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第二部・第7話:ラケットの先

 元の世界での俺は、放送部だった。


 表に立つより、裏のほうが落ち着いた。カメラの位置、音量のバランス、間の取り方。誰かの声が震えたら、どこで息継ぎするかを先に読む。感情を煽らない、でも冷たくしない。そういう「空気の設計」をやるのが好きだった。


 だから、今の自分が“配信者”で、しかも“アイドルを目指す側”として前に出ているのは、未だに少し変だと思う。やっていることの本質は同じだ。空気を読み、言葉を選び、印象を整える。ただ――裏から触っていたものを、今は自分の顔と声で直接作っている。それだけの違いが、想像以上に体力を削る。


 そこに、第二部に入ってからの新しい課題が乗った。


「君たちさ。顔も大事だけど、身体も大事だよ」


 レッスン室で、指導役がさらっと言った。


 鏡張りの壁。床に並ぶマット。姿勢を正すためのストレッチの時間。俺はその光景が、どうにも現実感がなくて、目を逸らしたくなる。


「歌うにも踊るにも、結局は体力。十代のうちは誤魔化せる。でも大人になったら、誤魔化しは効かない。怪我する、声が出ない、顔がむくむ、倒れる。芸能でやっていきたいなら、運動は“才能”じゃなくて“義務”」


 義務。


 その言葉が胸に引っかかった。


 復讐が終わった今、運動なんてする意味があるのか?


 そんな疑問が、頭の中をよぎった。復讐のために身体を追い詰めたことはあっても、「未来のために鍛える」なんて発想は、ずっとなかった。未来を考えると、余計に空白が見えてしまうからだ。


 ――でも。


 今の俺は、未来を見ないと立っていられない場所にいる。


 復讐が燃料だった時は、燃えればいいだけだった。燃え尽きた後は、燃えるものを作らないと、ただ冷えていくだけだ。だから、義務という言葉を、俺は否定できなかった。


 翌日から、俺は部活を観察し始めた。


 特に目的はない。見て、選んで、試す。いつものやり方だ。


 グラウンドでは陸上部が走っていた。規則的な呼吸。揃った足音。あれは無理だ、と直感する。俺は走るのが嫌いだ。正確に言えば、「走ることそのもの」が目的になるのが嫌いだ。意識して走ると、呼吸の苦しさばかりが前に出て、思考が削られる。


 体育館ではバスケ部が跳ねていた。反射と体力と声。面白そうだが、ぶつかる。接触は疲れる。水泳部は良さそうに見えたが、プールの匂いを嗅いだ瞬間、頭の奥が過去に引っ張られて拒否した。


 その中で、ふと目が止まったのがテニスだった。


 コートの中で白いボールが弧を描いて飛び、ラケットの面で弾かれてまた戻る。動きは速いのに、空気は妙に静かだった。叫ぶより、読む。力より、当てる。走るより、位置取り。


 それに、走るのは走る。でも「走る」ために走っていない。ボールを返すために動く。夢中になっている時の走行は、俺にとって苦じゃない。嫌なのは、走ることを意識させられることだ。


 テニスは、意識が“ボール”に向く。だから走ることが副次になる。


 ――これかもしれない。


 そう思った瞬間、次の問題が浮かぶ。


 ルールが分からない。


 点数の数え方も、セットの意味も、サーブの順番も曖昧だ。興味はあるが、知識がない。しかも道具がいる。ラケット、シューズ、ボール。親に「テニス始めたい」と言うのは、妙に言いづらかった。父は今、ようやく息をしている。余計な負担も、余計な会話も増やしたくない。澪に言えば、絶対に過剰反応する。由衣に言えば、優しすぎる顔をする。


 だから俺は一瞬、諦めかけた。


 だが、次の瞬間に思い出す。


 ――俺、自分の金があるじゃないか。


 配信と仕事で得たギャラ。復讐のために貯めて、使わずに残った分。空白を埋めるような形で、口座に眠っている金。


 誰にも頼らずに、動ける。


 その事実が、少しだけ嬉しかった。


 俺はその日の帰り、スポーツショップに寄った。高いものは選ばない。初心者用。握りやすいグリップ。軽めのラケット。ボールはとりあえず一缶。恥ずかしさを誤魔化すようにレジを済ませ、袋を抱えて外に出た。


 ――こっそり練習して、上手くなったころに入部する。


 漫画みたいだ、と自分でも思う。だが、そういう“無駄にかっこつけた目標”がある方が、俺には合っている。いきなり部活に入って周りに合わせるのは疲れる。まず一人でできる範囲で形にして、それから他人の輪に入る。いつものやり方だ。


 コートは市のスポーツセンターで借りた。平日の夕方、空きがある時間帯。完全な貸し切りではない。隣のコートにも人がいる。受付もある。照明もある。誰もが見える環境だ。俺自身も、そういう場所の方が安心できる。人間不信の人間は、誰もいない場所を好まない。


 コートに立った瞬間、俺は動画で見たフォームを思い出し、見よう見まねでラケットを振った。


 空振り。


 ボールは地面に落ちて転がる。


 もう一度。


 今度は当たった。だが変な方向に飛び、ネットに刺さる。


 思ったより難しい。思ったより面白い。思ったより悔しい。


 気づけば、何度も拾って何度も打っていた。汗が滲む。息が上がる。それなのに嫌じゃない。呼吸が苦しいのに、意識が苦しさに向かない。ボールの軌道、ラケットの角度、足の位置。全部が「次はどうする?」に集中して、頭の中が静かになる。


 ――これだ。


 復讐の時とは違う静けさ。怒りで燃えた静けさではなく、目の前の課題に没頭する静けさ。久しぶりに、自分の中の騒音が消えた。


 どれくらい経ったのか分からない。


 ふと、コートの入口の方で足音がした。


 振り向くと、スポーツバッグを抱えた少女が立っていた。中学生くらい。制服ではないが、部活帰りの雰囲気がある。髪を結び、ラケットケースを背負っている。目が大きく、表情がまっすぐで、変に大人びていない。


 そして、俺を見るなり軽く頭を下げた。


「すいません」


 声がはっきりしている。


「兄さん、一緒に練習していいですか?」


 兄さん。


 その呼び方に一瞬だけ引っかかった。俺は兄じゃない。だがこの世界では、男というだけで“兄”扱いされることがある。澪の「兄様」もそうだ。距離の取り方としての呼称。優しさでもあり、檻でもある。


 俺は反射的に警戒した。知らない相手。しかも中学生。余計な誤解も、余計な接触も避けたい。


 だが周囲を見れば、隣のコートには社会人らしき女性たちがいるし、受付も目に入る。少女も一人ではなく、少し離れた場所に大人の女性が立っていた。コーチか、保護者か。こちらを見ているが、近づいてこない。ただ見守っている。


 それだけで、空気が変わった。


 危険ではない。少なくとも、ここでは。


 俺は声を落として聞いた。


「……なんで?」


 少女はきょとんとし、それから真面目に答えた。


「うち、テニス部なんですけど、練習相手が足りなくて」


 迷いのない声。


「男子いないから、球出ししてくれる人が少なくて……コーチはいるけど、今日は人数が偏ってて」


 男子がいない。


 この世界の現実が、こんなところにも刺さっている。


 少女は続けた。


「ここ、予約、兄さんが取ったんですよね? 私たち、隣のコートで少しだけ使う予定だったんですけど、空いてたから……もし迷惑じゃなければ、半面でもいいので」


 “半面”という言い方が具体的で、ただのお願いではないと分かる。礼儀もある。目的もある。変な距離の詰め方じゃない。


 俺は少しだけ息を吐いた。


 人間不信のせいで、素直に会話を楽しめない。だから計算する。合理性を確認する。条件を整理する。そうしないと「YES」が言えない。


 ――でも、今の俺には練習相手が必要だ。


 一人で打つだけでは限界がある。球出しも、壁打ちも、上達が遅い。ここで相手がいるなら、練習効率は段違いに上がる。


 俺は、ルールを決めるように言った。


「……いいけど、こっちも初心者だぞ」


 少女の目が少しだけ丸くなる。


「え、そうなんですか?」


「そう。だから上手く合わせられない」


「大丈夫です。合わせます。私、ラリー得意なので」


 即答。


 嘘の匂いがしない。自信がある人間の即答だ。


 俺は頷いた。


「じゃあ、半面だけ。危ないから無茶はしない。名前も……今は聞かない」


 距離を置く宣言。嫌味じゃない。線引きだ。


 少女は一瞬だけ「え?」という顔をして、それから笑った。


「分かりました。じゃあ……私、桐生きりゅう 玲奈れなです」


 言ってしまったらしい。言い直すように、慌てて付け足す。


「あ、今は聞かないって言いましたよね……ごめんなさい、癖で」


 その慌て方が、妙に可笑しかった。


「……俺は、翔」


 短く名乗ると、玲奈は「よろしくお願いします、翔兄さん」と頭を下げた。


 俺は心の中でだけ、ため息をついた。兄さん呼び、やめろとは言えない。言えば、余計に面倒な説明が増える。今はその余裕がない。


 玲奈はすぐにボールを取り出し、軽く素振りをして距離を測った。フォームが綺麗だった。打点が安定している。足が軽い。見た目よりずっと本気だ。


「じゃあ、軽くショートラリーから」


 言い方がコーチみたいだった。


 俺は言われるままに構え、玲奈が打ってきたボールを返す。


 当たる。


 返る。


 続く。


 さっきまで一人で空振りしていたのが嘘みたいに、ラリーが成立する。玲奈が合わせてくれているのが分かる。球速を落とし、回転を控え、俺の打ちやすい位置に返してくれる。


「今の、いいです」


 玲奈が言った。


「面、ちょっとだけ上向けると安定します」


 俺は黙って頷き、言われた通りに角度を変える。


 返りが変わった。


「……すごいな」


 思わず口に出る。


「え?」


「教えるのが上手い」


 玲奈は少し照れたように笑った。


「男子いないから、教えるの慣れました」


 その一言が、また刺さる。男がいない世界は、こういう形で日常を変えていく。誰かが誰かの役割を代替する。だから社会が回っている。だから歪みも残る。


 ラリーが続くうちに、俺の体が勝手に動き始めた。ボールを追う。打点を読む。相手の癖を見る。放送部で培った「間」を、今はボールの“間”として読む。


 玲奈が驚いた顔をする。


「……翔兄さん、ほんとに初心者ですか?」


「初心者」


 俺は即答する。


「ただ、観察は得意」


「それ、才能ですよ」


 才能。


 その言葉が、少しだけ胸に引っかかった。復讐でしか自分を肯定できなかった俺に、別の肯定が刺さる。痛いのに、嫌じゃない。


 玲奈は息を整えながら言った。


「また、来てくれますか?」


 俺は反射で断りかけた。


 人間不信の癖が、勝手に「距離を取れ」と叫ぶ。関係を作るな。踏み込むな。余計な線を増やすな。そうすれば傷つかない。


 でも、その声は弱かった。


 今日は久しぶりに、復讐以外のことで息ができた。汗をかいて、息が上がって、でも頭の中が静かになった。その感覚を、俺は否定できなかった。


「……予定が合えば」


 そう答えるのが精一杯だった。


 玲奈は嬉しそうに頷く。


「はい。じゃあ、また」


 コートの外で見ていた大人の女性が、玲奈に手招きした。玲奈は礼儀正しく頭を下げて去っていく。去り際、もう一度だけ振り返って言った。


「今日は、ありがとうございました。翔兄さん」


 兄さん呼びは慣れない。


 でも――今日は、嫌じゃなかった。


 玲奈がいなくなった後、俺はラケットを握ったまま、しばらくコートの中央に立っていた。汗が冷えて、夜風が気持ちいい。胸の奥の空白が、ほんの少しだけ埋まった気がした。


 復讐が終わって空っぽになった自分が、こんなところで何をしているんだ、と笑いたくなる。


 それでも。


 こっそり上手くなって、いつかテニス部に入って、漫画みたいな立ち回りをしてみたい――その馬鹿みたいな願望が、今は確かに“生きる理由”の一部になりかけている。


 俺は、初めて気づいた。


 復讐以外のことで「YES」と言える日は、ちゃんと来る。


 ただ、その一歩目は――思ったよりも小さくて、思ったよりも汗臭くて、思ったよりも、普通だった。

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