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第二部・第12話:相談の形

都心で迷って、地雷系の女に駅まで送ってもらい、最後にカフェの宣伝をされて帰ってくる――そんな意味の分からない一日を経験してから、翔は妙にその店のことが頭から離れなくなっていた。


 店の名前は、ノクターン。


 帰り際に渡されたチラシは、黒地に淡いピンクの文字で、見た瞬間に「趣味が強いな」と分かる作りだった。だが内容は意外なくらい実務的で、営業時間、アクセス、学生歓迎の文字、軽食の種類、そして片隅に小さく書かれた文言が、翔の指を止めた。


 「悩みを解決し合う交流会、定期開催」


 さらにその下。


 「スタッフも参加するので、一人でもハブられません」


 その一文の“ハブられません”という言い方がやけに生々しくて、翔は少しだけ笑いそうになった。大人が考える宣伝文句にしては、妙に学生の言葉に近い。おそらく、あの女――唯奈が考えたんだろう。


 チラシを机の上に置いたまま、翔は何度も視線だけをそこへ向けた。


 行く理由はある。


 いや、理由ならいくらでもある。


 解決方法が思いつかないのだ。


 綾瀬由美をどうするか。

 録音をどう使うか。

 殺人鬼をもう一度どう追い込むか。

 父のこと。

 玲奈との約束。

 世界線のズレ。

 転移現象。


 考えることが増えすぎて、逆にどれも動かない。


 だったら、外にヒントを取りに行くしかない。


 もちろん、「母親を殺されて平行世界に飛ばされて、復讐相手が次から次へと湧いてきて、しかも元カノが誘導してました」なんて、誰にどう相談しろと言うのか、という話ではある。


 普通なら、言えない。


 言えるわけがない。


 だが、濁して話すことはできる。


 核心を隠しながら、他人の頭を借りることはできる。


 それは卑怯かもしれないが、今の翔には、卑怯かどうかを気にしている余裕がなかった。


 ◇


 放課後、翔は一人で都心へ向かった。


 今度は迷わなかった。


 駅の出口も、曲がる角も、前回より少しだけ身体が覚えている。たった一度迷っただけで、地図の輪郭は案外しっかり頭に残るものらしい。迷子になったこと自体は不本意だったが、あれは確かに経験値だった。


 ノクターンは、表通りから一本入った細い路地の先にあった。


 外観はこぢんまりとしていて、黒い看板に白い月のマーク。窓辺に置かれた小さな照明が、夕方の薄暗さの中で妙に目立つ。派手ではないが、意図的に「隠れ家」っぽく作ってあるのが分かる。


 扉を開けると、小さなベルが鳴った。


 店内は、外観より少しだけ明るい。黒と深い赤を基調にしているのに、息苦しくはない。テーブル席がいくつかと、カウンター。学校帰りらしい制服姿の女子が二人、ケーキをつつきながら何かの話で笑っている。カウンターの中には、地雷系っぽい服装の少女が二人。どちらも唯奈ほど“濃く”はないが、系統は近い。チラシに書いてあった「スタッフも参加するのでハブられません」の文字が頭をよぎる。


 そして、カウンターの奥でグラスを拭いていた唯奈が、翔に気づいて目を見開いた。


「あ」


 声が素だった。


「ほんとに来た」


 翔は、少しだけ肩をすくめる。


「来ちゃ悪いか」


「悪くないけど。来ないタイプだと思ってた」


 唯奈は笑いながらカウンターの外に出てくる。昨日と同じく、地雷系だ。だが店の中にいると、その服装は“店の空気”に溶けて見える。


「いらっしゃい。えっと……昨日はちゃんと名乗ってなかったね」


 そう言って、彼女は妙にきちんと頭を下げた。


唯奈ゆいな。この店、手伝ってる」


「……翔」


「知ってる。兄さん、ちょっと有名だし」


 その言い方に嫌味はない。ただ事実を言っているだけだ。


 翔は店内を見回した。


「交流会、って今日か?」


「うん。ゆるいやつ。相談っていうか、雑談の延長みたいな感じ。重い話でも軽い話でも、話したい人が話して、聞きたい人が聞く」


 唯奈はメニューを差し出しながら続ける。


「別に喋らなくてもいいよ。見てるだけでもいいし。飲み物だけでもいい」


「……なら、そうさせてもらうかも」


「最初はみんなそう言う」


 唯奈はそう言って、少しだけ口角を上げた。


 翔は席に着いた。カウンターに近い二人席。逃げようと思えばすぐ逃げられる位置だ。無意識にそういう席を選んでいる自分に、少しだけ呆れる。


 注文したのは、コーヒーだった。


 砂糖もミルクも入れず、そのまま口に含む。苦い。だが、その苦味がありがたかった。店の甘い匂いに呑まれずに済む。


 交流会といっても、本当に大げさなものではなかった。小さなテーブルを囲んで、今日嫌だったこと、進路、親との距離、部活、恋愛、将来の不安、そういう話がぽつぽつと出て、唯奈や他のスタッフが拾っていく。答えを出すというより、「それ、分かる」「こういう見方もあるかも」と角度を増やしていく感じだ。


 翔は最初、本当に聞いているだけだった。


 だが聞いているうちに、一つだけ気づく。


 ここでは、誰も“正しい結論”を急がない。


 それが新鮮だった。


 学校では優しさが先に立つ。家では事情が重い。遼とは言葉が研ぎ澄まされすぎる。澪と由衣は近すぎる。


 ここは違う。


 軽いのに、浅くない。


 その不思議な空気が、翔の警戒心を少しずつ鈍らせていった。


 ◇


 交流会が一段落した頃、唯奈がコーヒーカップを持って翔の席に近づいてきた。


「どう? 思ってたよりマシ?」


 翔は少し考えてから答える。


「……騒がしいかと思ったけど、そうでもない」


「でしょ。みんな悩んでる時って、意外と静かなんだよ」


 唯奈はカップをテーブルに置き、翔の向かいの席に座った。


 視線がまっすぐすぎない。距離の詰め方が絶妙だ。営業の慣れなのか、性格なのか、両方なのかは分からない。


「で?」


 唯奈が言う。


「兄さん、悩みあるから来たんでしょ」


 翔は返事をしなかった。


 肯定すると軽いし、否定するとここに来た意味が消える。


 唯奈は急かさない。


「別に本名も事情も言わなくていいよ。ここ、そういう店だから」


 その一言が、少しだけ背中を押した。


 翔はカップの縁を指でなぞりながら、できる限り抽象化した言葉を選んだ。


「……どうしても許せない相手がいる」


 唯奈は黙って聞く。


「でも、証拠が足りない」


「うん」


「時間が経つほど、向こうが有利になる」


 唯奈の目が、ほんの少しだけ細くなる。


「正面から行っても、たぶん勝てない」


 そこまで言って、翔は口を閉じた。


 濁した。


 かなり濁したつもりだった。


 それでも、言葉の形だけで、十分に自分の中身が出ている気がした。


 唯奈は少しだけ首を傾げた。


「それってさ」


 一拍。


「ほんとに、潰したい相手なんだ?」


 その確認の仕方が妙に生々しくて、翔は一瞬だけ視線を上げた。


 軽口じゃない。


 試している。


 翔は短く頷く。


「……潰したい」


 唯奈はそれを聞いた瞬間、さっきまでの笑顔をほとんど消した。


 表情が薄くなる。


 それだけで、空気が変わる。


「ちょっと来て」


 翔が何か言う前に、唯奈は立ち上がった。


「こっちだと、誰かに聞かれるかも」


 “聞かれると困る話”として扱われたことに、翔はわずかに緊張する。


 店の奥、スタッフ用の小さな通路を抜けた先に、非常口に繋がる半屋外のスペースがあった。人は来ない。ビルの裏手に面した狭い空間で、室外機の低い音だけがしている。


 唯奈はそこで立ち止まり、壁にもたれた。


「そんなの、決まってるじゃん」


 言い方が、軽くない。


 笑ってもいない。


 翔は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「……何が」


 唯奈は、まっすぐに翔を見た。


「大切な人を作らせて、関係が進展する直前でその関係を叩き潰す」


 言葉が、空気を切った。


 翔は絶句した。


 返す言葉が出ない。


 それは残酷で、冷酷で、そして――有効そうだった。


 有効そうだと分かってしまうからこそ、怖い。


 唯奈は淡々と続ける。


「本人を直接壊すより、効くよ」


「だって人って、自分が壊れるより、大切なものが壊れる方が痛いから」


 翔の喉がひくりと動く。


 怖い。


 怖いのに、耳が離れない。


 唯奈は少しだけ視線を逸らし、まるで独り言みたいに付け足した。


「しかも、証拠とか立場とか、そういうの関係なく効くし」


 その言い方で、翔は初めて“答え”より先に“この子は何者なんだ”と思った。


 昨日までの唯奈は、


 地雷系で、

 軽くて、

 案内が上手くて、

 最後に店の宣伝までしていく、

 少し変わった都会の女だった。


 今の唯奈は違う。


 言葉の角度が違う。


 残酷さの密度が違う。


 まるで、実際に人を壊すか壊されるかしたことがあるみたいな、そんな言い方だった。


 翔は、ようやく声を絞り出した。


「……なんで、そんなこと」


 言えるんだ、という後半は飲み込む。


 唯奈は翔の顔を見て、少しだけ笑った。


 だがその笑いは、店内で見せる軽いものじゃない。


「兄さんが“どうしても潰したい”って顔してるから」


 それだけ言う。


 翔は、息が浅くなるのを感じた。


 出会った直後だ。


 まだ二度目に会っただけだ。


 それなのに、この女は自分の顔から、そこまで読んだのか。


 いや――昨日から読んでいたのかもしれない。


 都心で迷っていた時、壁打ちで難しい顔をしていた時、その時点でもう、何かを感じ取っていたのかもしれない。


 唯奈は、少しだけ声を落とした。


「でもさ」


 翔が顔を上げる。


「それ、本当にやるなら、兄さんもう戻れないよ」


 その言葉は、脅しにも忠告にも聞こえた。


 玲奈の指切りが、脳裏に浮かぶ。


 澪の「壊れないで」が、耳の奥に蘇る。


 父の「生きててよかった」も、遼の乾いた声も、全部一瞬で通り過ぎる。


 その上で、由美の顔が来る。


 “リセットして”と言った口元が、鮮明に蘇る。


 翔は何も言えなかった。


 唯奈の提案は、恐ろしい。


 それは分かる。


 分かるのに――どこかで「効く」と思ってしまった自分がいる。


 その事実が、一番怖かった。


 唯奈は、それ以上踏み込まなかった。


 壁から背を離し、いつもの少し軽い声に戻る。


「まあ、店に戻ろ。兄さん、今の顔のまま出ると他の子びびるから」


 翔は、すぐには動けなかった。


 室外機の低い音だけが、やけに大きく聞こえる。


 心臓がまだ速い。


 唯奈は扉を開ける前に、振り返らずに言った。


「相談って、正しい答えが返ってくる場所じゃないから」


 一拍。


「欲しかったヒントじゃなくて、いらない本音が返ってくることもあるよ」


 そうして店内へ戻っていった。


 翔は、その場に数秒取り残された。


 いらない本音。


 まさにその通りだった。


 自分はヒントを求めた。


 少しでもマシな追い詰め方を、少しでも理性的な方法を、そういう“現実的な答え”を期待していたのかもしれない。


 だが返ってきたのは、もっと直接的で、もっと人間の底を見せるような答えだった。


 大切な人を作らせて、関係が進展する直前で叩き潰す。


 それは復讐だ。


 しかも、第一部よりもずっと陰湿で、ずっと“戻れない”側の復讐だ。


 翔は、ようやく足を動かし、店内に戻った。


 さっきまでと同じテーブル、同じ照明、同じカップ。


 なのに、全部が少しだけ違って見える。


 唯奈はもう、カウンターの中で別の客に笑顔を向けていた。


 本当に同じ人間か、と疑いたくなるくらい、さっきまでの空気を消している。


 翔は席に座り、冷めかけたコーヒーを口にした。


 苦い。


 だが、その苦味すら薄く感じる。


 頭の中にあるのは、さっきの一言だけだった。


 人ってね、自分が壊れるより“大切なものが壊れる”方が効くから。


 怖い。


 怖いのに、忘れられない。


 翔は、自分の両手を膝の上で組んだ。


 震えてはいない。


 だが、冷えている。


 自分の中の復讐が、また別の形を見せた気がした。


 それは正しさとは程遠く、怒りよりももっと静かで、もっと深い場所に沈んでいる。


 この店に来たことで、少し楽になるかもしれないと思っていた。


 結果は逆だ。


 楽になるどころか、余計に深い場所まで降ろされた。


 それでも、無駄ではない。


 少なくとも、翔は知った。


 自分が今立っている復讐の線が、まだ「一線の手前」だったことを。


 そして、その先には、もっと冷たい地面があることを。


 店を出る頃には、都心の空はすっかり暗くなっていた。


 看板の月のマークが、夜の中で浮かんで見える。


 翔は、一度だけ振り返った。


 ノクターン。


 あの店は、悩みを解決する場所じゃない。


 悩みの底を見せる場所だ。


 その事実が、今夜の翔にはひどく重かった。

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