第二部・第8話:指切りと録音
市営コートの空気は、夕方になると少しだけ甘い匂いがした。
人工芝に残った熱が、日が傾くにつれてゆっくり抜けていく。
桐生玲奈は先に来ていて、ネット際で軽く素振りをしながら翔を待っていた。
会うのは三回目――それだけの回数なのに、翔は「知らない誰か」と向き合う時に必ず鳴る胸の警報が、今日は少しだけ弱いことに気づいていた。
弱いのが怖い。
怖いのに、嫌じゃない。
自分の中の矛盾を持て余したまま、翔はコートに足を踏み入れた。
「翔兄さん!」
玲奈は手を振った。
呼び方は相変わらずだ。
兄じゃない、と言い直す選択肢も、もう頭に浮かばなくなりつつある。
それが、少し危険だと分かっているのに。
「今日も来たね」
玲奈が嬉しそうに言う。
「……来た」
翔は短く返した。
短くても拒絶ではないと、玲奈は理解している顔だった。
最初から、そういう距離を読める子だ。
だからこそ、余計に油断しそうになる。
玲奈はラケットを構え、当たり前のように指示を出した。
「じゃあ、最初はショートラリーから。昨日よりちょっとだけ前に入って、打点を早くする。走る距離を短くする感じ」
走る距離を短くする。
その言い方が、翔にはありがたかった。
走れ、ではない。
走らなくていいように、動け――という指示。
翔は頷き、ラケットを構える。
玲奈の球が飛んできて、翔はそれを返す。
当たる。
返る。
続く。
昨日は「当たる」だけで精一杯だったのに、今日は「返す場所」を考えられる。
頭の中が、静かになっていく。
人の目も、過去も、復讐も、一旦後ろに退く。
目の前にあるのは、ボールだけだ。
ボールの弧、回転、落ちる位置、次の一歩。
それだけに集中している間、翔は自分の中の騒音が消えるのを感じた。
息が上がる。
太ももが重くなる。
肩が痛くなる。
それでも、嫌じゃない。
むしろ、痛みが「今ここにいる」証拠みたいで、少し安心する。
「いい!」
玲奈が声を上げた。
「今の、めちゃくちゃいい! 面が安定してる!」
褒め方が直球で、翔は目を逸らしたくなる。
褒められると、どう反応していいか分からない。
復讐の頃、褒め言葉は罠だった。
相手の都合で作られた印象だった。
でも玲奈の声は、ただの興奮だ。
そこに計算がない。
翔は小さく息を吐き、次の球を返す。
ラリーが続く。
気づけば、ショートがロングになっている。
玲奈がわざと左右に散らしてくる。
翔は追う。
走る。
走っているのに「走っている」と意識する暇がない。
意識は常に“間”に置かれる。
返せるか。
返すならどこに。
次に来るのは何か。
放送部で空気を読んでいた時と同じ種類の集中が、身体の動きに変換されていく。
そして、ある瞬間。
翔の足が自然に前へ出た。
ほんの半歩。
それだけで、球が急に近く感じる。
打点が前になる。
返球が、相手の時間を奪う。
「……っ!」
玲奈が目を見開いた。
ラケットの面で受けながら、すぐ笑う。
「今の、ずるい! 初心者の球じゃない!」
「初心者だ」
翔は即答した。
嘘は言わない。
でも、全部は言わない。
「ただ、見てる」
「見てるだけであれできるなら、才能だよ」
玲奈は言い切った。
翔の胸の奥が、ほんの少しだけ温まる。
才能。
その単語は、本来なら甘い。
でも翔にとっては怖い。
才能があると言われると、「その先」を期待される。
期待は、裏切る。
裏切られたのは母ではなく、自分だった。
そんな考えが頭をよぎり、翔は振り払うようにラケットを握り直した。
ラリーが途切れる。
玲奈が手を上げた。
「休憩!」
翔も頷き、ベンチに腰を下ろす。
息が切れている。
喉が乾いている。
汗が目に入って少し痛い。
それなのに、翔は、思わず口にしていた。
「……楽しいな」
自分の声が、自分の耳に一瞬遅れて届く。
楽しい。
その言葉は、復讐の中にはなかった。
喜びでも、達成感でもない。
ただの、生活の言葉。
玲奈が、その一言を聞いた瞬間、表情をぱっと明るくした。
「でしょ!? 良かった!」
ベンチの前に立って、子供みたいに笑う。
「兄さんも楽しいって感じてくれて!」
翔は少しだけ目を細めた。
そう言われると、胸の奥がくすぐったい。
玲奈は急に声のトーンを落とした。
明るい顔のまま、でも少しだけ本音の色が混じる。
「……テニスする人、同年代の友達であんまりいないんだ」
翔は黙って聞いた。
玲奈は指先でラケットのグリップをいじりながら続けた。
「部活の子はいるよ。いるけど、同じくらいのレベルで、気楽に誘える相手って少なくて……」
一拍。
「誘う勇気も、あんまりないし」
そこが、玲奈の弱さだった。
しっかりして見えるのに、意外と怖がりだ。
翔は水を飲み、少しだけ間を作ってから言った。
「……俺でよかったら、いつでも相手になるよ」
玲奈が顔を上げる。
翔は続けた。
「今は無理でも、いつかは壁打ちの相手くらいにはなれる。……いや、もう少しだけ上手くなる」
言いながら、翔は自分でも驚いていた。
“いつか”の話をしている。
復讐が終わったあと、未来の単語は嫌いだった。
未来を考えると、空白が見えるから。
でも今は、“いつか”という言葉が、空白を埋める小さな杭になる気がした。
玲奈は目をぱちぱちさせ、すぐに笑顔を作り直した。
「本当に?」
翔は、少し迷った。
迷いは、いつも通りの警戒心だ。
約束は重い。
約束は、守れなかった時に人を壊す。
なのに、翔はその迷いを押し込めた。
玲奈が欲しがっているのは、技術じゃない。
安心だ。
誰かが隣にいてくれるという、単純な安心。
翔は、指を一本立てた。
「……指切り、するか」
玲奈が目を丸くする。
「え、指切り!?」
「約束、っていう形がいるなら」
玲奈の顔がぱっと赤くなって、でも嬉しそうに頷いた。
「する!」
翔は小指を差し出す。
玲奈が小指を絡める。
その瞬間、翔は気づく。
自分の指先が、少しだけ震えている。
怖いのに、離したくない。
「……うん」
翔は小さく言った。
「約束する」
玲奈は絡めた指を上下に揺らし、笑った。
「ありがとう! 嬉しい!」
その笑顔に、裏はない。
それが、翔には眩しかった。
◇
帰り道、翔は自分の体が軽いことに気づいた。
足取りが軽い、という意味だけではない。
胸の奥の圧が、少しだけ弱い。
運動したからか。
汗をかいたからか。
呼吸が乱れたからか。
理由は分からない。
でも、明らかに余裕が出ている。
帰宅してからも、澪の「おかえり」に自然に返事ができた。
由衣の「今日どうだった?」という声にも、短い言葉で返せた。
「……悪くなかった」
それだけなのに、由衣は少し安心した顔をした。
翔は、やけに世界がうまくいきそうな気がしていた。
錯覚だと分かっている。
人生はそんなに簡単じゃない。
それでも、今夜だけは。
眠れるかもしれない、と思った。
◇
その夜、澪が帰ってきたのは遅かった。
玄関の音がして、リビングの明かりが少し揺れる。
翔はソファで端末を見ていた。
澪が入ってきた瞬間、空気が変わった。
いつもの澪じゃない。
顔色が薄い。
目が、少し赤い。
迷って、迷って、決めてしまった人間の顔だ。
「……兄様」
澪は立ったまま言った。
声が小さい。
「ごめん」
翔は何も言わなかった。
言えば、澪が崩れる。
そんな予感がした。
澪は唇を噛み、絞り出すように続けた。
「黙っておこうと思った……本当は」
息を吸う。
「最近、兄様……楽しそうだったから」
その一言が、胸に刺さる。
澪は“見ていた”のだ。
兄が少しだけ回復しかけたことを。
その顔を、壊したくなかったことを。
でも、澪は続けた。
「……でも、このままだと」
拳が震えている。
「悪い方向に転がった時、後悔しそうだった」
翔はようやく、声を出した。
「……何の話だ」
澪は目を閉じてから、端末を取り出した。
「これ」
短く言って、翔に送信する。
翔の端末が震えた。
通知。
添付ファイル。
音声データ。
タイトルは無機質だった。
【録音】。
翔の指先から、さっきの“軽さ”が消えていく。
玲奈と指切りした小指が、妙に冷たい。
翔は再生ボタンの上で一瞬止まった。
止まったのは迷いじゃない。
理解だ。
――これは、開いたら戻れないやつだ。
澪がかすれた声で言う。
「……聞いて」
「兄様には、言わないでおこうと思った」
「でも、私が黙ってたせいで、兄様が後からもっと傷つくのが嫌だった」
正しさじゃない。
愛と怖さだ。
翔は、再生ボタンを押した。
◇
最初は風の音が入っていた。
遠くの人の声。
そして、女の声。
『……ねえ。まだ、あの話引きずってる?』
玲奈じゃない。
澪でもない。
知らない女。
だが、翔はすぐに分かった。
第二部・第3話で教室に来た転校生――綾瀬由美。
そして、男の声。
荒い息。
怒りが混じっている。
『当たり前だろ!!』
次の言葉が、耳を裂いた。
『お前が……お前があいつを殺すように誘導した――!』
翔の呼吸が止まる。
血が引く。
頭の中の空気が、一気に入れ替わる。
その後も音は続いている。
だが、翔にはもう聞こえなかった。
聞こえても、意味が入ってこない。
“誘導した”。
“殺すように”。
そこだけが、脳に焼き付く。
澪の声が遠くで揺れる。
「……兄様」
「ごめん」
「本当に、ごめん……」
翔は端末を握りしめたまま、動けなかった。
玲奈と指切りした小指が、勝手に曲がる。
約束の形が、皮膚の内側から痛む。
その痛みと同じ強さで、別の感情が戻ってくる。
怒り。
憎しみ。
そして――“答えがある”という感覚。
復讐が終わって空っぽになったはずの自分に、再び燃料が注ぎ込まれる。
嫌だ。
戻りたくない。
せっかく息ができる場所を見つけたのに。
せっかく未来の言葉を口にしたのに。
せっかく、指切りまでしたのに。
なのに。
録音の中の一行が、それを全部塗りつぶそうとする。
翔は、ゆっくり立ち上がった。
澪がびくりと身をすくめる。
翔は澪を見ない。
見たら、壊してしまう。
壊したくないのに、今の自分は壊しそうだ。
声が、低くなる。
「……澪」
澪が息を呑む。
「これ、どこで」
「……私が、尾行した」
澪の声は震えていた。
「兄様が変だって思って……転校生が怪しいって思って……」
言い訳ではない。
自分の行動の責任を引き受ける声だ。
翔は、それ以上聞かなかった。
聞けば、理性が戻る。
でも、今戻したら、録音の意味が消える。
そんな気がしてしまう。
それが一番、怖い。
翔は、端末の画面を見つめた。
再生は止まっている。
それなのに、あの一行だけが、頭の中で何度も再生される。
『殺すように誘導した――』
翔の喉が動く。
言葉になりかけて、喉の奥で止まる。
その瞬間、玲奈の声が思い出される。
「でしょ!?良かった!」
「ありがとう!嬉しい!」
指切りの感触。
約束する、と言った自分の声。
その全部が、今の怒りを少しだけ引き止める。
――完全には戻れない。
戻りたくない。
でも――戻ってしまう。
翔は、ようやく澪を見る。
澪は泣きそうな顔で、でも逃げずに立っていた。
翔は言った。
「……ありがとう」
自分でも信じられない言葉だった。
澪が目を見開く。
翔は続ける。
「言ってくれて、ありがとう」
その上で、息を吐く。
「……でも、これを聞いた俺は」
一拍。
「たぶん、戻る」
澪の肩が震える。
翔は自分の小指を見た。
指切りした指。
約束した指。
その指が、今夜は冷たい。
それでも――ちぎれない。
ちぎれないからこそ、痛い。
翔は、端末を握りしめたまま、静かに言った。
「俺はもう一回だけ、考える」
「復讐のためじゃない」
「……約束を壊さないために」
言い終えた瞬間、翔は自分が初めて“二つ”を同時に抱えていることに気づいた。
復讐に囚われる自分。
でも、誰かと約束した自分。
どちらも嘘じゃない。
どちらも、今の自分だ。
澪は涙をこぼしながら、震える声で言った。
「……兄様」
「壊れないで」
翔は返事をしなかった。
返事をしたら、守れないかもしれないからだ。
代わりに、端末をもう一度見つめた。
録音のファイル。
世界は、優しいだけじゃ終わらない。
でも、優しさが“無かったこと”になるわけでもない。
翔は、小さく息を吸った。
その夜、翔の中で、復讐は再び息を吹き返した。
同時に、指切りの痛みも、確かにそこに残っていた。




