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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
129/129

後日譚 薄氷を履む(雪蘭)



 聖地の朝は遅い。

 背後に横たわる長大な山の背が、東からの陽射しを阻むのだ。

 季節によって多少は前後するものの、実質的な日の出は昼近くとなる。

 だからといって、それまで聖地の朝が来ないわけではない。

 ほの暗いながらも徐々に世界は明るさを増していき、山の背の尾根を超えた陽射しはまず、遠くの西の湖面を照らす。聖地の人々がその日最初に目にする朝日は、その湖の沖合の輝きだ。

 雪蘭せつらんの部屋からも、その輝きは望める。

 朝、起床するとしばらく窓辺に立ち、その最初の輝きが現れるのを待つ。

 暗いうちから湖に漕ぎだした漁師たちの小舟がその沖合に達するころ、その煌めきは現れる。

 そうしているうちに、対岸から多くの小舟が姿を現す。

 それは聖地を訪れる人々を乗せた小舟の群れだ。

 100年近く戦火を交えてきた西葉さいは東葉とうはが、青蘭女王のもとで一つの“よう”としてまとまったのは、東の脅威である翼波の侵入とほぼ同時期だった。

 誕生したばかりの国は、その前におこった内乱が終息する間もなく、次なる翼波との戦いに挑むこととなった。

 屈強な兵の揃う翼波の前に、まとまったばかりで混乱の最中にあった“葉”は脆かった。

 その侵入を阻むことはできず、東葉をおもな戦場に、未だに戦いは続いている。唯一の救いは、冬が近づけば彼らは引き揚げていくことだけだった。

 翼波の国土の大半が山間部であり、葉との国境くにざかいにも高い峰々がそびえている。その峠道は秋の半ばから雪がちらつきはじめ、冬には深い雪に閉ざされる。さすがの翼波の人々であっても、死を前提としなければ越えることはできない。

 秋が深まると、彼らは兵を引き、帰国する。そして、雪解けとともにまたやってくる。それは、東葉との戦いのころから変わらない。

 そして今は初秋。そろそろ葉の人びとがほっと息をつける季節が近づいている。

 ――そのはずだった。


 聖地は狭い。背後に峻嶮な山がそびえ、前には広大な瑳衣湖さいこが迫っている。

 居住地は限られている。王統家といえども、その別邸が手狭なものとなるのも仕方のないことだった。

 雪蘭にあてがわれた部屋も、広くはない。だが、聖地の土地事情を考えれば、個室をもてるだけありがたい。

 着替えを済ませて、部屋を出る。廊下も階段も狭いが、その分、贅がつくされている。

 階段を下りる途中で、ふと足が止まる。

 食堂の方から、にぎやかな声が響いてきた。

 子どもたちの高い声に、それをたしなめる落ち着いた女性の声。州候里桂りけいの妻子たちのものだ。

 やしきのものたちは、雪蘭の正体を知らない。青蘭せいらんが聖地を訪れたときは王侯貴族専用の高級宿に滞在したため、彼らは青蘭の姿を知らないままだった。

 邸の執事や里桂の妻は、雪蘭の正体を知っている。それ以外の邸の者たちは、雪蘭を高貴な客人と認識している。王族に次ぐ準王族である王統家にあって、さらに“高貴な”とされる身分は限定される。

 雪蘭にとってそれは不本意なことであったが、身分をふせて身を隠すには、嵜州公邸ほど適したところはない。

 執事をはじめ、別邸で働く者たちは、先祖代々嵜州候につかえている。彼らは由緒ある勤めに誇りを持っており、嵜州候に対する思慕も深い。

 信頼できるものたちばかりであり、彼らはいったん主から命じられれば詮索することもなく、口を滑らせることもない。主に仕えるのと同じ態度で、賓客にも忠実に奉仕する。

 食堂の入口に控えていた家人けにんが、雪蘭に気付く。

 雪蘭の食事は、直接彼女の部屋に運ばれることとなっている。里桂の妻と語らう時以外、雪蘭が食堂に足を踏み入れることはめったとない。

 そんな彼女が部屋を出たということは、目的は限られる。

 問いかけるような家人の眼差しに、雪蘭は薄くほほ笑む。その手には薄い羽織りものを畳んでかけている。それが家人の目につくように腕をあげてみせる。

 彼女の意図をさっした家人は、小さく一礼して階段の下に寄ってきた。

「お供を――」

「供はいりません。じきに戻ります」

「しかし……」

「心配無用です。今の聖地ほど安全な地はないのですから」

「おっしゃる通りではございますが、そういうわけには……」

 これまでにも何度も繰り返されてきた押し問答だ。最後には押し切られると分かっているのに、彼は毎回律儀に異議を唱える。確かに忠義者に違いないが、もう少し柔軟さも持ち合わせてほしいものだった。

 雪蘭もまた、いつものようにそんな感慨を抱きつつ、微笑んだままきっぱりと彼の申し出を拒絶した。

「じきに戻ります」

 にこやかに断言されてしまえば、執事もそれ以上食い下がることはできない。里桂から預かった賓客である雪蘭は、主その人にも等しい。

 彼の弱みにつけこむようで良心が痛まないわけではない。従妹の従者として仕えてきたこれまでの年月を思い返してしまう。

 できれば目の届くところにいてほしいと思い心には、忠義とともに従者としての都合もある。気ままな散策を望むのが勝手なら、彼らの都合も勝手ではある。

 しぶしぶと見送る執事の開けた扉のすぐ前が、いきなり階段となっている。庭を設けるような余裕は聖地にはない。

 邸をあとにした雪蘭は、まっすぐに湖畔へ向かう。背を向けた方には、神殿がある。通りを歩く人びとが向かうのは、そちらだ。雪蘭だけがその流れに逆らっている。

 彼らは雪蘭が部屋で目にした、小舟の一団に乗っていた人々だ。

 翼波との戦いがはじまっても、聖地を訪れる人々の数は減らない。むしろ、戦乱の暗い影に参拝者は増える傾向にある。

 そして、その天然の要害ともいえる立地条件に目を付けた王侯貴族が、続々と妻子たちを聖地へ避難させる傾向にある。

 今朝の一団にも、そんな人々が混じっていたらしい。華やかな衣を身に付けた人びとが、家財をもった家人けにんを従えて通りを行く。質素な身なりの参拝者の中で、彼らの姿はいやでも目を引く。

「――翼波が西葉へも迫っているとか」

「おお、怖いこと。いったい、どうなってしまうのかしら」

 不安げな囁きが、通りすがりにいくつも聞こえる。

 翼波の西葉への接近は、すでに噂になっているらしい。

 事態は噂を先行している。もう翼波は西葉の大地を踏み荒らしている。その報は、嵜州公邸に昨日届けられたばかりだ。

 翼波の秋は、葉よりもはやく訪れる。彼らがそろそろ帰国する時季が迫っている。にもかかわらず、なぜ、今ごろ西葉まで深入りしてきたのか。

 雪蘭は通りの途中で足を止め、なにかを探すような視線を巡らせた。





 今の聖地ほど安全な地はない。

 それは本当だった。各王侯貴族が妻子とともに、彼らを守る護衛も付いてきている。

 戦況の深刻化に伴い、参拝に訪れる人々もともすれば動揺しやすい精神状態にある。いつ混乱が生じるか知れない。そのため、神殿側も普段は敷地の外へ出ることのない神兵を、聖地全体に配置して目を光らせている。

 しかし、相変わらず人の流動は激しい。出て行く人、やってくるもの、日々同じだけの数が出入りを繰り返している。

 厳密に安全といえるのかどうか、雪蘭には疑問だった。

 聖地と対岸を行き来する小舟の発着時間も、一定の時刻に定められている。それ以外の時刻に出入りできるのは、聖地に湖の魚を提供する地元の漁師と、神殿から特別に許可を受けた便に限られる。

 厳しい規制が課せられている一方で、信者を拒めないという、聖地の事情もある。この矛盾。それは彼が見逃すとは思えなかった。

 人の流れに逆らって、ようやく湖のほとりにたどりつく。

 湖畔は浅瀬になっていて、いくつもの桟橋が湖中にのびている。舫われた小舟が波に揺れ、時々ぶつかり合う。

 雪蘭は桟橋の手前で足を止め、そんな風景をしばらく見つめる。

 波は穏やかだ。小舟もぎっちりと隙間なく舫われているわけではない。それでも、無人のそれらは緩やかな波に翻弄され、ぶつかり、きしむ。

 瑳衣湖は広大な湖だ。対岸は遠く、見えない。その見えない岸の向こうには、そろそろ実りの季節を迎える平野が広がっているはずだった。

 嵜州公邸の執事とわずかな押し問答を繰り返したのち、湖畔を訪れる。

 それは雪蘭の日課でもあった。

 彼女の遠い御祖みおやでもある女神をまつった神殿に参ったことは、実は一度もない。それは日々あらたにやってくる参拝者たちに遠慮してでのことではない。

 彼女には見も知らぬ祖先への尊崇の想いはなく、だからといって、冒涜するつもりもない。冷害や洪水、日照り等と同じで、神とは人に寄り添うものではない。天災と大差ないものと考えていた。

 山の背の渓流を下ってきた砂と砂利の堆積した浜は、濡れた岩の色をしている。

 桟橋から離れ、門前の賑わいから遠ざかると、そこには緑陰がある。

 その木陰でほっと息をついた雪蘭に、静かに歩み寄る影があった。

「ようやくのお出ましですね」

「やはり、気付いておいででしたか」

 雪蘭はゆっくりと振り返る。

「あなたがそう仕向けたのでしょう」

 冷ややかな眼差しを受ける男は、まるで拝謁でもするかのように厳かに微笑んでいる。

 すっきりとした体躯を包むのは、貴族の旅装。聖地参拝のため華美さは抑えられているが、服地や仕立ては身分にふさわしいものだ。腰に太刀を佩き、面を隠すこともせず。いかにも貴公子然としたたたずまいは、人目を引くには十分な魅力を備えている。

 あまりに堂々とした登場に、雪蘭は内心呆れつつも納得していた。

 こそこそするのは彼らしくない。ばかばかしいほどのおおっぴらさは、彼を知る人間にとっては驚くに値しない。

「よくもまぁ憚りもせずに」

 感情を含まない冷たい声音に、彼は光栄ですと口の端を歪める。

「俺が姿を現すことは、とっくに分かっておられたのでしょう――まったく憎らしいほどの落ち着きぶりですね」 

「このような時期に、翼波が西葉まで侵入する必要性はないはずですから」

「それがそうでもないのですよ。西葉北部の収穫は他より半月以上早いですからね。帰国のついでに実りを持ちかえれば、皆、“葉”の国土の豊かさを実感するでしょう。そうなれば、来年の戦いにはますます熱が入るというものです」

 得意げなものいいに、雪蘭は目を細めただけだった。

「あなたはそれから俺の意図するところを察してくださったわけだ。あいかわらず聡明でいらっしゃる。そしてわざわざこうして、俺に機会を作ってくださったわけですか」

「この時間帯の散歩は、私の日課に過ぎません。あなたこそ、それくらいのことなら探り出すのはたやすかったのではありませんか」

「買い被っていただいて光栄ですが、もはや俺は苓公でもなんでもありませんのでね。葉で動くとなると、ずいぶんと不自由なんですよ」

 彼はかつて東葉の王子だった。それが今や国を裏切った大罪人。彼を恨み、その命を狙うものはいくらでもいる。

 そんな彼が、故国を裏切って与した翼波から離れ、葉のなかでももっとも動きを制限される聖地に姿を現すなど。とても正気の沙汰とは思えない。しかし、それは一般論にすぎない。

 彼ならば、明柊ならば、そんな愚とも戯れともつかない危険を易々とおかしてもおかしくはない――それも、つまらない目的のために。

 雪蘭は愚問だと分かり切っている台詞を、口にせざるを得なかった。そうしなければ、このばかばかしい問答にきりはないだろう。

「なにが目的なのです」

「それはあなたのご想像の通りですよ」

 彼は艶めいた笑みを浮かべると、そっと雪蘭の手をとり、うやうやしくその甲に口づけをおとした。





 雪蘭はその手をふりほどきはしなかった。眉ひとつ動かさず、虫でもとまったかのように冷たい顔で通した。

 明柊は大げさに切なげな溜息をついてみせる。

「相変わらずつれない方だ」

 いかにも悲しそうな嘆き節も以前と変わらない。雪蘭は取りつく島のない態度を守りつつも、内心苦く笑っていた。

 悪びれるわけでもない一方で、自分がお尋ね者であることもさらりと口にする。

 実際、彼がこの国にもたらした害ははかりしれない。今、この時も、戦場で命を落とそうとしている者がいるかもしれない。翼波の手にかかろうとしている葉の民がいるかもしれない。収穫期に被害をこうむれば、次の冬を越せないものもあろう。

 それでなくともすでに多くの命が落とされた。失われたものは多い。東葉は国土のほとんどが戦場となり、多くの人々が西葉に逃れてきている。

 翼波の残虐さは噂以上で、彼らの驚異はすでに西葉の人々にとっても他人事ではない。

 彼らの侵攻以来得られたものといえば、対立していた東西の葉の民の絆が深まったことくらいのものだ。

 翼波と葉の戦いの戦況は一進一退を繰り返していたが、夏頃から急に翼波の攻

勢が増し、今は葉が押され気味になっている。西葉までの侵入を許してしまった

背後にはそんな状況もあった。

 苦しい戦いが続いているが、葉の人々はよく持ちこたえている。彼らの誇りを守り、国土死守の闘志を鼓舞し、その求心力となっているのは女王青蘭であり、兵をまとめる碧柊であり、彼らの間に生まれたばかりの王女の存在だった。

 次期女王でもある第一王女の誕生は、女神の祝福の証でもある。葉がひとつにまとまったことを女神が言祝いでいるのだと、神殿が中心となって各地で説いたこともあり、疲弊し沈みがちだった人々に久しぶりに明るい希望をもたらした。

 それを支えるように、王配である碧柊が健闘を続けている。彼の率いる軍は辛勝することがあっても、一度として破れたことはない。彼を頂点とする葉軍は、組織としても着実に立て直されつつある。

 雪蘭は聖地でその変化を見守ってきた。

 青蘭からは定期的に書状がよこされる。内容は子供や夫のことから政治的なものまでと多岐にわたる。なかには政治的判断に迷っていることを明らかに匂わせているものもあったが、雪蘭がそれに応えることは一度としてなかった。

 政治的な関わりはいっさい持たない。それを雪蘭は私信においても徹底した。その線引きの難しいこともあったが、じきに青蘭の方からそういうことは避けるようになった。

 彼女の周囲の人間は、信頼してもいいと雪蘭も考えていた。

 東西の“葉”が結束したからこそ、それだけの人材が集まったともいえる。

 100年の憎悪を募らせてきた老臣たちは蒼杞の手で粛清され、長く残るはずの溝と禍根は翼波と明柊への憎悪の前に、今のところは棚上げにされている。覇気のなかった西葉の王はとりのぞかれ、問題の多かった蒼杞は自らその身を滅ぼした。優れた支配者であった東葉王ももういない。東葉に併合されるはずだった西葉は、その正統な王家から新たな“葉”をまとめる女王を排出し、優勢にあった東葉は今や戦場となっている。その元王太子は女王の夫として、そして待望の“葉”王家の直系の王女の父として、その存在を確かなものとしている。

 その結果をもたらしたのは彼ら自身の働きだが、引き金となったのは“彼”だった。

 雪蘭はそっと視線を湖面の方へ滑らせた。

 彼を責めるなら、こんなところで徒に言葉を重ねるよりも、大きな声をあげればすむ。姿は見えずとも、叫び声の届くところに神兵がいる。それはこちらへ来る前に確認してあった。

 一声あげれば、彼らがじきに駆けつけよう。

 たとえ明柊が手練れであったとしても、数の前にはかなうまい。逃げるにしても、ここは聖地。外界とは隔絶されている。一時は逃れたところで、完全に逃げ切ることはできないだろう。

 明柊ならば、そのあたりの算段も付けているかもしれないが。雪蘭とて、むざむざと彼を逃しはしない。

「此度はなにを狙っておられるのです? 私にその心当たりなどあろうはずがないでしょう」

 あえて、目を合わさずに問う。

 人を呼ぶのはたやすい。

 そう自分に言い聞かせつつ、さらに言葉を重ねようとしているのは、はたしていったい何故なのか。

 自問自答を押し殺し、雪蘭はじっと答えを待つ。

 明柊はじきにこたえるかと思ったが、なかなか言葉は返ってこなかった。

 雪蘭は訝しく思いながらちらと振り返る。そしてそれを後悔した。

 彼は薄い笑みを浮かべたまま、まっすぐに雪蘭を見つめていた。彼が微笑しているのはいつものことだが、それは彼の真意を曖昧にするばかり笑みのはずだった。

 このとき、彼女に向けられていた笑みは、そういうたぐいのものではなかった。

「――お心当たりのないお顔ではないようだ」

「……自分に都合のよい解釈はご自由ですけれど、あいにく違うようですわね」

「ではなぜ、目をそむける。まことにお言葉通りなら、いつものように俺を冷笑してくださればいいでしょう」

「ばかばかしい――どうしようが、私の勝手です」

 何故、このように愚かしいばかげた言葉しか出てこないのだろう。

 雪蘭は内心、困惑していた。

 理由は分かっているつもりだった。青蘭が暗示したように、己の愚かしい心の奥底の想いには気づいていた。そんなばかげて浅はかな想いに、己のことながら失笑してしまったほどで――それですべては終わるはずだった。まともにとりあう気にもなれないほどに、くだらない想い。

 そんなものに振りまわれるほど、愚かな人間ではないはずだった。

 つんと顔をそむけ、そうしながら彼の視線から顔を隠そうとしている。

 それが自分でも嫌というほど分かるほどに、雪蘭は狼狽してしまう。

 そしてそれは、いくら隠そうとしてもごまかしきれるものではなかった。

 相変わらず自分に注がれたままの視線と、動こうとしない彼のまとう雰囲気がわずかに変化したことすら分かってしまう。

「俺はこれでも誠実な人間ですよ。特に約束したことは必ず守る――それが女性とかわしたものならなおさらです。男ならば、当然でしょう」

 口ぶりと言い回しは、彼らしいふざけたものだった。

 雪蘭はぐっと指を握りこみ、気を落ち着かせる。

 ここで彼の流れに乗せられてしまってはいけない。

「いったいどなたとなさった約束なのか、わかっていらっしゃるのですか」

「あいにくとそれがわからないので――そのために参上したのですよ」



4 



 風が吹いた。

 ざざっと背後の緑が揺れさざめき、湖面に漣が生じる。陽射しは穏やかで、人の去った湖畔は静かだった。つい先刻まで参道にあれほどあふれていた人びとの存在が、まるで幻だったかのように。

 明柊の口ぶりは穏やかだった。茶化すような、翻弄するような意図は感じられない。

 口元に浮かぶ微笑も、静かな眼差しも、見覚えのないものだった。

 それだけに、雪蘭はさらに追い詰められた心地に陥る。

 誤魔化そうとしていたのは、むしろ自分の方だった。それを明確に悟ると、困惑と慄きが背筋を走った。

 なにを誤魔化そうとしているのか。

 それはとうに分かっていたつもりだったが、一人で考え、片を付けたと思っていたことも、こうして現実となるとどうしていいか分からない。

 なにがばかげているのか、それは分かっているはずだった。分かっていながらも、何故、この場にいるのか。

 神兵を呼ばず、彼とこうして対峙していることそのものが答えだと悟りつつ、それを受け入れることはできない。

 彼は裏切りものであり、今もまた、彼の手により西葉まで侵入した翼波が故国の土地と人びとを踏みにじっている。

 雪蘭は父の遺命をうけて奥の宮に入り、青蘭と共に育ってきた。従姉妹であり妹にも等しい彼女のために身を呈しもしたのは、決して愛国心のためではない。ひとえに大切な彼女のためだけだった。

 そんな彼女を窮地に陥れ、今も数々の難局や危難の根源となりつづけているのは、目の前のこの若い男に他ならない。

 どんなことがあっても認めるわけにはいかない。

 真実、彼女のことを思うなら、神兵を呼ぶのが当然だ。それがわかっていながら、何故、できないのか。その理由をもっともよく知るのは、ほかならぬ雪蘭当人。

 頭では事態を冷静に把握しながらも、心がついてこない。混乱の際にやっとの思いで立ち止まりながら、雪蘭は彼を睨みつけていた。

 何故、聖地に逼塞することを選んだのか。それは青蘭の身辺から自分の気配を消すためばかりではなかった。

 どちらが本当の目的だったのか。

 もう、こうなっては自分でもわからない。ただ、来てほしくなかった。会うべきではなく、会いたいと思うべきではなく、けれど、本当の願いはどうだったのか。

 朝、目覚めるたびに湖面をみつめ、日に何度か湖岸まで足をのばしていたのは、何のためだったのか。

 けれど、ここで崩れるわけにはいかなかった。

 最後にかろうじて残った矜持を支えに、雪蘭は目を眇めたまま薄く笑った。

「いったい、どなたがどのような約束をなさったとおっしゃるのです――あなたなどと」

 そのせいいっぱいの嗤笑に、彼は笑みを深くしただけだった。

 雪蘭は無駄な抵抗と悟りつつも、それでも辛うじてまだ立っていた。

「“青蘭”殿とある約束をしたはずなのですがね、どうやら、俺は彼の姫君に謀れていたらしい」

「――あなたが自分で勝手に謀られただけでしょう」

「あの時はあれで良かったのですよ。彼女が真実は誰であろうが、あの時は“青蘭姫”であるということであれば、それで良かったのですよ」

「あなたにとっては、でしょう」

「そうかな? あの方が“青蘭姫”であったからこそ、すべてがうまく回ったともいえる。なかなか健気でしたよ。それに堂に入っていた――推測するに、以前から頻繁に入れ替わっておられたのではないかと。あれほど似ておられるなら、そうしない手はないですからね。あなたはどうお考えになられますかな、姫君」

「……私にはかかわりのないことです」

「あいにくと、そうもいかないのですよ。どうやら、私の妻となってくださった“青蘭姫”は名前を騙っていらっしゃったようなのでね」

「いったい、なにを――」

「名前を騙っておられたとしても、彼の君が俺の妻であることに違いない。夫として妻の真の名を知りたいと思うのは当然でしょう――それに、私が約束した方こそが、妻その人なのでね」

 いったいなにが目的なのか。雪蘭をからかうためだけに、危険を冒して聖地に来たとは思えない。それとも従妹の名を騙り、彼をだましたことを、今ごろになって恨みを晴らしに来たとでもいうのか。 

 雪蘭は知らぬ間に一歩後ずさっていた。踵が木の根を踏み、はじめてそんな自分に気付く。

「……なにが目的なのです」

 雪蘭は深く息をつき、ようやっとの想いで言葉を紡ぐ。声がかすかに震えるのは、それ以上誤魔化しようがなかった。

 明柊はちょっと首をかしげるようにして、愉快そうにそんな雪蘭を見つめる。

 さも戸惑ったようにこめかみあたりをかいてみせる仕草がわざとらしく、憎らしい。

「それは先ほど何度も申し上げているでしょう――わざととぼけておられるわけですか。やれやれ、それほどまでに嫌われているのですね、俺は」

 雪蘭は胸の前で軽く両手を重ね合わせていたが、いつの間にか衣をきつく握りしめていた。細い指先が白くなっている。

「ですから、なんのために約束を果たす必要があるのです」

「約束を果たすことそのものが目的だと、再三申し上げているつもりなのですがね、俺は」

 さも困惑したような口ぶりがわざとらしく、雪蘭を苛立たせる。

 人をこれほど狼狽させておいて、自分は悠々としている。それがこれ以上ないほど憎らしかった。

「私との約束は果たすためだけに、あなたはこのようなばかげたことを……」

 言葉を途中で呑み込み口元を押さえたが、もう遅かった。

 凍りついた雪蘭を見つめつつ、彼は一歩近づく。雪蘭の背は幹にあたり、もう逃げる余地はない。

 彼はにやりと口の端を持ちあげつつ、しかしその眼差しはからかうようでありながらもどこか熱っぽくもあった。

「ようやく認めてくださいましたね――俺の姫君」

 揶揄するように囁きながら、腰を折って恭しく再び雪蘭の手を取ろうとする。

 雪蘭はとっさにその手を振り払っていた。





 雪蘭が乱暴に手を振り払っても、明柊は悠然と微笑んでいる。

 それが己の優位を確信したもののように見えて、雪蘭は奥歯をかみしめた。まるで心の奥底まで見透かされているような気がするが、そんなことにいちいち動じてはいられない。

 これ以上振り回されるのはごめんだった。

 彼の手を拒み、厳しい顔で対峙する雪蘭を、彼はまるで愛でるように見つめる。

「では、約束を」

「名を明かす約束をした覚えはありません」

 第一、彼の言う約束も一方的なものにすぎない。

 雪蘭が優位に立てる根拠があるとすればそのくらいのことで、彼はそれすら見透かしたように余裕のある態度を崩さない。

「それも含めて、あなたは答えてくださるかどうか、それだけのことですよ」

「答えなくともよいと?」

 雪蘭は油断なくやや目を眇ながら、明柊を見つめる。

「ええ、約束とは申せ、あくまで俺から言い出した一方的なものであることは承知していますから」

 当然といえば当然だが、彼とてそれは弁えていたわけだ。だからといって、それを巧妙に言いつくろって、雪蘭の言質を取ろうとはしない。彼にしては誠意ある態度ともいえるが、雪蘭の知る“彼”としては妙にも思える。

「――そのためにわざわざ? 何故?」

「あなたの答えをどうしても聞いておきたかったのでね」

 雪蘭は言葉に詰まった。答えないことも、また答えの一つであるに違いない。

 明柊はどのような形であれ、雪蘭からの“答え”を求めているというのか。

「……何故?」

「あなたは何故、何故、ばかりですね」

「訝しく思うのは当然でしょう? 約束を守るのがあなたの信条とはいっても、確かに私たちはそれを交わしたわけではありません。それなのにあえてこれほどの危険をおかす必要性がわかりません。このようなことに、どんな意味があるというのです?」

 生真面目な面持ちで真剣に問う雪蘭に、明柊はたまらずといった風情の苦笑を浮かべた。

「こういう場合の理由は一つしかないと思いますがね」

「一つ?」

 戸惑った様子で繰り返す。彼の言動はその意図を曖昧にするためか、意味ありげなくせに憶測しかできないことが多い。

 その言葉もそうかと勘ぐるが、彼の表情からそんな思惑は感じられない。

「――見当もつかない、という顔をなさっておられますよ」

「ええ、つきません」

 からかうような台詞にも関わらず、その口ぶりはやわらかい。それに誘われるように、雪蘭は素直に答えていた。

「聡明なあなたでも分からないことがあるのですね――これほど分かりやすいことはないというのに」

 明柊の声には同情すら感じられた。

「……」

 いったい、なにがわかりやすいというのか。雪蘭には類推することすらできない。

 明柊の言葉を信じるなら、その答えは単純明瞭ということになるらしいが。思考を重ねるほどに空転し、脳裏が白くなっていく。なにかを見出そうと焦れば焦るほど徒に苛立ちが募るだけで、それがさらに雪蘭持ち前の明晰さを損なっていく。

 そんな姿をさらすのが嫌で、雪蘭は半ば無意識に顔をそむける。

 遠い湖面を照らしていた陽射しが、いつの間にか岸に近づいていた。この時間帯に湖上にある舟は、漁師のものに限られている。冬が近づくほど魚には脂がのる。旬だといっていたのは、嵜州公邸の料理人だった。

 意識してそうしたわけではなかったが、束の間他のことに気を取られていると、混乱はおさまった。

 明柊がどのようなつもりであろうと、雪蘭には関わりのないことだ。自分ではまり込んでしまったこととはいえ、本来の筋ではないところで脱線してしまっていたことに、ようやく気付く。

「分からなかったとしても、私には差し支えのないことです――あなたがどのようなつもりであろうと」

 それが逃げ口上だと悟りつつも、雪蘭にいえることはこれだけだった。

 明柊はその言葉にわずかに目を眇めると、失望したようにあからさまな溜息をついた。

「確かに仰る通りだが、途中で放棄なさるとはね、あなたらしくないというべきか――それとも……」

「――それとも?」

「いや、あなたには関係のないことでしたね、失礼」

 雪蘭の問いに、明柊は失笑を誤魔化すように口の端を歪めてみせた。それは見るからに意図的なもので、彼の軽侮を感じて雪蘭は思わず唇をかんだ。

「つまらない問答で煩わせてしまいましたね。あなたとしても早くけりをつけてしまいたいところでしょう――答えは簡単だ。あなたがどうしたいのか、またうかがいに参りますと、用件はそれだけだったはずですからね」

 明柊はにこやかにそう告げたが、雪蘭には彼が笑っているようには見えなかった。

 軽侮の影には、失望にも似たなにかが垣間見えたような気がした。それを雪蘭はあえて見ないようにした。彼はそれを彼女に見出してほしかったのか、それともそういうことではないのか。

 雪蘭は内心ひどく動揺していた。取り返しのつかないことをしてしまったような後味の悪さを噛み締める。何故そんな想いが込み上げてくるのかは分からない。まさしく彼のいった通り、つまらないことはさっさと終わらせてしまいたかったはずなのに。

 そんな狼狽を押し殺し、雪蘭は彼のいう“用件”に意識を集中した。答えなくても良いともいわれたが、結論を出す前に確かめておきたいことがあった。

「その前にききたいことがあります」

「また、“何故?”ですか。いいでしょう、なんでもお答えしますよ」

 明柊は微笑して頷いた。それは見慣れた真意の知れない仮面の笑みだった。

「何故、このような真似を?」

「このような、とは?」

「この時季に翼波をわざわざ西葉まで侵入させたことです。じきに国境は雪に閉ざされるというのに」

「それにはすでにお答えしたはずですよ。翼波に西葉の旨味を教えて差し上げるためです。来年の春の戦いでは今年以上に奮戦なさってくださるでしょう」

「あなたのその真意――本当の狙いです」

「……俺のそれをきいたところで何になる? 俺のやったことに変わりはないでしょう」

「確かにかわらない。ただ、私が知りたいだけです……あなたの質問に答えるために」

 その言葉に明柊は片眉をあげ、口の端をつりあげた。

「おや、やっと俺に興味を持ってくださいましたか」

「答える気がないなら、私は神兵を呼びます。さっさと立ち去りなさい」

「怖い方だ」

「空言にこれ以上時間を浪費するつもりはありません」

「俺は楽しんでいるだけですよ」「明柊殿」

 やや強い口調に、明柊は苦笑して首を振った。

「習い性になっているらしい、失礼」

 そう詫びて小さく息を吐く。どこか力の抜けた表情を、雪蘭ははじめて目にした。

「俺の思惑はなんら変わっていませんよ」

「……国を裏切り、翼波を手引きしただけでは十分ではなかったと?」

「西葉は翼波の脅威を知らないままだ」

「国全体が戦いに巻き込まれているというのに?」

「蹂躙されているのは東葉のみ」

「西葉の人々も出陣しています」

「それは一部だけでしょう――恐怖は全ての民に植え付けたほうがより効果が上がる。誰一人、他人事だとは考えられないように――恐怖が深ければそれは語り継がれ、葉の民に刻み込まれる」

 雪蘭は言葉もなく、小さく息を吐いた。確かに彼はなにも変わっていない。もしその結果、葉が翼波の支配するところとなったとしても、自業自得だと笑うのだろう。

「そこまでしなければならないのですか?」

「あなたは翼波をご存知ない」

「確かにそうですが、それでも他にやりようはあったはずです」

「生ぬるいやりようは嫌いでしてね」

「なれど――」

「あなたは俺の考えを知りたかったのでしょう? それ以外の言葉は無用のはず。俺も無駄な応酬は望まない」

「……」

「俺はあなたの問いに答えた。その結果、あなたがどう考えようとあなたの自由だ」

 取りつく島のない、揺るがない態度だった。雪蘭も言葉を重ねることの無駄を悟り、視線をおとした。

 答える言葉が見つからない。彼の行いはとっくに許されない結果をもたらしている。今さら取り繕うことはできない。彼にもそんな気はまったくないだろう。雪蘭には彼を止めることはできない。かといって咎めたところで、その意味もない。

 止めるなら神兵を呼べばいい。彼も逃げられはしないだろう。だが、声をあげることもできない。

 言葉を探しあぐね、顔をあげることもできない娘に、明柊はなんともいえない表情を浮かべる。何かをためらうような、望むような、立ちすくむような表情を。

 その時だった。

 気が付けば、見晴らしのきく湖岸に多くの人影が次々と姿を表し、皆一様に同じ方を向いてどよめいている。

 異変は雪蘭にもじきわかった。山の背の威容を背景に、煙が立ち上っていた。幾筋ものそれを指差している人々の横を、神兵がかけていく。

 雪蘭は反射的に彼を振り返った。彼は腕を組んでその煙を見つめている。無表情のまま、淡々と小さくつぶやいた。

「そろそろ潮時のようですね」

「火を放つなど……」

 わずかな聖地の土地には家屋が密集している。火は瞬く間に広がる恐れがあった。

 顔を強ばらせる雪蘭に、明柊は涼しい顔であっさり受け流す。

「小火ですよ」

 その騒動に紛れて逃げるため、あらかじめ手配してあったのだろう。

 聖地ではこれまでにも何度か火事が起こっている。大火となり、神殿以外のすべてが灰塵にきしたこともある。聖地に暮らす人々がもっとも恐れている事態でもある。

 雪蘭は煙に気をとられていた。その前を駆け抜け、桟橋へと急ぐ人影があった。避難を促す呼び掛けや、実際に舟に乗り込み漕ぎだす人たちがあらわれると、湖岸は急に騒然となり人が増えてきた。

「これにてお暇いたします」

 明柊は深々と腰を折り、馬鹿に丁寧な礼をとる。雪蘭は慌てて彼の袖をつかんだ。

「私はまだ答えていません」

「無理にお答えいただなくてもよろしいのですよ」

 明柊は微笑して、雪蘭の指を外そうとする。彼女はそれに抗い、強く握りこんだ。

「……では、答えてくださるのですね」

 明柊はまっすぐ静かに雪蘭を見つめる。雪蘭も目を逸らさず、かすかに頷く。

「あなたがこれ以上、葉に害を成すのを見逃すことはできません」

「神兵をお呼びになれば良い」

「その間にあなたは逃げてしまうでしょう。私一人であなたを捕らえておくことは無理です」

「ではどうなさる? 俺がそれに付き合う義理はありませんよ」

「あなたが逃げるというのなら、私が追うより他ないでしょう」

「――共に来てくださると?」

 悪戯っぽく笑った明柊に、雪蘭は小さく首を振った。

「私は青蘭と約束したのです、葉を守ることを。その約束を果たすだけのことです。あなたが葉に仇なすというのなら、私はそれを阻みます」

「そのためには俺と共に来ていただくしかありませんね。俺は神兵に身柄を引き渡される気はない」

「それしか方法がないのなら、そうするしかないでしょう」

雪蘭は険しい顔でため息を吐いた。明柊はそんな彼女に小さく笑い、それから袖をつかむ細い腕を引き寄せた。

 思いがけない行動に、雪蘭は身をかわすこともできなかった。かたく抱き寄せられ、逃れようともがく耳元に低い囁きがかかる。

「もっと簡単で確実な方法があるでしょう? 護身用の短刀でこの胸を一突きすればいい。俺にとってはそれも一興」

 そうして、拘束する力が緩められる。彼は彼女の両肩をわずかだけ押しやり、その言葉が実行できるだけの距離をあけた。

 雪蘭は呆然とその空隙を見つめている。確かに懐中には護身用の短刀を忍ばせてある。それはいつも当然のように身につけているもので、このような事態を想定していたわけではない。

 彼の言葉はもっともだった。それが一番確実な方法に違いない――実行できるのならば。

 聖地のはずれから立ち上った煙はその勢いを増し、火の手もかすかに見える。人びとの動きは激しくなり、その数は増えていくばかり。桟橋よりやや離れた岸辺の二人に注意を払う者はいない。

 明柊はちらと視線を走らせて、煙の方角と桟橋の様子を確かめる。雪蘭はうつむいたまま動かない。明柊は小さく息をつくと、袖口から細い刀子とうすを取り出し彼女の手に握らせようとした。

「これでも十分可能でしょう」

 強引に細い指にそれを握らせ、刃先を己の胸に向ける。それを取り落とさないように彼女の手の上からしっかり支え、彼は笑った。

「さぁ、どうぞ。それとも俺から動きましょうか?」

 笑みを含んだ声が耳朶にかかる。それは笑っているが、決して冗談を言っているわけではないことも、雪蘭は感じていた。

 無理矢理握らされた刀子の先に彼の胸があたる。それは確実に左の拍動を狙っている。やわらかな手ごたえの中に、その刃先が沈んでいく感触が伝わってきた途端、雪蘭はそれを渾身の力で振り払っていた。

 乾いた音を立てて刀子が地面に転がる。あたりは騒然としているのに、その金属質の音がいやにはっきりと耳に残った。

「――できない」

 小さな呟きには、はっきりと深い絶望が宿っていた。

 明柊はその響きに切なげに眼を細めたが、それは雪蘭には見ることはできなかった。

「では、仕方ありませんね」

 溜息と共に鼓膜を震わせた声は、これまでになく優しいものだった。同時に再びかたく抱き寄せられる。今度は雪蘭も抗わなかった。ただ呆然と放心したように身をゆだね、ただ静かに涙をこぼす。

 白皙の頬を濡らすそれを拭う、生温かくやわらかな感触が移ろっていくのを虚ろな眼差しでただ感じていると、やがてそれは唇にたどりつき、軽くついばむように数度重ねられたのち、遠慮がちに、だが深く重ねられた。

 応じもせず、だが拒みもしない華奢な体を強く抱擁したまま、彼は静かに囁く。

「俺が愚かな真似をした理由はただ一つ――あなたですよ」

 雪蘭は麻痺したような心の片隅でその意味をようやく悟り、また一つ滴をこぼす。それは彼女にも、誰にも、どうしようもないことだった。




 岑雪蘭しん せつらんの名は、史書にわずかに散見するのみ。青蘭女王の従姉であり、内乱の際に女王の身代わりをつとめたこと。彼女にまつわる記事はそれだけに限定され、その後の消息はおろか、生没年すら定かではない。



<了>

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