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うまく生きた日

「今日は、戦わない」


 私は鏡の前で、自分にそう言い聞かせた。


 今夜のドレスは薄いクリーム色。

 ただし腰には、やたら大きな薔薇がついている。


 しかも一輪ではない。

 大・中・小の三段構えだ。


 私は令嬢であって、フラワーアレンジメントではない。


「ローラ、この薔薇、もう少しだけ常識の範囲内にできないかしら」


「かしこまりました、お嬢様」


 ローラは慣れた手つきで、いちばん大きい薔薇を少し控えめにしてくれた。


 さすがである。

 もはや彼女はメイドというより、私の衣装被害を最小限に食い止める防波堤だ。


「ありがとう、ローラ。あなたがいなかったら、私は今ごろ花壇として生きていたわ」


「恐れ入ります」


 本当に恐れ入るのはこっちよ。


 私は深呼吸した。


 昨日、アルベルトに言われたことが、妙に胸に引っかかっている。


 ――時には、一度立ち止まって、ご自身の行動を見直してみることも大切ですよ。


 立ち止まる。

 見直す。


 つまり、マリアに嫌味を言って、王子に噛みついて、断罪されて死ぬという、いつもの美しい流れを今日はやめるということだ。


「……よし」


 私は鏡の中の自分を見た。


「今日は“悪役令嬢”としてじゃなく、“私”として動く」


 私は、王子を奪いたいわけでもない。

 マリアを泣かせたいわけでもない。


 できれば静かにカフェでも開いて、焼きたてのスコーンに囲まれて暮らしたいだけなのだ。


 そのためにも、まずはこの舞踏会を平和に切り抜ける。


 今日は争わない。

 煽らない。

 嫌味を言わない。


 いわば、平和主義エリザベス作戦である。


 名前はちょっと間抜けだけれど、中身は本気だ。



 **



 舞踏会の会場は、今日もきらびやかだった。


 巨大なシャンデリア。

 磨き上げられた床。

 優雅に踊る貴族たち。


 そして中央には、当然のように王子レオンハルトがいる。


「……うん、まだ人間の範囲ね」


 今日の王子も筋肉質ではある。


 けれど前回のような「筋肉だけで独立国家が作れそう」なレベルではない。

 せいぜい「素手で熊をしとめそう」くらいだ。


 乙女ゲームの攻略対象としてはだいぶ逸脱しているが、今となってはかなり穏やかな部類である。


 そして、マリアが現れた。


「エリザベス様、今夜もお美しいですわ!」


 相変わらず、風もないのに髪をふわりとなびかせている。


 今日のドレスは淡いピンク。

 まだ正気の範囲内だ。


 光ってもいないし、燃えてもいない。


 現時点では。


「ありがとう、マリアさん。あなたも……とても可愛らしいわ」


 そう言うと、マリアは目を丸くした。


「……え?」


「そのドレス、よく似合ってる。今日はちゃんと“衣装”に見えるわね」


「今日は……?」


 しまった。

 余計な一言が混ざった。


 でも、かなり抑えたほうである。

 拍手してほしいくらいだ。


 マリアは少し戸惑いながらも、確かに嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます、エリザベス様」


 ……あら?


 もしかして、これ、いける?


「マリア、ちょっと話があるの」


「はい?」


 私はマリアの手を取った。


 周囲の空気が、ぴたりと止まる。


 まあそうだろう。

 悪役令嬢がヒロインの手を取るなんて、普通は断罪前の嫌がらせである。


 でも今日は違う。


「私、あなたのことをずっと誤解していたわ」


 マリアが息を呑む。


「嫉妬していたの。あなたがみんなに愛されて、王子の隣にいて、物語の真ん中にいるのが」


 会場が静まり返った。


 たぶん今、貴族たちの頭の上には「え?」が浮かんでいる。


 でも私は続けた。


「でも、やっと分かったの。私が戦う相手は、あなたじゃなかった」


「エリザベス様……?」


「私はずっと、“悪役令嬢”でいなきゃいけないと思ってた。でも、もうそんな役割に縛られるのはやめるわ」


 マリアは大きな目をさらに大きく見開いていた。

 横では、数人の貴婦人が扇を落としている。


 わかる。

 私も今の自分を外から見たら、ちょっと驚く。


「だから、もうあなたを敵にしない」


 私はできるだけ穏やかに言った。


「これからは、私が私のために生きる番よ」


 その瞬間、会場全体が固まった。


 いや、本当に固まった。

 音楽まで止まった気がした。


 そして背後から、王子の声がした。


「エリザベス……本気でそう思っているのか?」


 振り返ると、レオンハルト王子が信じられないものを見るような顔で立っていた。


 相変わらず肩幅は広い。

 けれど今は、その筋肉よりも表情のほうが印象的だった。


「ええ、レオンハルト様」


 私はまっすぐに言った。


「私、今までずっと、悪役令嬢でいなければならないと思っていたの。でももう違うわ。私は、私自身の人生を生きたいの」


 王子はしばらく黙っていた。


 マリアも黙っている。

 周りの貴族たちも、呼吸しているのか不安になるくらい静かだ。


 やがて王子は、深く息を吐いた。


「……そうか」


 その声は、いつもの断罪モードではなかった。


「君がそこまで考えていたとは思わなかった。僕も、君を誤解していたのかもしれない」


 ……え?


 ちょっと待って。


 それって。

 それってもしかして。


 これで、うまくいくの?


 私は心の中でそわそわしていた。


 今まで私は、ただ流されていただけだった。

 でも自分で動けば、ちゃんと何かが変わるのかもしれない。


 王子がこちらへ歩み寄ってくる。


 筋肉の塊がゆっくり移動してくるだけで、妙な圧がある。

 大胸筋が歩行に合わせて微妙に揺れていて、少しだけ不安になった。


「エリザベス」


 王子の低い声が響く。


「君がこうしてマリアと話し合うとは、僕も予想外だった。しかし、これでようやく皆が安心するだろう」


 なんだか妙に感動的だった。


 これで、ついにループを抜け出せた?


 やった。

 これでもう追放も処刑も崖もない。


 平和。

 平和は最高。


「エリザベス、君はもう悪役令嬢ではない。これからは僕たちと――」


 そう言いかけた王子が、突然、私をぐいっと抱き寄せた。


「……え?」


 次の瞬間。


「っ、ちょっ、待って、苦しい!!」


 私の顔面が、王子の大胸筋にめり込んでいた。


「エリザベス……君をもう手放さない!」


 いや、比喩じゃなくて本当に離してほしい。


「王子様、息できない! 胸筋が硬い! というか厚い! 死ぬ!」


 王子は感極まったらしく、さらに腕に力を込めた。


 上腕二頭筋がもりっと盛り上がる。


 やめて。

 筋肉が会話に参加しないで。


「わかったから! 仲直りしたから! 平和ルートだから! だからもう少し緩めて! 本当に死んじゃう!!」


 ようやく王子は、少しだけ腕を緩めた。


 私はぜいぜい言いながら離れる。


「……危うく、筋肉に殺されるところだったわ……」


「すまない、つい」


「“つい”で人を圧死させないでくださる?」


 胸元を押さえながら息を整える。


 マジで筋肉圧死ルートに入ったのかと思った。


 ――ガシャン。


 その時だった。


 会場の天井から、不穏な音が響いた。


「……ん?」


 顔を上げる。


 巨大なシャンデリアが、ゆらりと揺れていた。


 そして、その落下予想地点には――


「マリア! そこ危ない!」


 だがマリアは、きょとんと首をかしげるだけだった。


 ギシ、ギシ、ギシ。


 嫌な音が大きくなる。


「え? 何かおっしゃいました? エリザベス様――」


「だぁぁぁあああ!!」


 私は反射的に走り出した。


 考えるより先に、マリアを突き飛ばす。


 バサッ。

 ゴロゴロゴロ。


 マリアはドレスを広げながら絨毯の上を転がっていった。


 そして次の瞬間――


 ドガァァァン!!


 巨大なシャンデリアが、私の上に落ちてきた。


「…………」


 痛い。


 いや、痛いというより、動きようがない。


 あと、きらきらしてる。

 最後まで豪華ね。


 薄れゆく意識の中で、ぼんやり思う。


(なんでよ……)


 和解した。

 悪役令嬢をやめた。

 王子ともちゃんと話した。

 マリアも助けた。


 なのに、結局こうなるの?


 うまくいったからこそ、こうなったの?


 その時、私は最後にアルベルトの方を見た気がした。


 彼は――


 驚いていなかった。


 周りは悲鳴を上げている。

 王子が何か叫んでいる。

 マリアがこちらへ駆け寄ろうとしている。


 でも。


 彼だけが、静かにこちらを見ていた。


(……あれ?)


 まるで。


 これが起きることを、知っていたみたいに。


 それだけが、小さな棘みたいに胸に残ったまま。


 私は、また意識を失った。

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