるで何も壊れていないみたいな、放課後の雑談。
それが成立していること自体が、ひどく不気味だった。
由美は、少しずつ表情を緩めていく。
最初の緊張はもう薄い。
恐る恐るではあるが、翔の言葉に乗るようになっている。
「なんか意外」
「何が」
「翔が、そういう……“楽しい”って言うの」
その一言に、翔は一瞬だけ黙った。
楽しい。
たしかに口にした。
玲奈にも言った。
今は由美にもそれを話している。
由美には、その意味が分からないだろう。
その時の由美には、きっと分からなかったはずだ。
この笑い顔が、
この穏やかな声が、
単なる回復の顔ではなく、何かの覚悟を決めた人間の顔だということを。
後になって、ようやく分かるのだろう。
ああいう顔をしている人間は、もう引き返さないのだと。
◇
そのまま二人は、校門を出るところまで一緒に歩いた。
会話は驚くほど自然だった。
自然すぎて、翔の方がときどき気味が悪くなるくらいだった。
前の世界で関わっていたみたいに。
あの事件の前まで、何でもないことで笑っていた頃みたいに。
好きな教科の話、部活の話、今の学校の先生の変な口癖。
由美は少しずつ笑うようになり、翔もそれに合わせるように口元を緩める。
笑いながら。
笑いながら、距離を埋める。
笑いながら、由美の警戒を削る。
笑いながら、過去の形を再現する。
その行為に、自分の一部が冷えていくのを翔は感じていた。
だがもう、止めなかった。
今日のノルマは、達成しなければならない。
由美に「もう大丈夫かもしれない」と思わせる。
それが今日の仕事だ。
駅前で別れ際、由美は少しだけ名残惜しそうに言った。
「……また、話してくれる?」
翔は頷いた。
「いいよ」
その返事に、迷いはなかった。
迷いがないこと自体が、もう普通ではないのかもしれない。
由美は安心したように笑って、手を振って去っていく。
その背中を見送りながら、翔は胸の奥で静かに数を数える。
一つ。
小さな目標を、ひとつ達成した。
◇
その足で、翔は都心へ向かった。
家に帰るにはまだ少し早い。
それに、今日だけはどうしてもノクターンへ寄ろうと思っていた。
理由は単純だった。
唯奈に礼を言っていない。
相談に乗ってもらった。
しかも、かなり深いところまで踏み込む言葉をもらった。
それに対して何も言わずに帰るのは、常識知らずだと本気で思った。
それだけだった。
それだけのはずだった。
ノクターンの扉を開けると、鈴の音が鳴る。
前より少しだけ慣れた店内。
同じ色の照明。
同じ匂い。
それなのに、今日は少しだけ景色が違って見える。
翔はカウンターの前まで行き、そこでグラスを拭いていた唯奈に声をかけた。
「……この前は、ありがとう」
唯奈は顔を上げた。
一瞬だけ目を丸くしてから、すぐにいつもの笑い方になる。
「なにそれ、ちゃんとお礼言いに来たの?」
「言わないままなのは、気持ち悪い」
「えら」
唯奈は笑う。
だがその目は、少しだけ探るようだった。
「で。どうだった?」
翔は、短く答えた。
「ヒントにはなった」
「そっか」
「……それで十分」
唯奈はグラスを置き、カウンターに肘をついた。
「兄さん、今日ちょっと顔違うね」
翔は眉をひそめる。
「悪い意味で?」
「ううん」
唯奈は首を横に振った。
「なんか……静かになった」
その評価が正しいのかどうか、翔には分からなかった。
ただ、以前より“手順”として考えるようにはなった。
怒りの塊ではなく、順番を持った復讐になりつつある。
それが静けさに見えるのかもしれない。
「今日は、飲んでく?」
「いや、長居はしない」
「そっか」
唯奈はそれ以上引き止めなかった。
翔は軽く頭を下げる。
「また来るかもしれない」
「来れば?」
唯奈は、以前より少しだけ柔らかい声で言った。
「相談じゃなくてもいいし」
翔は頷き、店を出た。
外の空気は少し冷えていて、夜に近づいているのが分かる。
歩きながら、翔は今日一日の流れを頭の中で整理した。
由美と話した。
昔みたいに笑った。
距離を詰めた。
唯奈に礼を言った。
自分の中で決めた小さな目標は、一応、今日の分だけ達成した。
今日のノルマは終わった。
そこまで考えてから、翔はふと、小指を軽く握り込んだ。
玲奈との指切り。
澪の「壊れないで」。
遼の距離感。
父の声。
どれも、まだ残っている。
残っているからこそ、由美と笑えたことが逆に怖い。
それでも――と、翔は思う。
本当の友達は、大事にしよう。
その言葉は、妙に静かに胸へ落ちた。
由美のことではない。
もう違う。
今さら、そこへ戻る気はない。
大事にしたいのは、
壊したくないのは、
今の自分を辛うじて人間の側に繋いでいる人たちだ。
玲奈。
澪。
由衣。
遼。
その名前を順番に頭の中へ並べながら、翔は夜の街を歩いた。
復讐は、まだ終わっていない。
終わるどころか、第二部に入ってから別の形を取り始めている。
でもその一方で、守るべきものも少しずつ増えている。
増えてしまった。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは――
今日は、ちゃんと笑えたということだ。
笑いながら、由美と話した。
笑いながら、唯奈に礼を言った。
笑いながら、ノルマをこなした。
それはもしかすると、第一部の頃よりもずっと危うい。
けれど今夜の翔は、その危うさを自覚したまま、少しだけ足取りが軽かった。




