第二章 中宮の過去
「皇太后様、内侍の夕子様がお見えでございます」
皇太后付きの女官が告げた。
「お通しなさい」
ほどなくして、内侍の夕子が部屋へ入ってきた。
「失礼いたします」
夕子は皇太后の前に座り、丁寧に頭を下げた。
「皇太后様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう……」
「ご機嫌など、麗しくありません!」
皇太后が言葉を遮った。
夕子は顔を上げた。
どうやら今日は、いつにも増してご機嫌がよろしくないらしい。
「皇太后様、いかがなさいましたか?」
皇太后は返事の代わりに、一枚の書状を差し出した。
夕子はそれを受け取り、目を通した。
そこには、帝と中宮の関係について記されていた。
夕子は書状を読み終えると、静かに皇太后を見た。
「皇太后様。これは、どこからお手に入れになったのでございますか?」
その落ち着き払った様子が、皇太后の怒りにさらに火をつけた。
「内侍は知っていたのですか!」
「皇太后様。私は知っていたと申し上げたわけではございません。ただ、どこから来た文なのかとお尋ねしただけでございます」
「先ほど、菜々子付きの女御、華子がこっそり私のところへ持ってきたのですよ。ある方から内密に、皇太后様にお渡しするよう頼まれた、と」
「では、そのある方とは?」
「それが分からぬというのです。華子は宮中に上がって日も浅く、顔を見たことはあっても、名前までは存じ上げない方だったので、頼まれるまま預かったと申しておりました」
夕子は、わずかに眉を動かした。
「まあ、たいそう物騒なお話でございますこと。名前も分からぬ方から文を預かるなど、あってはならぬことです。それに、このような大切な文であれば、まず内侍である私に相談するべきでございました。皇太后様がお身内であるからと、直接お渡しするとは……。宮中のしきたりを、もう一度きちんと教えねばなりませんね」
夕子は書状を手に、深々と頭を下げた。
「皇太后様には、私の不行き届き、お詫び申し上げます。この書状は私がお預かりし、華子様に事の真相を厳しく問いただします。その折には、この文の内容も明らかになりましょう。よろしゅうございますね」
皇太后はしばらく黙っていた。
帝と中宮のこと。しかも、帝の身体に関わる問題である。
ここで騒ぎを大きくするのは本意ではなかった。
「内侍、この件はわが息子の不始末です。今回は私から帝に事の真相を確かめます。その後、そなたの力を借りる必要があれば、改めて話しましょう。もう下がってよい」
「かしこまりました」
夕子は書状を皇太后の前に戻し、静かに一礼すると部屋を辞した。
夕子がいなくなった部屋で、皇太后は大きく息を吐いた。
「ふう……」
一方、夕子は帰ると見せかけて、そのまま菜々子の住まう皇后御座所へと向かった。
先ほどの書状が、どこから来たものなのか。
そして、なぜ華子がそれを皇太后に届けたのか。
夕子には、どうにも腑に落ちないことがあった。
御座所に着くと、夕子は人目につかぬよう廊下の陰に身を寄せた。
やがて、女房たちの間に華子の姿を見つけた。
夕子は声をかけることなく、しばらくその様子を観察していた。
華子の顔立ち、女房たちとの接し方、そして何気ない仕草に至るまで。
(さて、どのような方なのでしょうね……)
夕子は静かに目を細めた。
皇太后は、中宮を呼び出していた。
例の書状に記された内容が真実なのか、本人の口から確かめるためである。
中宮が参上するまでの間、皇太后は一人、物思いにふけっていた。
「よりによって、親子で同じ女性を……。なんということなの」
皇太后は唇をかみしめた。
政事に関しては、なかなかの手腕を発揮する皇太后であったが、男女の情となると、どうしても冷静ではいられなくなる。
中宮をはじめ、先帝のもとに入内した幾人もの女御たちは、いずれも先帝に見初められた女性たちであった。
中でも中宮は、先帝と親子ほども年が離れていたにもかかわらず、先帝自らが大納言家に頼み込み、入内させた女性であった。
父である大納言は猛反対した。
まだ幼さの残る娘を、年の離れた帝のもとへ嫁がせることなど、到底承服できなかったのである。
しかし、帝の求めを拒むことはできなかった。大納言は、泣く泣く娘を入内させた。
そして、娘を手放した悲しみと、帝に逆らえなかった自分への悔しさから、中宮の住む御所には生涯一度も足を踏み入れることがなかった。
中宮は先帝の寵愛を受けた。
やがて子を身ごもったが、当時の中宮はまだ幼く、自分の身体に起きている変化を理解できていなかった。身体も十分に成熟しておらず、妊娠していることにも気づかぬまま、先帝との生活を続けていた。
そして、ある日、突然の出血とともに子を失った。
そのとき初めて、自分が子を身ごもっていたことを知らされたのである。
しかし、まだ少女であった中宮には、流産という出来事が何を意味するのかさえ、十分には理解できなかった。
その後、しばらくは静養の日々が続いた。
やがて身体が回復すると、再び先帝のお渡りが始まった。
そして、また子を身ごもった。
今度は先帝も中宮自身も、そのことに気づいていた。
本来ならば、懐妊した中宮は実家へ下がり、出産に備えるところであった。しかし、中宮には帰るべき実家がなかった。父の大納言は、娘を失った悲しみから、今もなお御所に足を踏み入れようとはしなかったのである。
そして何より、先帝自身が中宮を手放したくなかった。
結局、中宮は宮中に留まり、先帝のそばで出産の日を迎えた。
生まれたのが結衣姫であった。
先帝の喜びはひとしおだった。
ようやく授かった我が子を抱き、中宮とともに過ごす時間は、先帝にとって何にも代えがたいものだったのだろう。
しかし、その幸せな時間も長くは続かなかった。
ある夜、先帝は中宮とともに過ごしていた最中、突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
中宮は、あまりにも突然の出来事に、何が起きたのかさえ理解できなかった。
皇太后は、一人寝床で悔し涙に暮れていた。
そのとき、先帝崩御の知らせが届いた。
皇太后は慌てて涙を拭い、女房たちに気づかれぬよう身支度を整えた。顔を洗い、乱れた髪を直すと、先帝のもとへ向かった。
向かった先は中宮の御殿であった。
部屋に入ると、そこには乱れた髪のまま、茫然と座り込む中宮の姿があった。
そして、その傍らには、横たわったまま動かぬ先帝の姿があった。
皇太后は二人を見つめた。
不思議なことに、悲しみはなかった。
二人はここで毎夜を過ごしていたのだろう。そして先ほどまで・・・
そう思うと、胸の奥にあった何かが、すっと冷めていくような気がした。
長い間、自分を苦しめ続けた夫。
その夫が、もういない。
これでようやく解放される。
そう思った。
夫の死を悼む気持ちよりも、これからはあの女の寵愛を目の当たりにせずに済むという安堵の方が大きかった。
皇太后は、中宮に声をかけることもなく、ただ静かに先帝の亡骸を見つめていた。
皇太后は、中宮を一度にらみつけた。
(これで、あの女の顔を見ずに済む……)
心の中でそう思った。
長年、自分を苦しめてきた先帝は、もういない。
これでようやく、自分の人生を取り戻せる。そう思ったのである。
ところが、先帝は亡くなる前に、とんでもない遺言を残していた。
「中宮の落飾は許さぬ。これまでどおり宮中で過ごさせるように」
死してなお、中宮を手放そうとはしなかったのである。
もっとも、先帝には先帝なりの思いがあった。
自分の意向によって無理に入内させられ、父である大納言との縁まで絶たれてしまった中宮には、もはや帰るべき実家がない。
せめて自分が亡くなった後も、住む場所に困らぬよう、宮中で暮らせるようにしてやりたい。
それは先帝なりの思いやりだったのだろう。
しかし、皇太后には、そんな事情など受け入れられなかった。
夫を失った後も、先帝の偏愛に縛られ続けることになったのである。
そして今度は、その息子である帝までが、中宮に心を寄せているという。
皇太后は、再び唇をかみしめた。
「いったい、いつまで私を苦しめれば気が済むのです……」
誰に聞かせるでもなく、皇太后はつぶやいた。
皇太后は、誰に向けるでもなくつぶやいた。
今回の書状が事実なら、もはや黙って見過ごすわけにはいかない。
これまで幾度も堪えてきた。
だが、今度ばかりは違う。
皇太后は、静かに顔を上げた。
ほどなくして、中宮が参上した。
中宮はなぜ自分が呼びだされたかも知らず、皇太后の前に座り
「皇太后様、およびに従い参りました。」と丁寧に頭をさげた。
皇太后は母親の五十の賀の一件いらい、中宮との仲を改善しようとあゆみより
その後はいさかいもなく、むしろ楽しく過ごしていただけに、裏切られた思いであった。しかし皇太后は限りなく冷静にはなそうとした。
「中宮・・・この書状が私のもとに届きました・・」と紙を中宮にわたした。
中宮は書状に目を通すと顔が青ざめた。
「これはいったい・・だれが・・このようなことを・・」と絶句した。
「皇太后様……」
中宮は、静かに口を開いた。
「私、先帝がお亡くなりになった折、落飾を望みました。しかし、帝の遺言により、それも叶いませんでした。そして、結衣姫もまだ幼く、この子がもう少し大きくなるまではと、今日まで思いとどまってまいりました」
中宮は一度言葉を切り、皇太后を見つめた。
「ですが、結衣姫もここまで成長いたしました。そろそろ落飾をお許しいただき、未熟な私の過ちによって失ってしまった子の御霊を弔いたく存じます。どうか、お許しくださいませ」
「…………」
皇太后は何も答えず、中宮の様子を見つめていた。
「それから、この書状に記されているようなことは、決してございません。神仏に誓って申し上げます」
中宮の声に力がこもった。
「もし、皇太后様に信じていただけないのであれば、それは私のこれまでの振る舞いが、そのように思わせてしまったのでございましょう。ならば、私は落飾いたします。それによって、身の潔白を証明いたします!」
中宮は言葉を詰まらせながらも、皇太后をまっすぐに見つめた。
その目に、皇太后は思わずひるんだ。
中宮は続けた。
「私は幼きころ、無理やり両親から引き離され、親子ほども年の違う帝のもとへ入内いたしました。そして、まだ大人にもなっていない身体を帝に求められ、それが何を意味するのかも分からぬまま、周囲の大人たちから好奇の目を向けられ続けました」
中宮の声が震えた。
「そしてある日知らぬ間に子を身ごもっていたのです。それでも、何も知らない私は、毎日のように帝のお相手をしておりました。そして、ある夜、帝と過ごしている最中に流産したのです」
中宮はうつむいた。
「そのときは、自分に何が起きたのかも分かりませんでした。けれど、その後、周囲の女御たちの噂を耳にして、初めて自分がどれほど恐ろしいことをしてしまったのかを知ったのです」
一度、息を整える。
「そんなとき、母がそばにいてくれたなら、どれほどよかったでしょう。相談することも、泣きつくこともできたはずです。けれど、私には誰もおりませんでした。頼れる人も、相談できる人も、帝しかいなかったのです」
中宮の目には涙が浮かんでいた。
「その後も、私は毎日のように帝のお相手をさせられました……」
そして、ついに抑えていた思いがあふれた。
「皇太后様は、私が好きでそのようなお相手をしていたとお思いですか!」
中宮は涙を流しながら、皇太后を見つめた。
「初めての夜など、まるで獣に襲われるようで、怖くて、怖くて……。毎晩、またあの獣がやって来るのかと怯えておりました。ただ子供の身では、言われるままに従うしかなかったのです。それは、帝がお亡くなりになるその時まで変わりませんでした!」
中宮は袖で涙を拭った。
「私は、その恐ろしさから殿方そのものが怖くなってしまいました。おそらく、誰かを愛するということも、もうできなくなってしまったのでしょう……」
そして、最後にきっぱりと言った。
「ですから、帝と私が、そのような仲になることなど、誰が何と申されようと、絶対にございません」
皇太后は、しばらく言葉を失っていた。
中宮の口から語られた過去は、皇太后がこれまで知っていたものとは、あまりにも違っていた。
穏やかで、いつも静かに微笑んでいる中宮。その内側に、これほど深い孤独と悔しさが隠されていたとは思いもしなかった。
皇太后は初めて、中宮の苦しみを知った。
そして、同じ女として、初めて中宮に同情した。
しかし、だからといって、すべてを信じたわけではない。
皇太后は一度咳払いをすると、静かに口を開いた。
「中宮の気持ちは分かりました。落飾など、いつでもできます。もう少し、結衣姫が大人になるまで待ちなさい」
中宮は顔を上げた。
「それと、今回のことですが、おそらく若く未熟なわが子が、自分の思いを抑えられず、帝としてあるまじき振る舞いをしたのでしょう。本人も反省していることと思います。今後、帝がむやみに中宮に近づくことのないよう、私からも言い聞かせておきます」
皇太后はそこで少し言葉を切った。
「それから……これは私の取り越し苦労だとは分かっていますが、結衣姫も年頃になってまいりました。兄妹とはいえ、母親は違います。間違いが起きてからでは遅いのです」
中宮は黙って皇太后の言葉を聞いていた。
「今後、帝と会うときは、御簾越しにいたしましょう。その方が、中宮、あなたに余計な疑いの目が向けられることもなく、よろしいでしょう」
中宮は静かに頭を下げた。
「……分かりました」
それだけ答えると、それ以上は何も言わなかった。
皇太后もまた、それ以上は尋ねなかった。
二人の間には、まだ埋められない年月と感情が残されていた。
けれど、この日を境に、皇太后の中宮を見る目は、ほんの少しだけ変わったのである。
そしてしずかに皇太后の部屋を後にした。
皇太后は、一人、文机に手を置き、じっと考え込んでいた。
しばらくすると、顔を上げて言った。
「誰か、紙と墨を持ってまいりなさい」
侍女がすぐに用意を整え、文机の前に置いた。
皇太后は筆を取り、しばらく考えながら書状をしたためた。
書き終えると、書状を丁寧に包み、侍女に告げた。
「内侍を呼んでまいりなさい」
「かしこまりました」
侍女が下がってしばらくすると、内侍が参上した。
「皇太后様、お呼びでございましょうか」
皇太后は包んだ書状を差し出した。
「これを中宮の実家、大納言家へ届けてほしいのです。少々面倒をかけますが、大切な文です。内侍、そなた自ら出向いて届けるのですよ。よろしいですね」
「かしこまりました。確かにお届けいたします」
内侍は書状を受け取ると、すぐに大納言家へ向かった。
それからしばらくして、大納言家から迎えの者が参内した。
やがて、中宮と結衣姫は宮中を離れ、大納言家へと移ることになった。
その真相は、皇太后の胸の内にだけしまわれた。
もちろん、宮中では様々な噂が立った。
「中宮様が突然、大納言家へ戻られたそうよ」
「結衣姫様もご一緒だとか」
「いったい、何があったのでしょうね」
口さがない女御たちは、あれこれと噂を交わした。
しかし、皇太后は何も語らなかった。
中宮がなぜ宮中を離れたのか、どのような事情があったのか。その真相を生涯、誰にも明かすことはなかった。
それが、せめてもの中宮への思いやりだった。
中宮は、最後まで美しく、気高い女人であった。
皇太后は、その名誉を守ることを選んだのである。




