第二部・第11話:迷子と地雷系
現状の最適な復讐が思いつかない。
その事実は、ここ数日、ずっと柊翔の頭の中に居座っていた。
綾瀬由美を追い詰める。録音を使う。周囲を崩す。方法はいくつか浮かぶ。だが、どれも決定打にならない。証拠が足りない。感情で突っ込めば、向こうが有利になる。慎重に進めれば進めるほど、今度は自分の足が止まる。
第一部の頃は違った。
怒りが、答えだった。
怒りが、そのまま行動に変わった。
けれど今は、違う。
由美を追い詰めたい。
殺人鬼も、もう一度、逃げられない場所まで追い込みたい。
それでも、玲奈との約束がある。
父の顔も知ってしまった。
学校という場所の居心地の悪い優しさも知ってしまった。
だから、復讐だけで走るには、以前より少しだけ考えることが増えすぎた。
翔は、自室の椅子に座ったまま、天井を見上げた。
――結局、経験値が足りないんだよな。
その結論は、妙にしっくりきた。
世界のズレを知った。
歴史も少し見た。
建設技術の一点突破的な進化も知った。
でも、自分の行動範囲は狭い。学校、家、コート、市内の施設。その程度だ。
考えてみれば、元の世界でも都心部なんてまともに行ったことがない。
用事もないし、行く意味もなかった。
母と暮らしていた頃も、父と何か特別な場所に出かけた記憶も薄い。
自分はずっと、狭い範囲の中で生きてきた。
なら、今さらでも遅くはない。
試しに行ってみよう。
多分なんとかなる。
きっといい人生経験が積める。
そこまで考えた瞬間、翔は自分で自分に少し引いた。
――何だその雑な前向きさ。
だが、悪くないとも思った。
復讐のために何をするか分からないなら、いっそ復讐以外の経験値を増やしてみる。世界を知る。人の流れを知る。街の構造を知る。そうした先に、今の自分には思いつかない何かがあるかもしれない。
そういう理屈を用意して、翔は翌日、一人で都心へ出た。
◇
結論から言うと、舐めていた。
電車を乗り継ぐところまでは良かった。
人の多さに一瞬だけ眩暈を覚えたが、改札もホームも案内表示も、日本である以上は読める。人の流れに乗れば進める。問題ない。
問題は、そこから先だった。
駅を出た瞬間、翔は立ち止まった。
高いビル。
大型ビジョン。
交差する人の波。
多すぎる道。
似たようなガラスの建物。
曲がっても曲がっても、景色の印象が大差ない。
――都会、終わってるだろ。
心の中だけで毒づく。
目的地は特にない。そこがまずい。
何となく歩き、何となく路地に入り、何となく「こっちの方が面白そうだ」と曲がり続けた結果、気づいた時には、自分がどこから来たのか分からなくなっていた。
しかも最悪なことに、スマホの充電が切れた。
画面が暗くなった瞬間、翔は数秒、無表情で固まった。
その後、ようやく現実を理解する。
――ヤバい。
――どうしよう。
迷いすぎて、スマホ死んだ。
現代人としての最低限の尊厳が死んだ気がした。
翔は深呼吸をした。
落ち着け。
パニックになるな。
周囲を見ろ。
だが周囲を見ても、知らない店と知らない通りと知らない人しかいない。見たことのあるチェーン店すら、今の自分には位置情報にならない。駅からどっちに歩いてきたかも曖昧だ。
――いや待て、こんな時こそ人に聞けばいいだろ。
頭では分かる。
分かるが、翔にとって“知らない人に自分から助けを求める”という行為は、思っている以上にハードルが高かった。復讐のために他人を観察することはできても、自分が困っていることを前提に話しかけるのは、別の技術だ。
どうしようかと、駅らしき方向を探して交差点の前で立ち尽くしかけた、その時だった。
「お兄さん……迷子?」
声がした。
振り向いた瞬間、翔の思考が一秒止まる。
地雷系だ。
この世界にも地雷系がいた。
絶滅してなかった。
黒とピンクを基調にした服。
フリル。
大きめのリボン。
厚めのメイク。
目元は少し垂れて見えるのに、視線そのものは妙にまっすぐ。
可愛い、というより“可愛く作る”ことに全力を注いだ感じの女だった。
翔の中で、わけの分からない感動が湧いた。
そうだよな。
オスマントルコが居て、地雷系が居ないはずないよな。
何の論理だそれは、と自分でも思う。だがこの世界線への理解度が、妙に一段上がった気がした。世界はズレてる。でもズレきってはいない。こういう記号的な存在がちゃんといる。それだけで少し安心する自分がいた。
女は翔の反応を見て、少し眉を寄せた。
「え、なに。迷子じゃないの?」
「……迷子」
翔は正直に答えた。
「スマホ切れた」
「最悪じゃん」
返しが早い。
「駅からどれくらい迷った?」
「分からない」
「やば。ほんとに迷子だ」
地雷系なのに、言い方が妙に実務的だった。
翔は少しだけ警戒を緩めつつも、完全には下げない。
「駅の方、分かる?」
「分かるよ。っていうか、ここ意外と近いし」
女はスマホを軽く掲げて見せる。
「どの駅?」
翔が駅名を言うと、女は地図を見ながら一度だけ「あー」と頷いた。
「やっぱ近い。こっち」
近い。
その言葉に、翔は本気で驚いた。
自分の感覚だと、もう元の駅から二、三キロは歩いている気がした。だが実際には、数本裏道に迷い込んだだけだったらしい。都会の「近い」は信用ならない。
女は歩き出しながら、ちらっと翔を見る。
「お兄さん、地方から来た系?」
「……いや、東京には住んでる」
「え、都内で迷ったの?」
「都心部あんまり来たことない」
「かわいそ」
「かわいそうって言うな」
翔が即座に返すと、女は吹き出した。
「ごめんごめん。でも、なんか思ってたより普通だね」
「何が」
「見た目」
「見た目?」
「男の人って今、もっと“触れちゃダメです”みたいな感じの人多いじゃん。お兄さん、ちゃんと会話できるタイプなんだなって」
褒められているのか分からない。
ただ、言い方に悪意はなかった。
翔は女の少し後ろを歩きながら、周囲の風景を記憶しようとした。ビルの看板。交差点の位置。目印になりそうな大型モニター。次来た時、迷わないための予習だ。
女は歩きながら、思い出したように言った。
「私さ、ここの近くでカフェやってるんだよね」
「……カフェ?」
「うん。ちっちゃいけど。悩みとかあったら来て」
最後に宣伝された。
あまりにも自然な流れで。
翔は一瞬だけ口を開き、それから閉じる。
いや、待て。今の会話の流れで宣伝に着地するの、ちょっと上手すぎないか?
女はその顔を見て笑った。
「なにその顔。別に無理に来なくていいし。でも迷子になるタイプなら、道覚えるついでに寄ってもいいんじゃない?」
「……検討しとく」
「それ来ないやつじゃん」
「知らない」
会話のテンポが妙に軽い。
警戒しようとしても、やりにくい。
だが翔はそれが嫌ではないことに、少しだけ戸惑った。
駅の入り口が見えてきた。
確かに近かった。
近いのに、自分は完全に見失っていた。
スマホがあっても、地図だけ見ていたらこういうのは覚えないのかもしれない。
女はそこで立ち止まり、手を振った。
「じゃ、私はこっちだから」
「……送ってくれてありがとう」
翔がそう言うと、女は少しだけ目を丸くした。
「ちゃんとお礼言うんだ」
「言うだろ、普通」
「いや、言うけど。今の男の人って、変に気を遣われるか、逆に固まるかの二択が多いから」
「……それ、褒めてる?」
「半分は」
そう言って、女は口元だけで笑う。
「じゃあね。ほんとに困ったら来て。カフェの名前、“ノクターン”だから」
ノクターン。
店名を頭の中でメモする。
「……分かった」
「うん。じゃあ今度は迷子じゃない時に」
それだけ言って、女は人混みの方へ消えていった。
翔は駅の前で少しだけ立ち止まり、その背中が完全に見えなくなるのを見送った。
――何だったんだ、今の。
地雷系で、口が軽くて、でも案内は的確で、最後にしっかり店の宣伝をしていった女。こういう存在までいるなら、この世界は本当に“ズレた現実”なんだなと妙な納得が生まれる。
帰りの電車の中で、翔は座席にもたれながら考えた。
都心に来たのは、経験値が足りないからだ。
復讐の答えが見えないから、別の景色を見たかった。
それで実際に見たものは、巨大な街と、自分の方向感覚のなさと、地雷系の女だった。
何の収穫だ、と思う。
でも、ゼロじゃない。
自分が知らない場所へ行けた。
知らない誰かに助けられた。
そして、ちゃんと帰れる。
それだけで、以前の自分より少しだけ広くなった気がした。
家に着き、靴を脱ぎながら、翔はふと思う。
復讐しか考えていなかった時の俺なら、都心で迷子になるなんて無駄なイベントに耐えられなかっただろう。今の自分は、それを“経験値”に変換しようとしている。それは少しだけ、前に進んでいる証拠なのかもしれない。
もちろん、由美のことは消えていない。
録音の言葉も、胸の奥に残ったままだ。
だが、その一方で、世界は広い。
広いのに、地雷系が普通に存在していて、カフェの宣伝までしてくる。
そういうくだらなさが、少しだけ救いになる。
リビングの扉を開けると、澪が振り向いた。
「……兄様、遅かったね」
「都心、迷った」
「は?」
澪の顔が一瞬で引きつる。
翔は靴を揃えながら、少しだけ笑った。
「でも、なんとかなった」
澪は何か言いかけて、結局ため息だけを吐いた。
「……もう」
その“もう”が、妙に心地よかった。
この世界はまだ、優しくもなれるし、面倒にもなれる。
そしてそのどちらも、思ったより悪くない。




