想いが強まれば、目は見えず指先は震え
血の滲んだ死体袋を引きずってグレッサは歩き出しかけたが、すぐに彼女は引き返して来た。
もとウィトゥスの研究施設だったここが、いかに勝手知ったる場所であったとしても、今は一切の電力が通じていない真っ暗闇である。それに、一度大量の菌糸に覆われた後、それらも枯れ果てて様相は様変わりしている。
早々に帰ってきたグレッサを、ハリコ同様に身動きのとれない姿のままで迎えるデリク。
「グレッサ?……あぁ、たしかに、灯りが必要ですね。リコさんが持ってきた、携行照明をお借りしましょう。」
「……。」
ハリコがここに来るまで口に咥えていた携行照明は、さきほどグレッサ自身が死体袋を照らすような角度で床に置かれたままである。
グレッサがそれを拾い、ハリコがそうしていたように口に咥えれば、両腕で死体袋を抱えながら運ぶことは出来る……が、グレッサの口は再び癒着した表皮で覆われ尽くした後であった。
「ん……。」
「さすがに、グレッサの力では片手で照明を構え、もう片方の手で死体袋を運ぶのは難しそうですね。」
先ほどはマナコの身体を破損させられそうな直前という緊急事態だったが故に、無理やり表皮を引き裂いて口を開いていたグレッサ。だが、身体の再生に消費する養分量を鑑みれば、そうそう繰り返したいことではないらしかった。
もはや、人間の死体という養分源が、これ以上供給される目途など立っていなかったのだから。
「とはいえ、私の身体ではグレッサについていくことも出来ませんし、リコさんも両手足を失ってしまっています。グレッサには灯りを逐一床に置きなおしながら、死体袋を運んで行ってもらうしかないでしょうか。」
「……。」
「ウ゛ゥ゛?」
デリクからの提案に頷くことなく、携行照明を突き出しながら近づいてきたグレッサを、ハリコはきょとんとした顔で見上げる。
どうやらハリコの口元へと携行照明を差し出しているあたり、再び彼にそれを咥えてもらいたいらしい。壁際からデリクも様子を眺めつつしばらくグレッサの意図を推測していたようだったが、間もなく口を開いた。
「グレッサ、もしかして、リコさんが咥えた照明の光で、進むべき方向を照らしてもらいたいんでしょうか?」
(コクコク)
グレッサは頷きながら、両手足を失ったハリコの胴体を抱え起こす。
四肢が無くとも、首は意識通りに動かせるハリコ。彼が携行照明を口に咥えた状態で壁に背をもたせかけていれば、グレッサの動きに合わせて照明の光を任意の方向へ向けることも出来るだろう。
「確かに、良い案です。それに、グレッサは死体処理機の場所が分かっていても、実際にそれを用いて養分液を作ったことがありませんからね。リコさんに照明の光で指しておおよその使い方を教えてもらえますね。」
「ウゥ、ウン。」
口から言葉を発することが出来ない者同士、意思疎通もままならないだろうことにハリコ自身は不安を覚えつつ、グレッサの判断を有難くも感じていた。
グレッサのことは信頼できないわけではないが、それでも自分がここに至るまで種々の困苦を乗り越えて持ってきた新鮮な死体である。何よりも大切な存在、マナコの身体を活動再開させるために用いるべき養分源である。
「死体袋とリコさんの身体、それぞれを運びながら進む必要はありますが、真っ暗闇のなかでグレッサが独りきり、迷子になってしまう恐れも薄れますね。」
(コク)
喋れないグレッサはもちろん、デリクも直接口には出さなかったが、彼らの立場からはマナコの身体に脅威が及ばぬようにする、という意図もあったろう。
つい先ほどまで、ハリコがなぜマナコの身体を破壊しようとしていたのか、その突発的な行為の理由はデリクもグレッサも計り知れぬままである。現状、落ち着きを取り戻したように見えるハリコが、理性を保っていることを確かめるため話しかけ続ける他にない。
万が一ハリコが再び先ほどの謎めいた狂暴性を発揮したならば、四肢なくとも顎を動かしてマナコの身体へ接近し、噛みついて砕いてしまう恐れもあるのだ。全く動けないデリクでは、阻止することは不可能である。
「では、グレッサ。リコさんと一緒に死体処理機のもとへ向かってください。私はここで待っていますよ。」
(コクコク)
完全に表皮に覆われたグレッサの顎が、ハリコの頭上で上下している。
ハリコの立場としては、自分が見ていない所で死体が適切に養分液へと加工されるのか、そしてマナコの元へ確実に養分液が届けられるのか、気を揉むことは間違いなかった。
その点、自分も共に連れていってもらえるのは気分の上でも大助かりであった。携行照明を咥え、グレッサに抱え上げられながら、ハリコは早くも進むべき方向へと光を当てていた。
「お二人とも、気を付けていってらっしゃい。もう、私たち以外に行動する存在は居ないでしょうけれど、迷わずきちんと戻ってきてくださいね。私自身も、ひとりきりで長い時を過ごすのは嫌ですよ。」
「ウゥ。」
グレッサに運ばれ、廊下の途中、壁面に背をもたれさせるような恰好で床に置かれたハリコ。
その後デリクの居場所へと引き返したグレッサが死体袋を引きずりながら姿を現すまで、ずいぶん長い時間が経過したように思われた。自分の視認できない場所で何が起きているのか、すぐ不安を覚えるようになっている自分自身にハリコは気づいた。
彼は、それだけ神経が過敏になっていた。
「ウ゛ゥ゛ゥ゛ー……。」
「ん、んん。」
ハリコの唸り声に返答するように唸り返しつつ、グレッサは死体袋を引きずってくる。
意識せぬ間に、胸中で異様なまでに膨れ上がっている不安は、その死体袋を視界に入れるごとに強まっているようだった。
ハリコは、自分の視界が歪むほどの錯乱とともに、リズァーラーが本来必要としないはずの呼吸が乱れているかのような感覚を味わっていた。
「……ウ、ウゥ……。」
先ほどまで、自分の中で響いていた、この身体本来の持ち主である人間"リコ"の声は聞こえない。
だからこそ、ハリコは気づけなかった。彼女はとっくに意識を取り戻し、ハリコの自我の奥底に潜んで、両手足を使えずとも為せる妨害の策を練り続けていたということに。
いかに意識を潜ませようとも、彼女の姉の死体が詰められた袋を前に、冷静さを保てていなかったのだということに。
ハリコの理性は十分に働いていた。彼は自分の身体を、間違いなく自らの意図通りに動かすことが出来ている……と確認しながら、携行照明を口に咥えて頭部を動かしていた。
携行照明の光が差す先には、死体袋を引きずっているグレッサの姿がある。両手で懸命に死体袋を抱えなければ運べない彼女のため、両手足を失ったハリコは口に咥えた照明を適切な方と向ける役目を担っていた。
「ウゥ゛、ゥ゛。」
「ん……。」
ある程度、死体袋を引きずって移動させるたび、グレッサはハリコの胴体を抱えあげて運んだ。
ハリコの口に咥えられた携行照明の光によって示される経路をグレッサは進み、ほどよい距離でハリコの身体を壁にもたせ掛けるように置き、再び死体袋の運搬へと戻ることを繰り返していた。
お互い、言葉を発せないリズァーラー同士。ハリコは生前の人間だったころの面影も無い大顎と牙を有し、グレッサは無理やり引き裂かない限り開くことの出来ない表皮で口元が覆われ尽くされている。
「ガゥ゛ゥ゛……」
「……。」
死体袋を養分液へと加工するための死体処理機にたどり着くため、暗闇の中での地道な進行であったが、着実な手段であった。ハリコが光を向けて照らし、グレッサは死体袋の運搬に専念できる。
かくも単調な時間が続くと、やはり不安要素となるのは"リコ"の意思が再び浮かび上がってくることである。今まさに死体袋の中に入っている彼女の姉を殺害したハリコを心底から恨み、ハリコの思考の内部から剥き出しの憎悪をぶつけてくる意思。
口に咥えた携行照明で変わらずグレッサを照らしてやりつつも、ハリコは自分自身の内側に、ありもしないはずの記憶や、自分のものではない声が浮かび上がってこないか、恐る恐る幾度も確かめていた。
「ウ゛ゥ゛ーゥ゛。」
「んー……?」
グレッサは、ハリコから送られてくる光が時おり細かく揺らされるたび、気遣わしげにハリコの方へ視線を向けていた。
新鮮な死体と共に久しぶりに戻ってきたと思いきや、唐突に処刑担当リズァーラーとしての相棒であるマナコの身体を破壊しようとした、ハリコの突飛な行動から受けたショックは未だに抜けきっていない。
今のところ、自切され両手足が脱落したハリコが、改めてマナコの乾涸びた体を破壊しに向かう恐れはなかったが……それでも、確かにハリコの中の異常は残っているようであった。
「……。」
「ウ゛、ウゥ゛、ウ゛……!」
ハリコが落ち着いて自分の内面を感じ取ろうとするほどに、取り繕ったかのような冷静さが思考の中を埋め尽くすのは、ある種の必然ではあった。
だが、ハリコがいかに理性によって自分の本心を隠されようとも……ハリコの中の"リコ"がどれだけ己の意識を沈め潜めようとも、抗えず湧き上がってくる感情は確かにあった。
あの死体袋を、"リコ"の姉の亡骸が収められたそれを視界に入れるたびに、ハリコは耐えがたいほどの哀切、そして押さえこみきれずに乱れる呼吸を確実に感じるのであった。
「ん、ん。」
「ウ゛グ、ウ゛ーゥ゛、ウ゛ゥ゛ゥ゛。」
グレッサが気に掛けるようにこちらへ視線を向けるたび、ハリコは何でもないように、努めて理性的な眼差しを返すようにしていた。いや、既にハリコが自身の意思だと思い込んでいるだけの、"リコ"がそう振舞おうとさせていた。
当のハリコ自身が口に唯一の照明を咥えているのだから、グレッサから表情は見えなかったのだが。
だからこそ、口に咥えた光の揺れが、ハリコの思考が乱れている様をこの上なく分かりやすく示していた。ハリコの身体を持ちあげて移動させる幾度目かの時、グレッサはハリコの作業服をまさぐり、ポケットの中身を探りだした。
「ウゥ゛ー……?」
「……。」
自分が冷静さを装いつづけることに限度を見出しつつあるハリコも……そして、彼の思考内で再度の復讐の機会を伺い続けている"リコ"も、グレッサが為そうとしていることの真意は判断できなかった。
既にハリコは、両手足を失っている。仮に武器になりそうな危険物が、ハリコの作業服のポケットに忍ばされていたとしても、使えぬことに変わりはない。
しょせん、バカなリズァーラー。
何を取り上げたところで、この身体が、懐中電灯を咥えて光を照らしていないと困るでしょう。ただ引きずって歩くだけは出来ても、死体処理の作業はほぼ無理でしょう。
自分の力で歩く脚がなくても、振るえる腕がなくても、お前たちに最高の復讐をくれてやれる。
遅々たる歩みであったが、携行照明を咥えたハリコの身体と死体袋を交互に運びながら、グレッサはとうとう死体処理機の元に到着した。
かつて電力が供給されていた頃は死体を押し込んでスイッチを入れるだけで、内臓や骨格ごと粉砕する刃が自動で回転し、短時間で栄養豊かな養分液が作成できた装置である。
今は当然ながら動力源など無く、手動でハンドルを回し、時間をかけて死体を砕断しなければならない。
「んー……?」
「ウゥ゛、ウ゛。」
死体袋を引きずって処理装置のもとへ持ってきたグレッサが、ハリコに問いかけるような眼差しを向ける。
装置から少し離れた壁面に背を持たせかけるように置かれていたハリコは、首を動かし、口に咥えた携行照明の光で操作すべき位置を示してやった。まず、死体を手動で処理するための蓋を開け、露出した無数の回転刃の上に死体を乗せる。
照明の光で示された通りに装置を開いた後、グレッサが死体袋の中身を取り出すとき、初めてハリコは自分の体が思い通りに動かせない様を実感した。
「……ウ゛……?」
「………。」
辛うじて、自分の口に咥えた携行照明の光は死体処理機を照らしてはいたが、開かれた死体袋の中身……すなわち"リコ"の姉の亡骸を直視すまいと、視線はあらぬ方へと向いたまま、戻らなかった。
ハリコは、ここにきて明確に、"リコ"が自分の身体を未だに制御し得る力を残していることに気づく。とはいえ、両手足を失った今、何が出来るとも思えない。
体を思い通りに動かせずとも、自分はただグレッサが死体処理を行う所を、口に咥えた携行照明で照らしてさえいればいい……。
そう、この身体ではほとんどのことが出来ない。私がやろうとしていることを、こいつらは想像すらできていない。
このリズァーラーどもに、痛手を食らわせてやれる、これが最後のチャンス。
「ん、んん゛……。」
死体が身に着けていた警備兵の装備はあらかたハリコの手によって外されており、あとは遺体の肌を覆っている布を剥ぎ取ればよかった。
被服を剥いでもなお体格に優れ重量のある死体をどうにか引っ張り上げ、回転刃の上にセットし終えたグレッサ。先ほどハリコから光で指し示されたハンドルに手を掛け、ゆっくりゆっくりと回し始めた。
人体を粉砕するためには相応の力をかける必要があり、リズァーラーの力でも動かせるハンドルはかなりの回転数まで上げなければならない。
グレッサの握るハンドルに勢いがつき、死体処理機の中の刃が重い金属音を立てて動き始める。
リズァーラーども。お前たちに、光は要らない。
「グゥ゛、ウァ゛!」
「ん……!?」
ハリコは、思い切り首を振るい、咥えていた携行照明を前方へと投げ飛ばしていた。
この一瞬に賭けるため、じっくりとハリコの中の"リコ"は狙いを定め続けていたのだろう。ハリコの口から投げ飛ばされた携行照明は眩い光をくるくると撒き散らしながら飛び、そのまま死体処理機の回転刃の中へ巻き込まれていった。
当然、人体の骨格をも易々と砕く重厚な刃は、携行照明も問題なく粉砕したが……一番の問題は、この場を照らしていた照明器具が失われたことである。
この場、そしてマナコやデリクが待つ場所までの経路は暗闇で満たされた。
これでいい。せいせいした。もう、私はなにも見なくて済む。暗闇の中でいくらハンドルを回しても、私のお姉ちゃんの身体が砕かれる様を見なくていい。
お前たちリズァーラーだって、真っ暗闇の中で何も見えない。お仲間が待つ場所には帰れない、でしょ?
ざまあみろっての。
「んん……。」
グレッサが、次の行動を迷うことはなかった。
パチリ、という音と共に、彼女の手から光が放たれる。グレッサが持っているのは、先ほど、ハリコの作業服の中から取り出していた物だった。
ハリコは、あの死体袋に入れられていた中身、元警備兵、"リコ"の姉が隠れ家としていたあの家で……携行照明と蓄電池の予備を入手していた。
やはり現状にばかり意識が向かいがちなハリコは、その比較的新しい記憶でさえも、抜け落としていたのである。
「ウ゛ゥ゛、ウ゛グゥ゛ゥ゛……!」
ハリコは、グレッサが眩い光を手にしている様を、凄まじい感情の奔流が入り乱れるのを感じながら、抑え難い呻き声とともに見つめていた。
本来のハリコが抱く感情は、嬉しさであり、万が一を想定したグレッサへの頼もしさである。
その奥、ハリコの思考の底から響き続けている怨嗟の絶叫もまた、ハリコの双眸を限界まで見開かせている要因であった。




