第十一話 光学レンズと新たな敵
エシュラー侯爵家との決着から、十日が経った。
首都の市場は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。
星砂鉄の価格が下がったことで、武具職人が素材を仕入れやすくなった。職人の仕事量が増え、冒険者への納品が増え、冒険者の装備が充実した。
廃棄素材の活用技術がギルドの公式文書として登録されたことで、若手の錬金術師の何人かが自分なりの解釈で廃棄物の解析を始めた。ゴッホのもとに、「廃棄素材から作った品を取り扱ってほしい」という問い合わせが数件来ていた。
「この流れは、止まらない」
ゴッホが言った。
カインの研究室に来ていたゴッホは、腕を組んで窓の外を見ていた。冬が終わり、春の兆しが見え始めた首都の空は、少しだけ明るかった。
「止める必要もない」カインは作業台で手を動かしながら言った。「むしろ、他の錬金術師が同じことを始めることが目標だ」
「しかし、流れが大きくなれば、新しい反発も来る」
「どんな反発だ」
「エシュラー侯爵家は転換を選んだ。しかし、市場の変化で損をする者は他にもいる。例えば、今まで高値の素材を売ってきた別の商人や、ギルドの中で既得権益を持っている上位者たちだ」
「来るだろうな」
「準備はあるか」
「今は次の開発を進める。エシュラー侯爵家との件で学んだことがある。強い立場を作ることが、最大の防御だ」
ゴッホは頷いた。
「光学レンズの件、聞かせてくれ」
カインは手を止め、机の引き出しから小さなガラス片を取り出した。
溶けかけた古いガラスの破片だ。見た目は汚れていて不透明だが、カインの目には内部の構造が見えていた。
「溶融の過程でガラスの内部に、通常では生じない屈折構造が自然に形成されている。これを精製して形を整えれば、非常に精度の高い光学レンズになる」
「光学レンズというのは、何に使うものだ」
「目の悪い人が遠くや近くを見やすくするための道具、あるいは医師が患部を拡大して観察するための道具だ。この世界にも「遠見の石」という概念はあるが、精度が低く、価格が高い。廃棄ガラスから作れれば、コストはほぼゼロになる」
ゴッホは少し考えた。
「需要は?」
「高い。特に老人や、細かい作業をする職人や、医師だ。首都だけでも、相当な需要があるはずだ」
「今まで手に入らなかったものが手に入るようになれば、確かに需要は掘り起こせる」
「今取り組んでいるのは、精製の方法の確立だ。溶融ガラスの内部構造は一つ一つ違うため、全てに同じ術式は使えない。素材ごとに最適な加工が必要になる」
「時間がかかりそうだな」
「一週間から二週間は必要だ。ただし、それが終われば量産の道が開ける」
ゴッホは立ち上がった。
「わかった。販売ルートの下調べをしておく。医師の組合と、眼鏡職人の工房に当たってみる」
「お願いします」
光学レンズの開発は、予想通り難航した。
溶融ガラスの内部構造を読み取ることは、カインの能力でできる。しかしそれを「光が均一に屈折する形状」に加工するのは、術式の精度が非常に高く要求される作業だった。
一ミリの歪みが、見え方に大きな差を生む。
最初の三日間、できあがるものは全て品質が安定しなかった。ある部分は鮮明に見えるが、別の部分が歪む。
「難しいですね」
リアが四度目の失敗作を光に透かして見ながら言った。
「素材の均一性がない。溶融の過程で生まれた構造が、ランダムに分布しているせいだ」
「解決策は?」
「構造の分布を「読んで」から、その分布に合わせた術式を毎回設計する。一つの標準術式で全てに対応しようとするのが間違いだった」
「つまり、一個ずつ違う術式を組むということですか」
「そうだ」
リアはため息をついた。
「……それは時間がかかります」
「しかし、精度が上がる。最初は時間がかかっても、パターンが見えてきたら効率化できる」
「わかりました。私は術式の安定化の精度を上げます。細かい調整なら、繰り返せば速くなります」
リアは作業台に向き直り、気持ちを切り替えた様子で作業を再開した。
カインもその隣で手を動かし始めた。
しばらく沈黙が続いた。
「カインさん」
「なんだ」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「前回の話の続きというか……私が「一緒にいたい」と言って、カインさんが「一緒にいることが自然になっている」と言いましたよね」
「言った」
「あれから十日経ちましたが、カインさんの中で何か変わりましたか」
カインは手を止めて、少し考えた。
「変わったかどうか」
「はい」
「変わったということはないと思う。しかし、確信がより強くなった」
「確信というのは」
「一緒にいることが自然、という感覚が、日を追うごとに深まっている」
リアは手を止めず、しかし少し顔が赤くなった。
「それは、嬉しいことを言うんですね、さらっと」
「さらっとではない。かなり考えてから言った」
「ますます困ります」
「困る必要はないと思うが」
「困ります」
カインは少し黙った。
「どうすれば困らないか」
「……時間をください」
「何をするための時間だ」
「気持ちを整理する時間です」
「わかった。待つ」
「早く整理します」
「急がなくていい」
「急ぎます」
二人はそれぞれ作業に戻った。
研究室に、道具の音だけが続いた。
しかしその沈黙は、以前とは少し温度が違った。
五日目の夕方、ついに安定した品質のレンズが完成した。
直径三センチほどの、薄い円形のガラス片だ。
見た目は地味だが、光に透かすと内部に美しい光の屈折が見える。
「試してみましょう」
リアが言った。
リアは自分の手の甲の毛穴をレンズ越しに見た。
目を細め、ピントを合わせる。
「……見える。すごく鮮明に」
「倍率は?」
「肉眼の二倍以上はあります。これ、医師が使えばかなり細かいところまで見えますね」
カインもレンズを手に取り、確認した。
確かに鮮明だ。「遠見の石」として市場に出回っているものは、この倍率では霞んでいることが多い。
「品質は合格だ」
「次は、どうすれば量産できるかですね」
「素材ごとに術式が違う、という問題をまず解決する。今日わかったことがある」
「何ですか」
「溶融ガラスの内部構造の「パターン」は、ガラスの元の材質で分類できる。材質が同じなら、似たパターンが出やすい。材質ごとにベースとなる術式を作れば、個別の微調整が少なくなる」
「つまり、材質ごとの「雛形」を作る?」
「そうだ。雛形が十種類あれば、ほとんどの廃棄ガラスに対応できる」
リアはメモを取り始めた。
「材質の分類と、それぞれの雛形術式の設計。一週間でできますか」
「できる。リアに雛形の安定化を担当してもらえれば、もっと早い」
「やります」
二人は翌日から、体系的な作業に入った。
廃棄ガラスを材質ごとに分類し、それぞれの内部構造のパターンを分析し、ベースとなる術式を設計する。
ゴッホが集めてくれた廃棄ガラスの種類は、首都の様々な場所から来ていた。窓ガラスの破片、溶けた器の残滓、薬品の瓶のかけら、古い魔法道具のガラス部品の廃材。
それぞれに特性があり、それぞれに可能性があった。
六日目に、十種類の雛形が完成した。
雛形を使えば、新しい廃棄ガラスが来た時でも、分類してすぐに加工が始められる。
「これで量産の道ができた」
カインは完成した雛形術式の一覧を見て言った。
「次は実際に量を作ってみましょう」
リアが言った。
翌日から、二人は量産テストを始めた。
一日で十個のレンズを作ることができた。
品質は安定していた。全て合格水準だった。
ゴッホが医師の組合と眼鏡職人の工房に当たってきたのは、その翌日だった。
「医師の組合に話を持っていったら、すごい食いつきだった」
ゴッホは上機嫌で言った。
「首都の医師協会の代表が、試供品を見てすぐに「これは本物だ」と言っていた。市場の「遠見の石」より品質が高い上に、価格が桁違いに安い」
「価格はどう設定するつもりだ」
「市場品の五分の一から六分の一を想定している。材料費がほぼゼロだから、それでも十分な利益が出る」
「眼鏡職人の工房は」
「こちらも反応が良かった。今まで「遠見の石」を使ってレンズを作っていたが、品質が不安定で困っていたそうだ。カインのレンズを使えば、品質が安定する。しかも安い。「どれだけでも買う」と言っていた」
カインは頷いた。
「流通の準備は」
「できている。来週から始められる」
「わかった。量産を続ける」
翌週から、光学レンズの販売が始まった。
最初の一週間で、医師の組合から五十個の注文が来た。眼鏡職人の工房からは三十個。
首都の外の都市からも問い合わせが来始めた。
「首都の評判が広まるのは早いな」ゴッホが驚いた様子で言った。「医師の組合が他の都市の医師に話したらしい」
「需要はあったが、供給がなかったということだ」
「このペースで注文が増えれば、二人では追いつかなくなる」
「リアに加えて、もう一人補助が必要かもしれない」
「銀色見習いの中に、お前の技術文書を読んで廃棄素材の活用を始めた者が何人かいると聞いた。その中から適した人材を探してみるか」
「そうしよう。ただし、技術を教える時間が要る」
「焦らなくていい。需要は逃げない」
カインは頷いた。
しかしゴッホの言葉とは裏腹に、別の問題が来ていた。
光学レンズの販売が始まった翌週の水曜日、カインの研究室に新しい来客があった。
「遠見宝石商組合」の代表を名乗る男だった。
四十代の、恰幅の良い商人だ。高価そうな外套を着ていて、指に大きな宝石の指輪をはめている。
「カイン・ロウさんですね。お時間をいただけますか」
礼儀正しい言葉だったが、声の奥に固さがあった。
「どうぞ」
カインは椅子を勧めた。
「私は遠見宝石商組合の代表、アドラー・コスと申します」
「カイン・ロウです」
「単刀直入に申し上げます」コスは前置きなく言った。「あなたの光学レンズは、我々の事業を直接侵害しています」
「具体的に聞かせてください」
「「遠見の石」は、我々の組合が長年にわたって発展させてきた製品です。品質管理、流通ルートの整備、医師や職人との関係構築、全てに時間と費用をかけてきた。あなたが廃棄ガラスから同等品を安値で出せば、我々の事業が成り立たなくなります」
カインは静かに聞いた。
「御組合の「遠見の石」の品質について、少し確認させてください。先日の医師の組合からの報告では、品質が不安定で困っているという声がありましたが」
コスの顔がわずかに動いた。
「それは個々の製品の問題であり、組合全体の品質を代表するものではありません」
「医師の組合の代表が直接述べていた言葉です。「市場品は品質が安定しない」と」
「……品質の向上は継続的な課題です。しかし、それとこれとは別の話です」
「別の話ですか? 品質が安定していない製品の代わりに、品質が安定した製品が市場に出る。消費者にとっては良いことだと思いますが」
コスは表情を引き締めた。
「我々は法的な措置も辞さないつもりです」
「どのような法的根拠で?」
「光学系の製品は、遠見宝石商組合の認定を受けた者のみが製造・販売できるという規定があります」
カインは少し考えた。
「その規定は、王国の法律ですか、それとも組合の内規ですか」
コスは少し間を置いた。
「……組合の内規です」
「組合に加盟していない者が光学系製品を製造することを禁じる法律は存在しますか」
「法律としては……存在しません。しかし慣例として」
「慣例は法律ではありません」
コスの顔が赤くなった。
「あなたは、我々の組合を無視するつもりですか」
「無視はしていません。ただし、私の活動が違法でないなら、止める根拠はありません」
「脅しではありませんが、我々の組合は首都の商業会議所と繋がりがあります。あなたの活動に影響を与えることは可能です」
カインは静かにコスを見た。
「価値創造の眼」で情報を読んだ。
「アドラー・コス。遠見宝石商組合代表。バックグラウンド:中規模商人、政治的な繋がりは中程度、エシュラー侯爵家とは一部取引関係あり。目的:光学レンズ市場の参入阻止、あるいは独占の継続。信頼性:低い(交渉では虚偽の可能性あり)。本当の懸念:品質競争に勝てないこと」
(エシュラー侯爵家と繋がりがある)
これは興味深かった。エシュラー侯爵家が方向転換をした今、その関係がどう変化しているかは不明だが、状況として把握しておく必要がある。
「コスさん、一つ提案があります」
「聞きましょう」
「私のレンズの品質を、遠見宝石商組合として公式に評価してみてください。もし品質に問題があれば、その点については改善します。品質が認められれば、市場に出すことは正当です」
コスは少し意外そうな顔をした。
「……品質評価を、我々に求めると?」
「そうです。組合が認定機関として機能するなら、その機能を使えば良い。認定を受ければ、私の製品に組合の品質保証の印が付く。それは消費者にとっても、組合にとっても利益になります」
コスはしばらく黙った。
この提案は、コスにとって想定外だったはずだ。
阻止しようとしていた相手が、逆に組合を活用する形を提案してきた。
「……条件は?」
「品質評価は公正に行うこと。評価の基準は事前に明示すること。認定が否決された場合、理由を明確に示すこと。これだけです」
「認定料は?」
「払います。通常の認定費用で構いません」
コスはしばらく沈黙した。
この沈黙の中で、コスは計算しているはずだ。阻止が難しい状況で、認定機関として収入を得る形を取る方が現実的か、という計算だ。
「……一週間、持ち帰って検討させてください」
「もちろんです」
コスは立ち上がり、コートを整えた。
「今日は話を聞いていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ」
コスが部屋を出た後、リアが隣から出てきた。
隣の保管室で、話を聞いていたらしい。
「……コスさん、最初とだいぶ態度が変わりましたね」
「阻止の口実がなくなったからだ」
「光学製品に関する法律がないとは、知っていましたか?」
「ラドさんに事前に確認していた」
「準備が良いですね」
「来るとわかっていた。エシュラー侯爵家に次いで、誰かが圧力をかけてくるとは思っていた。ただし、こういう形で来るとは予想していなかった」
「どんな形で来ると思っていましたか」
「もっと直接的な妨害だ。しかし組合の規定を持ち出してくるというのは、法的に攻めた侯爵家と似たような発想だ。エシュラー侯爵家の件が参考にされた可能性がある」
「繋がりがあるんでしょうか」
「あると見た。詳しく調べる価値がある」
カインはラドに連絡を取ることを決めた。
ラドから返事が来たのは翌日の夕方だった。
「遠見宝石商組合とエシュラー侯爵家の取引関係について調べました。以前は「遠見の石」の原材料の一部をエシュラー家から購入していた記録があります。ただし、侯爵家の事業転換以降、その取引は途絶えているようです」
カインはそれを読んで、静かに考えた。
エシュラー侯爵家との取引が途絶えたことで、コス組合は別の問題を抱えているかもしれない。
「遠見の石」の原材料の一部が手に入りにくくなった状況で、品質の安定に困っている可能性がある。
(これは、別の解決策を提供できるかもしれない)
カインは「価値創造の眼」で、「遠見の石」の構造を思い浮かべた。
市場の「遠見の石」は、特定の天然石を加工して作る。天然石の産地が限られているため、品質が安定しないという問題がある。
カインの光学レンズは廃棄ガラスから作るため、素材の供給は安定している。
「価値創造の眼」でさらに考えを進めると、一つのアイデアが浮かんだ。
「遠見の石」の製造に使われる天然石の代わりに、特定の加工を施した廃棄ガラスを素材として提供できれば、コス組合は品質安定問題を解決できる。
コス組合にとっては、カインが競合ではなく「素材供給者」になる形だ。
(これなら、双方に利益がある)
カインはゴッホに連絡を取った。
「一週間後にコスが返答を持ってくる前に、別の提案を準備したい」
「どんな提案だ」
「コス組合に、光学系の素材を供給する形だ。彼らが「遠見の石」を作るための原材料として、廃棄ガラスから精製した光学用素材を提供する」
ゴッホは少し考えた。
「競合を、取引先に変えるか」
「そうだ。コス組合が品質安定問題を抱えているなら、それを解決する形を取れば、妨害よりも協力を選ぶ可能性が高い」
「……お前は、エシュラー侯爵家の時も、最終的に転換を促した。潰すのではなく、方向を変えさせる」
「潰すことが目的ではない。市場が正しく機能することが目的だ。コス組合が正しい形で市場に参加し続けることは、悪いことではない」
ゴッホは少し笑った。
「坊主らしい発想だ。了解した。コスへの連絡を取ってみよう」
一週間後、コスが研究室に戻ってきた。
今回は一人ではなく、組合の副代表らしき男を連れていた。
「先日の提案について、組合として回答を持ってきました」
「聞かせてください」
「品質評価と認定の件、受け入れることにしました。ただし、条件があります」
「聞きます」
「認定の手数料は通常の二倍にしていただきたい」
「通常の一・五倍なら検討します」
コスは少し考えた。
「……一・五倍で構いません」
「わかりました。もう一つ、こちらからも提案があります」
コスの目が細くなった。
「聞かせていただきます」
「御組合が「遠見の石」の製造に使う光学用原材料として、私が廃棄ガラスから精製した素材を供給することを検討していただけませんか」
コスは少し驚いた顔をした。
「……素材の供給?」
「エシュラー侯爵家からの原材料の供給が変わったことで、品質安定に課題があると推測しています。廃棄ガラスから精製した光学用素材は、品質が安定しています。価格も天然石より安い」
コスはしばらくカインを見た。
それから、副代表と短く話し合った。
「……試供品を見せていただけますか」
「もちろんです」
カインは棚から、光学用素材として精製したガラスの小片を取り出した。
天然石の「遠見の石」と同様の形状に加工した、均質な光学素材だ。
コスはそれを手に取り、透かして見た。
副代表も確認した。
二人は小声で話し合った。
しばらくして、コスが顔を上げた。
「……品質は確かです。試験的に使ってみたい。最初の三ヶ月間、試験供給という形にしていただけますか」
「構いません」
「価格は?」
「現在の天然石の仕入れ価格の六割で提供します」
コスは目を細めた。
「……六割、ですか」
「品質が安定している分、歩留まりが改善されます。実質的なコストはさらに下がるはずです」
コスはしばらく考えた。
「……わかりました。試験供給を受け入れます」
「ありがとうございます」
コスは立ち上がった。今日は最初に来た時より、表情が柔らかかった。
「カイン・ロウさん、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なぜ我々に、こういう提案をしてくれるんですか。阻止しようとした相手に」
カインは少し考えた。
「市場で機能している組合が、適切に機能し続けることは、市場全体のためになります。コス組合がなくなることは、望んでいません。品質問題を解決して、正しい形で機能することを望んでいます」
コスはしばらくカインを見た。
それから、静かに頷いた。
「……理解しました」
コスは部屋を出た。
リアが奥から出てきた。
「また敵を取引先にしましたね」
「敵ではなかった。利益の方向が違っていただけだ」
「それを変えるのが、カインさんのやり方ですね」
「最も効率的な方法だ。潰すより、方向を変える方が、結果として市場に良い影響が残る」
リアは頷いた。
「エシュラー侯爵家の時もそうでした。そして今回も」
「次も同じだろう」
「次、というのは?」
カインは窓の外を見た。
首都の市場が、春の光の中で活発に動いている。
「市場が変わり始めると、変化を恐れる者が出てくる。その全員と戦うのではなく、方向を変えられる者は変えていく。それを繰り返す」
「ずっと続けるんですね」
「ずっと続ける」
リアは少しだけ笑った。
「だったら、私もずっと続けます」
カインはリアを見た。
「いいのか」
「さっき言いました。気持ちの整理、終わりました」
カインは少し意外に思った。
「いつ終わった」
「コスさんが来た時、カインさんがあっさり方向を変えるのを見て、終わりました」
「どういう意味だ」
「普通の人は、阻止しようとしてきた相手に怒ります。でもカインさんは、どうすれば双方に良い形になるかだけを考えていた。そういう人のそばにいることが、嫌じゃないと確信した」
カインは少し考えた。
「確信、というのは」
「好きです」
リアはあっさりと言った。
カインは返事を考えた。
しかし言葉より先に、別のことが口から出た。
「……俺も、同じだ」
リアは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「やっとですね」
「やっと、というほど時間はかかっていないと思うが」
「かかってました」
カインは少し黙った。
「……そうかもしれない」
「自覚がなかっただけですね」
「自覚がなかった」
リアはまた笑った。
「わかりました。では、続けましょう」
「何を」
「仕事です。光学レンズの量産と、コス組合への供給準備と、土壌改良材の次のバッチ」
「……そうだな」
二人は作業台に向かった。
何かが変わったようで、何も変わっていないようで、しかしどこかが確かに変わった。
研究室の外では、首都の春が進んでいた。
その夜、カインは一人で研究室に残り、次の設計メモを書いていた。
溶けかけた古いガラス片から生まれた光学レンズ。
廃棄された薬草の残滓から生まれた発酵促進剤。
価値がないと言われていたものが、形を変えて誰かの生活を支えていく。
「価値創造の眼」が見えているものは、まだたくさんある。
廃棄された布の繊維から作れる防水材料。溶けかけた金属の残滓から取り出せる触媒。使えなくなった魔道具の内部部品から回収できる特殊な合金成分。
全部、誰かが「価値なし」として捨てたものだ。
しかし全部、本当の価値を持っている。
(この世界は、まだ気づいていないものだらけだ)
カインは設計メモの一番上に、新しいタイトルを書いた。
「廃棄された魔道具の内部部品、解析記録」
ペンを走らせる。
仕事は、続く。
―――― 第十一話 了 ――――




