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魔法使い兼執事の眠り姫。〜追放された元従者は敵国将軍となりあらわれた。眠り姫を箱庭に連れ去り歪んだ溺愛をうける〜  作者: 佳月


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8



 刻々と日々は過ぎ、ついにオンディーヌが「18歳」になる日がきた。

 その日の深夜、王城は、突如として天地がひっくり返るような激しい魔力の地鳴りに襲われた。


「――ッ!!」


 前王妃の寝室のベッドで、オンディーヌはガバッと跳ね起きる。

 全身の血が凍りつくような感覚。地下牢の奥深くから、どす黒い執念の魔力が津波のように押し寄せ、オンディーヌの足首の金の鎖は激しく揺れていた。


『オオオオオ……! 呪われし前妻の娘よ……! 我が命を賭して、お前を永遠の暗闇へ引きずり込んでやる……!』


 継母の最期の呪詛と同時に、寝室の真ん中に渦巻く魔力から、古びた『糸紡ぎ車』が具現化した。その鋭利な針が、怨念の闇を纏って禍々しくきらめく。


「あ……」


 その瞬間、オンディーヌの瞳からすっと光が消えた。

 一度触れれば二度と開かぬ、あの『眠りの呪い』が牙を剥く。


 ――おいで、可哀想なオンディーヌ。そこへ触れば、もう何も苦しまなくていいの。


 頭の中に直接響く未知の声音に導かれるように、オンディーヌは夢心地な足取りで、ゆっくりとベッドから足を降ろした。足首の金の鎖がじゃらり、じゃらりと虚ろな音を立てる。

 甘く心地よい霞が脳を支配し、一歩、また一歩と引き寄せられ、オンディーヌは吸い寄せられるように、その白い指先を鋭利な針の先端へと、そっと伸ばしていく。あと数ミリで、指先が針に触れる。抗えない呪いの力に、オンディーヌの意識が完全にブラックアウトしかけたその時。


「……ッ!!」


 オンディーヌの指先が針に触れる刹那――耳を劈くような魔力の轟音と共に、フロワの腕輪から伸びる鎖が限界を超えて弾け飛んだ。

 鎖が引きちぎられたのではない。フロワは自身の魔力を逆流させ、幻影からオンディーヌを引き離すための鎖へと変換したのだ。

 彼女の体が針から離れたその隙に、フロワは自らの左手を針へと突き出す。自らの掌を差し出し呪いを己の肉体へと強引に引きずり込んだのだ。


「……っ、ガハッ……!?」

「フロワ……!?」


 フロワはオンディーヌの顔を両手で包み込むと、その額に自分の額をぴったりと押し当てた。その赤い瞳は、目の前のオンディーヌが無事であることだけを確かめるように、どこまでも深く、重く、彼女を愛おしげに捉えていた。


「――間に合いました。あのような粗末な針に、君の指先を触れさせるわけにはいきません」

「離して……! 貴方まで呪いに巻き込まれる……っ!」

「巻き込まれる? 違いますよ、オンディーヌ。私は最初から、このために戻ってきたのです」


 フロワが低く禁忌の呪文を唱えた瞬間、オンディーヌの身体を覆っていたどす黒い呪いの霧が、まるで濁流となってフロワの身体へと一気に流れ込み始めた。

 完璧だった彼の白い肌に、死相のような黒い紋様がみるみるうちに浮かび上がる。


「な……にを、しているの……!? やめてちょうだい!  フロワ!!」

「5年前……私が去り際、君に言った言葉を覚えていますか。……『どうか、あなたの行く道が、絶望だけでありませんように』と」


 フロワは口からどす黒い血を零しながらも、愛おしそうにオンディーヌの頬を撫でた。


「あの言葉は、ただの願いではありませんでした。あの時から、私はすでに、君を呪いから救い出すための術を研究し始めていたのです。……君にこれ以上の絶望など、一滴たりとも与えない。我が命に代えても、その呪いは私がすべて『処理』してみせます」

「嘘……嘘でしょう!? 貴方、自分がどうなるか分かって――」

「君の身代わりになれる。……ああ、これ以上の幸福が、この世にあるでしょうか」


 ドサリ、と重い音を立てて、フロワの身体が床へと崩れ落ちた。

 それと同時に、城を包んでいた不気味な雲は霧散し、地下からの呪詛の声も完全に消え失せた。継母は魔力を使い果たして息絶え、呪いはすべて、フロワの肉体へと封じ込められたのだ。


「フロワ……? 嘘よ、目を開けて……! フロワ!!!」


 オンディーヌの絶叫が、静まり返った夜の部屋に虚しく響き渡った。



 それから三日三晩、フロワは死の淵を彷徨っていた。

 彼の肉体は、触れれば火傷するような高熱を放ち続けている。それは彼の強靭な魔力が、飲み込んだ呪毒を必死に分解しようと戦っている証だった。

 枕元に座り込み、オンディーヌは一睡もせずタオルを替え続けた。

 氷水に浸したタオルが、フロワの額に乗せた瞬間、湯気を立ててぬるま湯に変わる。そのたびにオンディーヌは、彼の胸元に手を当て、必死に魔力を流し込んだ。


(……どうして、そんなに平気な顔で、全部引き受けてしまったの?)


 初日の夜、彼女は恐怖で泣きじゃくった。だが、2日目には、ただ機械的にタオルを絞るだけになっていた。指先から伝わるのは、焼け付くような痛みと、彼が1人で飲み込んだ「死の予感」だ。

 5年間、塔の中でただ無力に祈ることしかできなかったあの頃の無力感が、再び彼女を襲う。


(そんなの、耐えられるはずがないわ)


 3日目の夜になると、オンディーヌは彼の痩せていく頬に触れ、瞳に涙を溜めた。

 かつて彼から受けた教育、厳しい言葉、そして冷たい鎖の感触。そのすべてが、いまや自分を繋ぎ止めていた唯一の温もりだったと、この期に及んで理解してしまう。傲慢で、支配的で、大嫌いで……誰よりも彼だけが、5年間変わらず、自分を見てくれていたのだと。

 日が昇り、また沈む。城の中の時が止まったように感じられる中で、彼女はただ彼の微かな鼓動だけを聞いていた。


「……お姉ちゃん、フロワは死んじゃうの……?」


 隣で不安そうに服の裾を引っ張るデュークに、オンディーヌはきっぱりと首を振った。その瞳には、かつてないほど気高く、強い光が宿っている。


「死なせないわ。この男は、私に生涯を捧げると誓った男よ。私の許しなく眠りにつくことなんて、絶対に許さない」


 言葉とは裏腹に、オンディーヌの手は震えていた。彼女は、焼けるように熱いフロワの大きな手を両手でぎゅっと握りしめる。

 3日目の深夜、呪いの奔流がフロワの魔力回路を焼き尽くさんとする、まさにその臨界点。オンディーヌは彼に魔力を注ぎ込みながら、その耳元で泣きそうな声で、それでも気高く囁いた。


「起きなさい、フロワ。……私のために地獄を見たのなら、その先では私の隣に座りなさいよ!」


 彼女の魂からの叫びが、呪毒に侵された彼の意識の深淵へ、細い糸となって届いたときだった。

 フロワの意識の奥底で、何かが軋んだ。

 地獄の業火のような熱と悪夢に支配されていた彼の意識に、かすかにオンディーヌの泣き声が届く。彼はその声だけを羅針盤にして、漆黒の淵から必死に這い上がった。



 深い深い、底の見えない静寂の底。

 そこは、フロワがかつて望んだ――あるいは、禁忌として心の奥底に封じ込めていた理想の楽園だった。

 王城の争いも、5年間の断絶も、身分という壁さえ存在しない。ただ柔らかな陽光が降り注ぐ庭園で、オンディーヌと彼が、肩を並べて穏やかに微笑んでいる。彼女の指先が自分の袖に触れる感触、花々の香り、すべてが本物と見紛うほどに温かい。


(……ああ。ここで、時が止まればいい)


 彼はその甘い幸福に、何度も意識を降ろそうとした。呪いの主である継母の意思が、心地よい子守唄のようにフロワの脳裏に囁きかける。


『――さあ、ここで永遠に眠りなさい。君が欲した平穏はここにある。オンディーヌも、いずれこの美しい籠の中へ来る。二人で幸せに永遠を過ごせばいい』


 抗いがたい眠気が、泥のようにフロワの四肢を絡めとる。それは死の安らぎに似た、あまりにも甘美な誘惑だった。

 けれど、その夢の遥か彼方、厚い壁の向こう側から、彼を呼び戻す「鋭い何か」が突き刺さる。


(起きなさい、フロワ。……私のために地獄を見たのなら、その先では、私の隣に座りなさいよ!)


 それは、ただの呼びかけではない。魂を直接震わせるような、彼女の慟哭だ。

 その声を聞いた瞬間、フロワの心臓が不自然に跳ねた。彼は立ち止まり、手の中にあったオンディーヌの手を見下ろす。すると、彼女の指先がみるみるうちに砂のように崩れ、同時に彼自身の左腕がどす黒い呪毒に浸食され、焼け爛れていくのが見えた。


(……これは、現実ではない)


 すべてはあの魔女が仕組んだ、魂をすり潰すための「甘い檻」。自分がここで夢を見ている間、現実のオンディーヌは、焼けるような高熱の中で、自分のために泣き続けているのだ。


(……卑怯ですね、オンディーヌ様。……そんなにも私を求めてくださるのなら、たとえこの身が灰になろうとも、帰らないという選択肢など残されていないではないですか)


 フロワは自嘲した。自分の幸福よりも、彼女が流す涙の方が、今の彼にとっては断然重い。

 彼は、夢の中のオンディーヌに向かって、一度だけ優しく微笑んだ。そして、二度と戻らないと誓うように、その手首を強く振り払う。

 美しい庭園が、ガラスのように粉々に砕け散る。

 フロワは崩れゆく空の下、膝をついて地獄の底を見下ろした。そこには、魔力回路を焼き尽くす灼熱の呪毒が、津波のように彼を飲み込もうと待ち構えている。

 彼はその闇の中に身を投げ出し、必死に手を伸ばした。羅針盤はひとつ。彼女の声のする方へ。


(待っていてください、オンディーヌ様。私は、君が涙を流す物語の結末など、断じて認めない。……たとえ私が地獄を這いずることになっても、君の隣という聖域へ、必ず帰還する)


 フロワは闇の中で、自らの魔力を牙のように研ぎ澄ませた。呪毒の濁流を自らの肉体で切り裂き、意識の断片をひとつずつ、手繰り寄せる。


 痛みが、戻ってくる。

 心臓の鼓動が、戻ってくる。

 そして、彼女の温もりが、すぐ目の前にある。


(……やっと、見つけた)


 フロワは、永劫とも思える暗闇を突き破り、意識の海から強引に浮上した。



「……っ、く……」


 フロワの長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと、その赤い瞳が開かれた。まだ熱でひどく潤んだ瞳が、目の前で涙を溜めているオンディーヌを捉える。


「……おや。私は……天国へ召されたのでしょうか。目の前に、怒った顔の美しい女神様がいる……」


 掠れた声で、いつものような軽口を叩くフロワ。オンディーヌは堪り兼ねて、彼の胸にポカポカと拳を叩きつけた。


「バカ! 大バカ者! 心配させないでよ……っ!」

「ふふ……っ、ガハッ、まだ身体が痛む……。ですが、君のその涙を、今度は私のための涙だと自惚れても……よろしいですか?」


 フロワは苦しげに笑いながら、オンディーヌの小さな手を引き寄せ、愛おしそうに頬を擦り寄せた。呪いは彼の強大な魔力によって完全に分解され、消化されつつあった。彼が命を賭けて自分を救ったという圧倒的な事実の前に、オンディーヌの頑なだった心は、ついに完全に融解した。


「……ええ、自惚れなさい。貴方の勝ちね、フロワ。貴方のあの重苦しい愛に、私は完全に捕まっちゃったわ」


 オンディーヌは涙を拭い、ふっと、最高に気高く美しい「女王」の微笑みを浮かべた。


「でも、勘違いしないでちょうだい。貴方が私を支配しているんじゃないわ。……貴方が命を賭して守り抜いたこの『箱庭』に、私が貴方のために収まってあげることにしたの。だから、一生責任を持ってちょうだい? 私の側で私だけを見て溺愛しなさい。私の心も身体も、何一つ貴方以外には渡さないから。……分かった?」


 その言葉を聞いた瞬間、フロワの瞳に、熱病よりも深い「歓喜の狂気」が宿った。彼はベッドの上で、這いつくばるようにしてオンディーヌの手に深く、深く、生涯の服従を誓う口づけを落とした。


「――御意、我が唯一の姫。この命も、この箱庭も、永遠に君のものだ」



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