黙下の禁忌、劣化と共に
錆びついてカビ臭い排水管の中、周囲の光景とはあまりにも似つかわしくない木目の扉がはめ込まれている管理官執務室の外見も、以前と変わらなかった。
ワクワクと昂る気持ちのままに、マナコがハリコの手を引いてその部屋へ入っていく様も、かつてと同じであった。
「失礼しまぁす、管理官!マナコとハリコ、ただいま参りましたぁ!」
「ウゥー。」
が、以前と異なり、執務室内から管理官が返答することは無かった。どうせ帰ってこない応答をマナコも心得ているのか、かつてのように扉をノックすることなく、そのまま執務室へ入っていく。
管理官執務室の内部は様変わりしていた。
床の至る所にくしゃくしゃに丸められた不要な書類が散らばり、踏みにじられて汚れている。壁紙は剥がれかけ、内側に繁殖しているカビのコロニーが黒々と覗いていた。天井から吊るされていた照明も傾き、煤けた光を放っている。
「……。」
その部屋の中央、執務机に向かう管理官もまた以前の姿ではなかった。
ハリコが以前、ウィトゥスの研究施設にて目撃した時の通り、顔の表皮が大きく剥がれ、口元にずらりと並んだ歯列が露わとなり、眼窩は落ちくぼんで皺の寄った中心にますます濁った眼球があった。
以前の管理官、まだ人間らしい感性をどこかしら残していた管理官であれば、部屋の清掃もこまめに行っていたのだろう。が、おそらくブラックマーケットでの任務の不始末、その咎の代償に凄絶な責め苦を負わされたものと思われる彼は、今はただ任務遂行に必要な行為しかしなくなっていた。
黙りこくって全員の着席を待っている管理官に代わり、ベスタがハリコに言葉を掛ける。
「ハリコ、手足の調子はどう?少しは身体を落ち着ける時間をもらえるかと思ったのだけれど、管理局は私たちを休ませる気がないものだから……。」
「ウゥ、ウ。」
ベスタの心配を振り切るように、ハリコは自分の手足が自在に動くアピールをするように、手を振り、足を踏み鳴らしてみせた。
シェルから移植された四肢が真っ当に機能していることは示されたものの、それは同時にハリコの精神が以前のままに幼げであることを示す稚拙な振る舞いでもあった。ベスタの目には、安堵と同時に、これから先も身分を保証されることのない彼への憐憫に近い感情が浮かんでいた。
言葉を詰まらせているベスタが黙っているため、ハリコはその不格好な踊りをしばらく続けていたが、ヤキバが柔らかな声で制止に入る。
「さぁ、ハリコ先輩、マナコ先輩も、席について管理官さんからの任務通達を受けましょう。最近の管理官さんは、私たちが着席してからでなければ任務受諾の準備が整ったと判断されないようなのです。」
「わかってますよぉ、ささ、私の隣に、リコくん。」
「ウン。」
他の面々と異なり、ハリコが無事に復帰してきたことを今なお純粋に嬉しがり続けているマナコは、まるでこれから楽しい見世物が始まるのを待つ観客のようにハリコを誘って手近なソファーに座る。そのソファも、今は内部で繁殖したカビが黒ずみをあちこちに浮かべていた。
全員が揃ったことをようやく認識したのか、管理官はぎこちなく動く人形のように口を開き、しかし声ばかりは以前のように穏やかな響きをもって喋り始める。
「今回の処刑任務は、セクター6、廃棄物処理エリアで行われます。」
廃棄物処理エリアは、かなり以前、ハリコ達のチームが一人の男を処刑しに向かった場所である。あの時は、まだシェルが健在であった。
以前は自由な取引が禁じられている飲用水を精製可能な機器を販売した罪で処刑が行われたが、今回の任務は相当に様相が異なっていた。
「廃棄物処理エリアの現地住民をとりまとめる住民会の会長が、殺害されました。管理局は、その犯人を処刑するよう指示を下しました。」
「えっ……。」
「へぇえ、あのゴッツいおじさんを殺害だなんて、大それたことをする人間さんがおられるんですねぇ。」
驚きの声を上げるベスタの隣で、マナコがのんびりと感心したように語っている。
上層街からの廃棄物が投棄される区画、廃棄物処理エリア。富裕層の住民が投げ捨てるゴミには、相当な貴重品がまだ含まれていることもあり、下層街の住民にとってはまさに宝の山である。
それを貧困層の市民が寄ってたかって奪い合っては、結果的に個々が得られる利益は減耗してしまう。ゆえに廃棄物処理エリアにて、資源回収を専門に担う住民を取りまとめ、他の居住区住民からの無軌道な奪取を防ぐ役目を担っていたのが現地の住民会会長であった。
「詳細は知りませんが、現地は混乱しているのではないでしょうか。トップに立つ者が予告なく消えると、統率を取り戻すのは困難を極めます。」
「ウゥ゛ー……。」
ヤキバもまた彼なりの見解を述べる中で、ハリコはただ唸っていた。
命を狙われかねない立場には違いなかったものの、以前会った時の彼は常にボディガードを傍に置き、自身も筋骨隆々とした巨漢だった。易々と殺害を許すような存在には、とても見えなかった。
が、続いて管理官から伝えられた内容は、更に想像を絶するものであった。
「住民会の会長を殺害したのは、人間ではありません。リズァーラーです。」
無駄口を叩いていたマナコも、流石に黙り込んだ。他の面々も同様に二の句が継げぬ様子で、丸く見開いた目を見合わせている。
リズァーラーは、ハリコたち自身が何よりも痛感していることではあるが、人間よりも身体能力が明確に劣る存在である。リズァーラーの身体を動かしているのは菌糸の収縮であり、これは筋肉のように鍛えて強まるものではない以上、人間に勝る膂力など得られるはずもない。
とはいえ、呼吸を必要とせず、中にはマナコのように完全な暗闇でも視力を発揮できる存在も居るなど、人間には生存不可能な環境で活動できるというメリットはある。リズァーラーが人間の処刑を成功させる成算はこの能力が前提となっていたし、今回の殺害も同様にリズァーラーが得意とする環境に持ち込んで実行されたものと思われた。
「現在も逃亡を続けているリズァーラーを処刑することが、あなた方に与えられた任務です。」
「管理官、忘れてしまっていなければいいのだけれど、私たちリズァーラーは簡単に死ねない。体の部位をどれほど欠損しても、体内の菌糸が活動している限りは、処刑したことにならないと思うのだけれど。」
「ウン……。」
現に両手足を切断された状態で、相応の時間たらい回しにされていたハリコも深々と頷く。
そもそも処刑対象にリズァーラーが選ばれること自体が前代未聞であり、今回の任務をいかに完了させるべきかビジョンを見いだせていなかったのは、ベスタばかりではなかった。
が、彼女の質問に対する答えは、すぐ管理官の手元にあらわれた。彼は執務机の下から、白い粉末が充填された瓶を取り出して、ぎこちない動きで机の上に置いた。
「リズァーラーの処刑には、この乾燥剤を用いてください。体内の水分を完全に喪失すれば、リズァーラーは活動を停止します。」
「……そうね。」
ベスタは、それを目にした時点で納得し、沈み込んだ声で一言答えて黙り込んだ。
その薬品自体、以前の廃棄物処理エリアにて敵対したリズァーラー、ウィーパとキャシーによって用いられたものであった。処刑対象を巡っての攻防の際、腕に乾燥剤をモロに被ったベスタは、見る間に自分の腕が乾いていき、ひび割れ始める様を目の当たりにしていた。
幸いながら腕を喪失することなく、養分液を得たことで再び真っ当に活動できるようにはなったベスタであったが、それ以来粉末状の薬剤には嫌な思い出ばかりが残されている。
「通達事項は以上です。」
管理官はそれだけを言い残し、動力の切れた人形のごとく口を閉じ、そのまま前方を見据えたまま停止した。眠るでもなく力尽きるでもなく、ただ不要な行動を取ることは全く無くなったのが今の彼であった。
机上に残された薬剤の瓶は、ヤキバが手に取って作業服の懐に入れた。彼の鋭敏な感覚は、ベスタがそれに直接触れることを厭っている様を感じ取っていた。
「へぇぇ、しかし人間さんのことを、リズァーラーが殺害するなんて。そんなこと、起きるんですねぇ、なにがきっかけなんでしょうかぁ。」
「ウゥー?」
マナコとハリコだけは、相変わらず無邪気に疑問を口にし、いよいよ始まる新たな処刑任務に気持ちを昂らせているばかりであった。




