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第二部・第10話:展示室の年表

ラケットの面が、壁に当たるたび乾いた音がした。


 市営コートの隅、壁打ち用に開放されているスペースは、いつ来ても妙に落ち着く。


 相手がいない分、こちらが何を考えていようが、ボールは容赦なく跳ね返ってくる。


 返す。


 また返す。


 フォームが崩れたら、すぐに壁が教えてくれる。


 ――なのに今日は、壁が教えてくれる「技術」より先に、俺の顔が教えてくれる「中身」のほうが厄介だった。


 ボールを追いながら、思考だけが勝手に別の場所へ走る。


 綾瀬由美。


 あの女の口元の“リセット”という言葉。


 録音に入っていた「誘導した」という一行。


 そして、もし本当に「誘導」が事実なら――あいつ(殺人鬼)の“動機”の最初の火種は、元カノが投げた可能性がある。


 追い詰め方はいくらでもある、という思考が浮かぶ。


 証拠を固める。


 発言を引き出す。


 周辺を崩す。


 逃げ道を塞ぐ。


 社会的に殺す。


 ――殺す、という単語が頭の中で勝手に変換されるたび、胸の奥が冷えるのが分かる。


 復讐は終わったはずだ。


 第一部で俺は「追い込んだ」。


 それでも二部に入って、火はまた戻ってくる。


 怒りは燃料だ。


 空白を埋めるには強すぎるほど都合がいい。


 ボールを打ち返すたび、呼吸が乱れる。


 乱れているのに、苦しいと思うより先に、苛立ちが増える。


 自分の顔が、硬い。


 分かっている。


 鏡がなくても分かる。


 硬い顔のまま、壁に向かって打ち続けている自分が、滑稽で危険だ。


 ――復讐を考えてる時の俺は、こういう顔をしていた。


 それを、日常の中に持ち込むな。


 持ち込むなと頭では分かっているのに、思考は止まらない。


 その時だった。


「……あ!」


 声がした。


 ラケットを振り抜いた腕が一瞬止まり、ボールが変な角度で跳ねてコートの端に転がる。


 振り向くと、入口の方で桐生玲奈が手を振っていた。


 ジャージ姿。


 ラケットケース。


 息を切らしているわけでもないのに、来た瞬間の空気が明るい。


「兄さん! どうしたの? そんなに難しい顔して壁打ちする人、初めて見たよ!?」


 俺は反射で口角を上げそうになって、失敗した。


 笑顔が作れないんじゃない。


 作れる。


 作れるが、今はその“作る”が余計に重い。


 だから、別の逃げ道を選ぶ。


「……ちょっと集中切れてた」


 声はなるべく軽くする。


「フォーム、安定しなくてさ」


 嘘じゃない。


 本当にフォームは安定していない。


 ただ、その原因が技術ではなく、頭の中の地雷だというだけで。


 玲奈は安心したように頷く。


「え、そういうこと? びっくりした! なんか、壁と喧嘩してるみたいだったから!」


「喧嘩はしてない」


「してたよ。顔が」


 玲奈の言い方が、容赦ないのに嫌味じゃない。


 こういう距離感が、俺の中の警報を鈍らせる。


 玲奈は壁の方を見て、俺のラケットの握りを見て、すぐ言った。


「でも、初心者でそこまでできるの普通にすごいよ? 球の高さ、昨日より安定してる」


 褒め言葉が胸に当たる。


 罠じゃない。


 誘導でもない。


 ただの評価。


 それが、逆に刺さる。


「……ありがとう」


 俺がそう言うと、玲奈は満足げに笑った。


「ね。だから難しい顔しない。兄さん、顔に出やすいもん」


 顔に出やすい。


 それは昔からだ。


 放送部で“声”を扱う側だった時、俺は常に「顔を消す」練習をしていた。


 無表情は冷たい。


 作り笑いは不自然。


 その中間の「問題がない顔」を作り続けるのは、案外体力を使う。


 それでも、今の俺はさらに厄介だ。


 作る以前に、顔の奥で燃えてしまう。


 玲奈は少しだけ声を落とした。


「……壁打ち、付き合う?」


 それは“励ます”というより、自然な提案だった。


 俺は一瞬だけ迷い、すぐに首を振った。


「今日は、いい。もう少しで時間だから」


 玲奈は「あ、そっか」と頷いて、無理に踏み込まなかった。


 それがありがたい。


 それでも、玲奈は最後に一言だけ置く。


「また今度、一緒にラリーしよ。約束、してるもんね」


 約束。


 指切り。


 小指の関節が、ほんの少し痛む気がした。


「……うん」


 俺は短く返した。


 玲奈は満足そうに笑い、入口の方へ戻っていった。


 背中が見えなくなってから、俺はラケットを握ったまま、しばらく立ち尽くした。


 危なかった。


 玲奈が来なければ、俺は“復讐の顔”のまま壁を殴り続けていた。


 殴るのは壁じゃない。


 本当は、自分だ。


 それに気づかされるのが、嫌で、助かる。


 矛盾している。


 俺は、ボールを拾い、ラケットをケースに入れた。


 ――気分を変えたい。


 変えたいのに、変える方向が分からない。


 だから俺は、いちばん俺らしい逃げ方を選んだ。


 知識に逃げる。


 疑問を、資料で殴る。


 答えが出なくても、せめて輪郭だけは掴む。


 ◇


 博物館は、平日の夕方だと静かだった。


 入口のガラス扉が閉まる音が、妙に大きく聞こえる。


 受付でチケットを買い、展示室へ向かう。


 最初のコーナーは「近現代史の歩み」という、いつの時代も逃げ道になってくれる年表だった。


 元の世界でも、歴史は好きだったわけじゃない。


 ただ、放送部で番組を作る時、資料を読む癖がついた。


 事実を拾う。


 並べる。


 繋ぐ。


 その作業は、感情よりも安定している。


 年表の前に立つ。


 パネルを読む。


 ――朝鮮戦争特需。


 ここまでは同じだ。


 見慣れた単語。


 戦後復興。


 高度経済成長。


 教科書の並びと一致している。


 だからこそ、次の一行で足が止まった。


 「第二次特需:欧州大衝突(通称・第三次世界大戦)」


 第三次世界大戦。


 その単語の重さに、思わず眉が動く。


 だが説明文は、想像していた“終末”の匂いをしなかった。


 「日本は直接参戦せず、海上輸送支援と復興資材の供給により経済的影響を受けた」


 つまり、大規模の戦争ではあるが、日本が焦土になったわけではない。


 直接戦っていない。


 それでも“特需”が生まれた。


 経済のきっかけが二つあった、ということだ。


 ――なるほど。


 だから建設業と物流が、元の世界よりも早く効率化に振れた可能性がある。


 別のパネルが続く。


 「労働人口の急減と省人化技術の発展」


 ここで、文字が鋭くなる。


 「性比偏在の進行により、重労働分野の人材確保が困難となり、建設・運輸・保守における補助外骨格・半自動重機・無人搬送技術が重点的に導入された」


 俺が動画で見たものが、ここに文字として固定されている。


 世界はやっぱり、必要に迫られて“そこだけ”進化している。


 そしてそれは、偶然ではなく政策として起きた。


 補助金。


 実証。


 導入。


 全部、意図的だ。


 俺は、別の展示へ視線を移す。


 「国際関係の変遷」。


 そこでまた、あの単語に出会う。


 「オスマントルコ」


 当然のように年表の中にいる。


 「同盟」。


 「交易」。


 「文化交流」。


 “滅びた帝国”としてではなく、“続いている国”として扱われている。


 ――うそだろ、じゃなく、やっぱり、だ。


 世界線が違う。


 男女比が逆転しただけではない。


 歴史のどこかで分岐して、その結果が今の世界の常識になっている。


 俺は展示の間を歩きながら考える。


 じゃあ、俺はどうしてこの世界に来た?


 きっかけは何だ?


 なぜ俺だけが、元の世界の記憶を持ったままここにいる?


 いや、俺だけじゃない。


 由衣もいる。


 遼もいる。


 周もいる。


 由美もいる。


 “平行世界から来た”人間が複数いる時点で、偶然ではない。


 だが、どう繋がっている?


 そして――帰れるのか?


 帰れたら一番早い。


 元の世界で告発して、家族ごと逮捕して、逃げ場を完全に塞ぐ。


 そういう極端な案が、また頭をよぎる。


 でもすぐに行き止まりにぶつかる。


 帰る方法が分からない。


 そもそも、帰れる保証がない。


 帰れないなら、今ここでできることを積むしかない。


 そう考えるたび、胸の奥がざらつく。


 復讐は終わったはずなのに。


 由美が絡むことで、また“終わっていない”形に戻される。


 そして今度は、世界のズレまで見えてしまった。


 ――俺の人生、休ませてくれよ。


 そう言いたくなる。


 だが、言ったところで誰も答えない。


 答えるのは、展示の文字だけだ。


 俺は別の展示室に入った。


 そこには「転移現象に関する記録」という、目を疑うタイトルの小さなパネルがあった。


 大きなメイン展示ではない。


 片隅に置かれた“補足資料”のような扱い。


 それが逆に現実味を持っている。


 日常の歴史の脇に、当たり前のように並ぶ異常。


 パネルの文は短い。


 「転移現象(異界漂流者)については、近年観測例が報告されている」


 近年。


 その単語に、心臓が一度だけ跳ねる。


 続き。


 「制度整備は進行中であり、生活支援と身元確認の枠組みが自治体ごとに異なる」


 俺の中で、別の記憶が重なる。


 “住所がない”という恐怖。


 “登録できない”という焦り。


 俺がずっと抱えてきたものは、個人の問題ではなく、制度の穴だったのか。


 さらに下に、小さな年表がある。


 「初観測:二〇××年」


 その年を見た瞬間、息が止まった。


 俺がいなくなった年と、近い。


 完全一致ではない。


 だが、近すぎる。


 俺の失踪は、俺だけの事件ではなく、“現象”の一部だったのかもしれない。


 俺は展示に顔を近づけた。


 その瞬間、背後で小さな無線音がした。


 ピッ、という短い音。


 反射で振り向く。


 監視員がいる。


 普通の制服。


 普通の中年。


 ただ、目線が一瞬だけこちらに刺さって、すぐに逸れた。


 気のせいか?


 いや、違う。


 俺は“見られる側”にいる。


 配信者として顔を売っている。


 だから、ここでも誰かが俺を認識していても不思議ではない。


 不思議ではない。


 不思議ではないのに――背筋が冷える。


 俺は、もう一度パネルに視線を戻した。


 転移現象。


 異界漂流者。


 制度整備。


 年。


 文字が、急に刃物みたいに見える。


 由美の「リセット」が軽かった理由が、少しだけ分かる気がした。


 この世界は、異常を異常のまま置いておけるほど、余裕がない。


 だから“制度”として飲み込む。


 だから“歴史”として整理する。


 だから“普通”の顔で歩ける。


 ――でも、俺は整理できない。


 整理できないから、復讐にすがった。


 整理できないから、今も揺れる。


 俺は展示室の出口に向かいながら、胸の奥で小さく呟いた。


 何がきっかけなんだ。


 なぜこの世界に来た。


 なぜ俺は、ここにいる。


 そして――どこまでが偶然で、どこまでが誰かの意図だ。


 出口のガラス扉が近づく。


 外は夕暮れで、街の光が点き始めている。


 博物館の静けさから一歩出れば、また日常に戻る。


 テニス。


 学校。


 配信。


 玲奈との約束。


 澪の録音。


 由美の焦り。


 全部が同じ時間の中に混ざっている。


 俺は、その混ざり方が怖い。


 怖いのに、目を逸らせない。


 扉の前で、俺は一度だけ立ち止まった。


 小指を、握り込む。


 約束の痛みを確かめるみたいに。


 そして、心の中で結論だけを置いた。


 ――帰れないなら、この世界の“ズレ”を掴むしかない。


 復讐のためじゃない。


 でも、復讐から逃げるためでもない。


 ただ、俺が俺のまま生きるために。


 扉が開いて、外の空気が頬に触れた。


 その瞬間、背後でまた、短い無線音がした気がした。

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