第二部・第13話:小さな目標
そこまでするほどか――と、翔は何度も考えた。
唯奈に言われた言葉は、頭の奥に沈んだまま、少し時間が経つたびに浮かび上がってくる。
大切な人を作らせて、関係が進展する直前でその関係を叩き潰す。
理屈としては分かる。
いや、分かってしまうからこそ、気分が悪かった。
直接壊すよりも、確かに効く。
相手の人生の“これから”を一度育てておいて、いちばん柔らかいところで踏み抜く。
残酷で、陰湿で、取り返しがつかない。
第一部の復讐が“怒りの延長”だったとしたら、あれはもっと冷たい。
怒りですらない。
ただ、確実に壊すための方法だ。
翔は、それを思い出すたびに、胃の奥が冷えるのを感じた。
やりすぎだ、と頭では思う。
そこまでする必要はない、と理性は言う。
けれど、そこで考えを止めようとするたびに、別の声が湧く。
――じゃあ、俺の覚悟はその程度だったのか。
――許さないと決めたのに、結局“やりすぎ”の一言で手を引くのか。
――それで、母さんの命は何だった。
その問いは、簡単に追い払えない。
母は死んだ。
自分も、場合によっては死んでいた。
殺人と、殺人未遂。
言葉にすると、それだけだ。
だがその“それだけ”が、どれだけ人生を壊すか、翔は知っている。
どう考えても、許されるべきじゃない。
どう考えても、時間が経って薄まっていいものじゃない。
だから、諦めようとするたびに、自分の中の何かが反発する。
諦めたら、負けではなく、空白になる。
復讐が終わったあと、自分に何が残るのか分からなくなる。
それが怖い。
復讐相手よりも、自分の中の空白の方が、今は少しだけ怖かった。
◇
その日の夜、翔は市営コートにいた。
時間は遅い。
部活の連中もいない。
仕事帰りの大人がたまに使う程度で、壁打ちスペースはほとんど空いていた。
照明に照らされたコートは昼間よりも静かで、自分の打球音だけが妙に響く。
パコン。
パコン。
パコン。
ボールが壁に当たり、跳ね返ってくる。
翔はそれを返す。
フォームは少しずつ形になってきている。
力任せに振らない。
打点を前に置く。
足を止めない。
玲奈に言われたことを、一つずつ身体に落としていく。
それなのに、頭の中では別のことばかりが動いていた。
由美をどうする。
殺人鬼をどう切り離す。
録音はある。
だが、あれは決定打じゃない。
追い込むためには、もっと必要だ。
何が必要だ。
誰が持っている。
どこから崩せる。
ボールを打ち返すたび、思考が鋭くなっていく。
夜の壁打ちは、集中のための時間のはずだった。
なのに今は、復讐を考えるための時間に変わっている。
表情が硬くなる。
呼吸も浅くなる。
足は動いているのに、心だけが別のところを走っている。
その時だった。
「だから顔⁉」
声がした。
翔のラケットが一瞬止まり、返球がネットに当たって落ちる。
振り向くと、玲奈がラケットケースを背負ったまま立っていた。
ジャージ姿。
髪はひとつに結ばれていて、夜の照明の下でも表情がよく見える。
「テニスする顔じゃないんだけどぉ⁉」
玲奈は半分笑いながら、でも本気で言った。
「え? なに? こんな夜遅くの時間にそんな顔でテニスの練習することってある⁉」
翔は言葉に詰まる。
玲奈は止まらない。
「まさか夜練習しようと思って来たら先約いたのも驚きだし、それが兄さんなのも驚きだけど……」
そこまで言ってから、玲奈は少しだけ眉を下げた。
「……でも、ほんとにどうしたの?」
翔はラケットを下ろし、息を吐いた。
誤魔化そうと思った。
いつもみたいに、「フォームが安定しなくて」とか、「集中が切れてて」とか、そんな無難な言葉を選ぶことはできた。
けれど今の自分には、その誤魔化しすら少し面倒だった。
「……考え事」
短く言う。
玲奈は「だろうね」と即答した。
「それも、たぶんテニスのことじゃないやつ」
図星だった。
翔は、少しだけ苦笑する。
「顔に出てるか」
「出てる。壁と本気で喧嘩してる人みたいだった」
玲奈はコートの中に入り、少し距離を取って立つ。
「で、兄さんはその顔のまま壁打ちして、解決したの?」
「……してない」
「だよね」
玲奈はあっさり頷いた。
責めるわけでもなく、慰めるわけでもない。
事実をそのまま置かれる感じが、今の翔にはありがたかった。
玲奈はラケットを肩に担いで、少しだけ考えるように夜空を見上げた。
「兄さんさ」
「なに」
「一人じゃ絶対に達成できない目標を目指すとき、どうする?」
唐突な問いだった。
翔は一瞬、意味を測る。
一人じゃ絶対に達成できない目標。
復讐。
その単語が真っ先に浮かんで、自分で嫌になる。
「……場合による」
「じゃあ、もう少し具体的にするね」
玲奈は言った。
「どう考えても、一人で何とかしないといけない時」
一人で。
何とかしないといけない。
その条件は、今の翔に近すぎた。
玲奈は、ラケットの先で地面を軽く叩きながら続ける。
「私なら、二つ意識する」
「二つ?」
「うん」
玲奈は指を二本立てた。
「一つは、小さな目標をたくさん作って、少しずつ達成していくこと」
翔は黙って聞く。
「いきなり“勝つ”とか“全部終わらせる”とか思うと、しんどすぎるから。今日はサーブ一本入れる、とか。今日は十回続ける、とか。そういうのでいい」
小さな目標。
それは、言われてみれば当たり前だった。
だが翔は今まで、復讐を「終わらせるか、終わらないか」の二択でしか見ていなかった。
成功か失敗か。
許せるか許せないか。
白か黒か。
その間にある小さな段階を、ずっと無視してきた。
「もう一つは?」
翔が聞くと、玲奈は少しだけ笑った。
「運に頼る」
翔は眉をひそめた。
「運?」
「うん」
「何もしないってことか?」
「ううん、違う」
玲奈は即座に否定した。
「ひとりで行けるところまで行って、最後の最後で、それがどんな結果につながるか分からない可能性に賭けるってこと」
翔は言葉を失う。
玲奈は続ける。
「だってさ、どれだけ頑張っても最後って自分だけじゃ決まらないことあるじゃん。相手の気分とか、タイミングとか、偶然とか、そういうの」
夜のコートに、玲奈の声だけが素直に響く。
「でも、そこで“運なんか信用できない”って止まるよりは、行けるところまで行って、最後だけ運に預ける方がまだ前に進める」
一拍。
「そこまでやってダメだったなら、もう諦めつくでしょ?」
翔は、ボールを一つ拾い上げた。
指先で回す。
視線は落ちているのに、頭の中だけが急に明るくなる。
努力と運。
自分で積めるところまで積む。
最後に、結果の出方はもう受け入れる。
それは復讐だけじゃない。
調査にも、証拠集めにも、世界の謎にも、全部当てはまる考え方だった。
由美を壊すか、壊さないか。
そんな大きすぎる問いじゃない。
まず必要なのは、由美と殺人鬼を切り離せるだけの証拠だ。
由美が誘導したこと。
由美が今も何か隠していること。
その小さな目標を、一つずつ積む。
最後にどう転ぶかは、分からない。
でも、そこまでやってからなら、結果がどう出ても、自分の中で線が引ける。
頭の中で、何かのパズルのピースが、かちりと音を立ててはまった気がした。
「……なるほど」
翔が呟くと、玲奈は少しだけ得意そうに笑った。
「でしょ?」
「……お前、意外と現実的だな」
「意外と、は余計」
そう言って頬を膨らませる仕草が、妙に年相応で、翔は少しだけ肩の力が抜けた。
玲奈は、ラケットを持ち直す。
「で? ちょっとは顔、マシになった?」
翔は自分の頬を指で軽く触れた。
「どうだろうな」
「さっきよりはマシ」
玲奈はそう断言する。
「でもまだ“何か考えてます”って顔してる」
「そこは消えないかもな」
「そっか」
玲奈はそれ以上追及しなかった。
代わりに、ラケットをくるりと回して言う。
「じゃあ、続きやる? 壁打ちより、相手いた方が考えごと減るよ」
「……そうかもな」
翔は構え直した。
玲奈がボールを軽く上に投げる。
「じゃ、今日は小さい目標ね」
「何だよ」
「十回続ける」
玲奈は笑った。
「夜の兄さんは顔が怖いから、その顔のまま十回続いたらすごいってことで」
「それ褒めてないだろ」
「半分は褒めてる」
どこかで聞いたような返しだった。
唯奈とは違う。
でも、こういう“少し軽い返し”に、最近の自分は意外と助けられている。
ボールが飛ぶ。
翔は返す。
一回。
二回。
三回。
走る。
止まる。
返す。
途中でフォームが崩れ、ボールがネットにかかる。
「あー、惜しい!」
玲奈が笑う。
翔も少しだけ口角が上がった。
小さい目標。
十回続ける。
それは復讐に比べれば、どうでもいいくらい些細だ。
でも、些細だからこそ、自分の足で届く。
翔はラケットを握り直した。
――まずは一つ。
由美とあいつを繋ぐ証拠を固める。
――次に一つ。
録音以外の材料を探す。
――最後に、どう転ぶかは運に賭ける。
そう考えた時、復讐は“終わるか終わらないか”の塊ではなく、“手順”になった。
その変化は大きい。
怒りの熱が消えたわけじゃない。
ただ、その熱が少しだけ、前へ進むための形に整った。
翔は、次のボールを待った。
玲奈が笑いながら打ってくる。
その音が、夜のコートに乾いて響く。
そして翔は、久しぶりに思った。
まだ、やれる。
全部じゃなくていい。
一つずつなら。
その感覚だけで、今夜は十分だった。




