秋、絡繰・6
色
言い終えた時には、息が切れて、喘鳴が静かな空間に響き渡っていた。
息が切れるくらいに叫んだ僕の額からは汗も出ていて、とてつもないエネルギーを消費したと実感する。胸ぐらを掴んだ父の服は震えていて、それに気づいて僕は父の方を見る。
父は、震えていた。
僕を怯懦した表情で見ていた。
僕を虐げていた父が、何故か僕に脅えていた。
「玲依····私は、怖かったんだ。お前の事が」
初めて、父から色が見えた。
それは、恐怖。
純粋な恐怖の色が、辺りを取り巻いた。
「何をするにしても、見透かしたような発言、行動、私は····お前が何を考えているのが分からなかったんだ」
一向に焦点が合わない父の瞳を睥睨して、胸ぐらをもう一度、強く握りしめる。
「私は、お前が私に向ける“目”が怖かった──玲依、お前には······」
膨れ上がる憎しみに、膨れ上がる恐怖。
父は、僕の怒りを他所に言う。
「一体何が、見えているんだ?」
その言葉は、僕の怒りすらすり抜けて僕の心臓が縮んで、身体も随伴して少し硬直した。
父が言いかけたあの時の言葉を思い出した。
『お前には、何が』──恐らく、今の言葉を言いたかったのだろうか、父に対する怒りで頭が混乱している僕は、そんな事すらも考える事が出来なかった。
どれだけ過去を踏み潰そうとしても、過去は結局自分に傷をつけ続けたままで、人並みを気取ろうとしても親からはそんなことを思われたことすらなくて。
そもそも、人から責められ、人から蔑まれ、人を気取った人間紛い。····僕が本当に人間の形をして生まれなかったら、人間として産まれてしまったから、こんな気持ちを今になって抱える事は無かったのかも、しれない。
「私のことをいくら責めたって構わない、だから、今までの事をどうか許して欲しい。それが“玲依”に対しての償いになるのなら」
玲依じゃなくて、命依だろうが。
僕の存在を拒絶した癖に。
大量の金を僕に押し付けて僕の存在ごと否定して。
今更、手のひらを返して僕を肯定しようとする。
無かったことにしようとしている。
その汚い、大人の考え方なんて、世界で1番大嫌いだ。
でも、でも。
なんで。
なんで手を出せないんだろう。
この場で感情に身を任せて、拳を振り上げて、好きなだけ殴ればいい。
殴れよ。
早く、此奴を殴れよ。
見て見ぬふりをしていたのも此奴なのに。
全部此奴のせいなのに。
此奴が、全部壊したのに。
そう脳の中で命令をしても、体が躊躇して震えたまま拳が静止する。
憎悪を吐き出す様に、交錯した感情が黒く伝播していく。悲憤にも似た感情が昂って、僕の手も、身体も震えていた。
僕はお前のせいで、ずっと惨めに生きてきた。
僕はお前のせいで、死にそうな思いを抱えた。
僕はお前のせいで、何度人生の意味を考えた。
僕はお前のせいで、生まれてきたことすらも。
間違いだって思えてしまうのはどうしてなの?
偏見の目で見られ。
色んな人に言い寄られて。
人を信じられなくなって。
家ではすべて否定され。
差別され。
人の扱いなんてしていなかっただろう?
でも僕は。
普通に、真面目に生きていただけ。
一生懸命に生きていただけ。
ただ、普通に生きたかった人間なのに。
見える色が、父の凶悪な程に大きい自尊心が、生まれてきた場所が、タイミングが、父と母が。
僕と姉さんの全てを狂わした。
姉さんだけを育て続けて、今この状況で姉さんがエイズで死にそうになっていて、手遅れの状況で僕に向かって、自分の教育と考えが間違いだったと都合よく主張を変えて、自らが犯した間違いを謝罪だけで逃れようとしている。
そんな安っぽい謝罪の言葉で。
無理やり僕を歩かして来た道を無かったことにしようとするなよ。
エイズと闘って、消えそうな火を灯しながら今も精一杯生きようとしている姉さんと、簡単な謝罪と建前の言葉だけで逃げ切ろうとしている父。
どっちが本当の正しい人間かは一目瞭然だった。
真っ赤な怒りで、息が詰まる。
心臓から、血管から、怒りがどんどん大きい何かになって膨れ上がっていく感じがした。
だけど、想像してしまった。
僕が父を何度も殴って、ボロボロになっていく父の姿を。
それを想像してしまったら、手を出せなかった。
「····っ」
僕は、そのまま父から手を離して、父を置き去りにして逃げる様に談話室を出た。
悔しかった。こんな最低な父に哀れみの感情を持ってしまって、底に沈んだ残滓の様に消えかけていた怒りの感情が、ものすごい速度で膨れ上がったのに。
白い廊下を足音を立てて進んでいく、かなり早足になっていて、今すぐこの病院から立ち去りたかった。
病院の自動ドアを開けて外に出ても、冬に近い、寒い風は僕の行き場のない怒りを剥がしてはくれなかった。こんな感情になったのは初めてで、ぐちゃぐちゃに混ざった心象を胸に抱いて、唇を噛み締めながら家に帰る──こんなに自分が惨めだと感じたことは無かった。
不意に思う····自分は今、どんな色を放っているんだろうかと。
怒りの赤色か、恐怖や不安、不審感、ネガティブの青色か、それともどす黒い、憎しみの色か。灰色は、嘘をついている。紫色は嫉妬や妬みの感情。ピンクは何かに対しての欲、そこに金色や銀色が混ざっていると、自分の家に対する事だと10年以上かけて学んだ。
今、ハッキリと自分の見えている色を言語化したと思う、言語化して考えてみると、そんな色に見えていたのかと少し怖くなった。
でも今の僕は、明るいポジティブの色を出しているとは、到底思えなかった。
いつの間にか──帰りたくない、大嫌いな筈のマンションへ、逃げるように向かっていた。自動ドアを開けて、挨拶をしてくれる受付の人を無視したままエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの静けさと、自身の感傷でどうにかなりそうだった。ただの彼奴のエゴでこうなったのに、まだ僕が1人で抱え込もうとしていたのに気づいて、膝から崩れ落ちそうだった。
エレベーターが最上階を指して、勢いよく飛び出した。まるで姉さんが倒れていた日をもう一度繰り返す様に、息が切れそうなくらい廊下を走った。
カードキーを翳して急いでドアを開けると、そこには姉さんも、母も、父も、誰もいない静寂な空間だった。
空虚感が、僕を襲う。玄関に着いた時には、足が鉛のように動かなくて、リビングのソファで崩れ落ちるしか無かった。
『お前には一体何が見えているんだ?』
無機質な父の低い声が、永遠に僕の頭を反芻して離さない。脳を揺さぶられているみたいな感覚だった。何も無いはずの言葉が、ずっと耳に入っては通り抜けている感覚があった。
何が見えているのかって。
僕が1番知りたいよ。
なんで見えるんだよ。感情なんて。
知りたくない事ばっかだ。
忘れたい事ばっかだ。
生きる意味を漠然と考えて。
生きる意味を考える意味なんてひとつも無いのに。
汚らしい、汚れた罵倒や評価で穢れた僕は、何が出来るのだろうか。
いや。
何も出来ない。
父の浮き彫りになった軽い謝罪だけの為に何年間も暴力を振るわれ、何年間も存在を蔑ろにされてきた過去は、人を気取ったサイコパスの様な人間に無理やり精算させられた。
それでも、父は謝罪だけで終わることが分かっていた。僕ともこれからもコミュニケーションを取ることはないだろうし、僕の事など忘れて生きていくのだろう。
「········なんで、いつも報われないんだ」
まともになりかけた人生も、姉さんも、寸前の所で手から零れ落ちる。
こんなに耐えているのに。
いや、違うのか。
報われないのが嫌なんじゃなくて、他人から報われてると思われるのが嫌なだけなのか。
僕は、不幸なのではなくて、不幸に見せたいだけなのでは無いのか。
考えれば考える程、沼に嵌るみたいに自己嫌悪のループが巡っていく。言葉一つで自分のマインドが崩れていく自身の心も弱いのは分かっている。分かっているけど、今は──自分を立て直すのが厳しかった。
我ながら、ダサすぎて失笑しそうだ。
「····今日は、もう無理だ」
今は、何をするにも無理だった。
今日1日で、1日だけで、僕が歩いてきた人生を全部否定された気がしたから。
そのまま、僕は目を閉じる。
今日は夢で殺されるのではないかと考えていたその時に、インターホンが鳴った。
滅多にインターホンがなる事なんてなかったからか、珍しい事もあるなと感じたのか、重い身体が自然と起き上がった。
「····はい」
「あー、玲依君····?」
声は、那由さんだった。
「僕の部屋の番号、わかったの?」
いつも僕のマンションの前で待ち合わせをしていたから、家は認知している事は分かっていた。
けれど、部屋の番号は教えたことがなかった。
「マッキーから聞いたんだ。“玲依君になんかあった時用”って」
「····僕は、どうもしてないけど」
「嘘だよ。知ってるもん」
僕は、黙り込んでしまった。
「とりあえず、部屋入れて」
「····わかった」
救いの手のような言葉に、僕は了承するしか方法はなかった。
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします




