第二部・第9話:リセットなんてできない
澪から送られてきた録音を、翔はその夜だけで五回以上、再生していた。
聞けば聞くほど、耳が慣れるどころか逆に痛くなる。
『殺すように誘導した――』
その一行が、頭の中で勝手に反芻される。音声ファイルを閉じても、脳が自動で再生してくる。まるで自分の中に、もう一台録音機があるみたいだった。
玲奈と指切りした小指が、やけに冷たい。
あの約束は、未来のためのものだった。復讐とは無関係の、生活のための言葉だった。
なのに今、同じ指が「戻るな」と「戻れ」を同時に命令してくる。
どっちも自分の声だ。
どっちも嘘じゃない。
だから息が詰まる。
◇
翌日、翔は学校へ向かう途中で、澪に短く言った。
「綾瀬由美を呼び出す」
澪は一瞬だけ立ち止まり、翔の横顔を見た。
「……兄様、証拠があるわけじゃないよ」
「ある」
翔は答える。
「録音はある。でもあれだけじゃ“由美本人の罪”にはならない。……だから、本人の口から引き出す」
澪は唇を噛んだ。
「……分かった。けど、絶対に一人で行かないで」
「ついてくる気か」
「うん」
迷いのない返事だった。澪のこういうところは、翔に似ている。線を引くための行動が早い。
翔はそれ以上、言わなかった。止める言葉が出てこない。止めたところで、止まれる自分じゃないことを分かっているからだ。
◇
放課後。
翔は廊下の端、掲示板の陰で由美を待った。人の流れが落ち着く時間帯を選んだ。わざと人気が完全に消えない場所を選んだ。
誰もいない場所は、危険だ。
誰かがいる場所は、こちらにも“線”が引ける。
由美は、思ったよりあっさり現れた。
制服の着こなしも、歩き方も、昨日と変わらない。何かを抱えている人間の顔ではなく、教室の中心にいる側の顔だった。
その笑顔が、翔の内側をじわりと苛立たせる。
「なに? 柊翔くん」
声が軽い。
「怖い顔してる。学校で揉め事はやめてよ?」
翔はその軽さに合わせない。
言葉を飾らず、短く切る。
「話がある」
「ここで?」
「移動する」
翔は視線だけで場所を示した。校舎裏手の渡り廊下。昼休みに人が通らない角。だが完全な死角ではない。少し離れれば監視カメラの死角もない。
由美は肩をすくめた。
「いいよ。別にやましいことしてないし」
その台詞が、胸の奥を逆撫でする。
――やましいことをしていない顔で、やましいことを言う。
翔は歩き出し、由美がついてくるのを確認した。
少し遅れて、澪が距離を取って後ろを歩く。
澪は“同席”しない。
それも戦術だった。
翔が聞き出す。澪は“止めるために”ではなく、“守るために”そこにいる。
◇
渡り廊下の角に着いた。窓から差す光が床に細い帯を作っている。足音は遠い。完全に静かではないが、会話は十分聞こえる。
翔はスマホをポケットの中で握り、録音アプリを起動した。画面を見ない。操作に迷いが出ると、由美に気づかれる。
由美はそれを知らないまま、壁にもたれるように立った。
「で? なに?」
翔は息を吸う。
ここからは、放送部の癖が役に立つ。質問は短く、順番に。感情を混ぜず、返答の“揺れ”だけを見る。
「確認する」
翔は淡々と言った。
「お前が、あいつに――俺を殺そうとする方向へ追い込んだのは、わざとか」
由美の眉がぴくりと動く。
「追い込んだってなに?」
すぐ反射で返す。防御だ。
翔は続ける。
「わざとか。もしくは、誰かにやらされるよう誘導されたのか」
由美は一瞬だけ口を開きかけ、閉じた。
答えを選んでいる間だ。
「……誰かにやらされたってわけじゃないけど」
微妙な言い方。
逃げ道を残す言い方。
翔はそこを逃がさない。
「つまり、お前の意思だ」
由美は口角を上げようとして失敗し、代わりに視線を逸らした。
「……でもさ」
言い訳が始まる。
「私が“何かした”って言われても困る。私、包丁を持ったわけでもないし、刺したわけでもない」
翔の喉がひくりと動く。
由美は続ける。
「それに、こっちの世界では私、何もしてないよ? こっちに来てからは、普通に生きてるだけ」
一拍。
「だから……リセットして、っていうか」
翔の中で、何かがぶつんと切れた。
リセット。
その単語が、あまりにも軽い。
軽くて、薄くて、都合がいい。
翔は遮った。
「よく言えるな」
声が低い。
「リセットできるのは、お前の罪悪感だけだ」
由美の表情が強張る。
「なにそれ……」
翔は一歩だけ詰めた。
「一人の人間が死んだんだぞ」
由美の目が揺れる。
翔は続ける。
「“刺したのは自分じゃない”って言うなら聞く」
指で床を指すように、言葉を落とす。
「じゃあ、お前は何を失った?」
由美は言葉に詰まる。
翔の胸の奥が熱くなる。怒りが戻ってくる。録音の一行が燃料を注ぐ。
「お前は何を失ったんだ」
同じ問いをもう一度言う。
「俺は母を失った。あいつに刺されて、目の前で」
言ってから、自分の声が少し震えていることに気づく。
父の泣きそうな顔が一瞬よぎる。
玲奈の笑顔が一瞬よぎる。
そしてそれが、怒りを止めるどころか、余計に痛みを増やす。
――戻りたくない。
――でも戻る。
由美は、ようやく口を開いた。
「……そんな怖い顔しないでよ」
逃げの台詞だ。
「私だって、怖かったんだよ。あの時」
翔は笑いそうになった。
怖かった?
怖かったから、他人を押した?
怖かったから、火をつけた?
怖かったから、後ろに下がって“普通に生きてるだけ”って顔をする?
翔の口が開きかける。
喉の奥に、最悪の言葉がせり上がる。
(だったら、お前の両親を――)
そこまで浮かんだ瞬間、翔は歯を食いしばった。
言ったら終わる。
言った瞬間、俺は同じ側になる。
指切りした小指が、痛むように震えた。
玲奈の「ありがとう」が、耳の奥で鳴る。
翔はその言葉を飲み込み、代わりに、もっと冷たい言葉を選んだ。
「怖かったなら、なおさら言えたはずだ」
由美が目を見開く。
「父さんが必死に動いてた時期があった。署名、情報提供、捜索の募集」
翔は淡々と言う。
「もしお前が“本当に”怖かったなら、その時点で誰かに言えた。誰かを止める手段はいくらでもあった」
「でもお前は何も言わなかった」
一拍。
「そして今、“こっちでは何もしてない”で終わらせようとしてる」
由美の唇が震える。
怒りか、恐怖か、屈辱か。どれでもいい。翔は見ているのは感情ではなく、罪の影だ。
「……私、謝るよ」
由美は急に声のトーンを変えた。
“正しい人”の声。
「責任取らないといけないし。……あいつとも話す。ちゃんと謝る」
翔の胸の奥が冷たくなる。
またそれだ。
責任。謝罪。きれいごと。
謝れば終わると思っている顔。
翔は言った。
「謝っても、戻らない」
「……戻らないものを、どうやって責任取る?」
由美は言葉を失う。
翔はさらに一歩踏み込みそうになり――そこで、背後から小さな足音が近づいた。
「兄様」
澪だった。
澪は距離を保ったまま、しかし視線だけは強く翔を捉えている。
「……ここまで」
翔は振り返らない。
だが澪は続けた。
「落ち着いて。騒ぎになると、証拠がない分、向こうが有利になる」
正論。戦術。
澪はそれを“裁くため”じゃなく、“守るため”に言っている。
翔は分かる。分かるのに、今はその言葉すら邪魔に感じる自分がいる。
澪はさらに一歩近づき、声を落とした。
「兄様、指切りしたでしょ」
その一言が、翔の喉をきつく締めた。
玲奈の顔がよぎる。
約束する、と言った自分の声がよぎる。
澪は続ける。
「今ここで壊したら、玲奈ちゃんとの約束も壊れる」
「兄様がせっかく“楽しい”って言えたものまで、全部なくなる」
翔の指先が震える。
怒りが引くわけじゃない。
ただ、怒りの行き先が一瞬だけ迷う。
――今、殴るべきは誰だ。
由美か。
それとも、自分か。
澪は、最後に言った。
「一度帰ろう。……証拠が足りないなら、集める」
その言い方が、翔の頭を少しだけ冷やした。
感情で終わらせない。
戦術で進める。
それが、第一部の翔のやり方だった。
それでも今の翔には、指切りの痛みがある。
復讐だけで走れない身体になりかけている。
翔は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
由美がほっとした顔をする。
その顔が、逆に腹立たしい。
翔は最後に由美を見た。
声を張らずに言う。
「リセットなんて、できない」
「お前の人生が新しくなるだけで、俺の失ったものは戻らない」
由美の表情が、わずかに割れた。
そこにあったのは、作った笑顔じゃない。
焦りだ。
翔は澪と一緒に、その場を離れた。
歩きながら、小指の関節が痛む。
約束の形が、今はただの鎖みたいに感じる。
でも同時に、その鎖が自分を止めたことも否定できない。
◇
渡り廊下の角を曲がり、二人の足音が遠ざかったあと、由美は一人で壁にもたれた。
息を吐く。
震える手でスマホを取り出す。
画面を何度かタップして、通話を繋ぐ。
「……ねえ」
さっきの“正しい人”の声ではない。
素の低い声だ。
「まずいかも」
通話の向こうが一瞬沈黙し、低い声が返ってくる。
『……何が』
「柊翔が、私に会いに来た」
由美は視線を泳がせ、周囲に人がいないのを確認する。
「あと……あの子、いる」
『……あの子?』
「水無月澪。たぶん、見てた」
由美は唇を噛み、声を落とす。
「録音、持ってるかもしれない」
通話の向こうで、何かを叩く音がした。
そして、短い命令が落ちる。
『消せ』
由美の喉が鳴る。
「……そんな簡単に言わないで」
返事は冷たい。
『簡単にしろ』
由美は目を閉じた。
胸の奥に、焦りが広がる。
柊翔はもう“終わった”人間じゃない。
終わっていない。
終わらせない。
その目を、今日、真正面から見てしまった。
由美は小さく息を吸い、吐いた。
「……分かった」
通話を切る。
由美はスマホを握りしめたまま、口の端だけで笑った。
リセットできないのは、翔だけじゃない。
自分もまた――引き返せない場所に立っている。
そう自覚した瞬間、第二部の空気がまた一段、冷たくなった。




