第一章 唐津の君の過去
「佐紀様、幸様がお越しです」
式部卿の屋敷の侍女が告げると、佐紀は嬉しそうに顔を上げた。
「お通しして!」
幸が佐紀の部屋に入ると、佐紀は自分の胸に赤子を抱き、乳を含ませているところだった。
幸は思わず顔を赤らめた。
「佐紀様、申し訳ございません」
そう言って部屋を出ようとすると、
「構いませんわ。どうぞ、お座りになって」
佐紀は微笑んで幸を招き入れた。
貴族の奥方には乳母をつける者も多いが、佐紀は自分の乳で育てると決めていた。
「佐紀様、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうかなさいました?」
「最近、私、陰陽師として貴族の方々の出産に立ち会うことが多くなりまして。そこで気がついたのですが、皆様、お子様をお産みになると、奥方様方が本当に美しくなられるのです。不思議で……。あんなにお辛そうでしたのに」
「まあ、幸様。面白いことをおっしゃいますね。確かに、そうかもしれませんわね。なぜでしょうね」
佐紀は赤子に乳を含ませながら、その顔を優しく見つめていた。
その姿が、幸にはまるで、赤子という羽衣に包まれた天女のように見えた。
すると、赤子が突然、
「ぶはっ!」
と乳を吐き出した。
佐紀の着物や首筋に乳が飛び散る。
それでも佐紀は笑っていた。
「あらあら、食いしん坊さん。もうお腹いっぱいなのですね」
そう言いながら、赤子の背中を優しく叩く。
すると、赤子はげっぷをしたかと思うと、また少し乳を吐き出した。
部屋には、乳の甘い匂いが広がった。
佐紀は少しも気にする様子もなく、赤子の顔を覗き込んでいる。
「さあ、もうお腹いっぱいですね。この子を寝かしつけてまいりますから、少しお待ちになっていただけますか?」
「はい」
佐紀は赤子を抱き直し、ゆっくりと部屋を出ていった。
幸はその後ろ姿を見送った。
佐紀はもともと才気にあふれ、美しく、気高い女性だった。しかし、母となった今、その美しさには、以前とは違う柔らかさが加わったように思えた。
幸には、それが不思議でならなかった。
なぜ、子を産み、育てることで、女性はこれほどまでに美しくなるのだろう。
人の心の動きなら、ある程度は読み取れる幸にも、その答えはわからなかった。
そこへ、
「幸殿、お越しでしたか」
唐津の君が部屋に入ってきた。
常尚と太宰府にいきそのまま唐津の屋敷で商をし、時々常尚の様子を佐紀に送っていたが、今回佐紀の出産のため落ち着くまで都にもどってきたのであった。常尚は太宰府で学んでいるのであった。
「はい。佐紀様とお話をしておりました」
「佐紀は?」
「ただいま、守様を寝かしつけに」
「ああ、そうでしたか。ははは、相当たくさん乳を吐いたようですね」
唐津の君は笑った。
「おわかりになるのですか?」
「この部屋の匂いでわかりますよ。佐紀は私の前でも守に乳を飲ませますからね。もう、乳の香りでだいたいわかるのですよ」
「……殿方の前で、その、お乳を飲ませるのですか?」
幸は、またも顔を赤らめた。
「そうか、幸殿は……」
そこまで言いかけて、唐津の君は口をつぐんだ。
しばらく、二人は庭の方を眺めていた。
唐津の君の脳裏には、一年前の宇治での出来事がよみがえっていた。
あの日、宇治川のほとりで、偶然出会った藍色の瞳の姫君。
あのような場所に、たった一人でいた女性。
「わが身のよりどころがない」
そうつぶやいた声が、今も耳に残っている。
唐津の君は、てっきり都の貴族の妾か、世間から身を隠しているどこぞの姫君なのだろうと思っていた。
その後、入道の北の方の五十の賀宴で、月明かりの下、再びその姿を目にした。
今にも消えてしまいそうな、儚げな佇まい。
それは、太陽のように明るく華やかな瑞穂に心を惹かれていた自分の気持ちさえ、一瞬冷めさせてしまうほど、人を寄せつけない不思議な雰囲気をまとっていた。
その後、彼女が都で評判の陰陽師だと知り、ますます興味を抱いた。
しかし、不思議なことに、幸に近づこうとすると、唐津の君は何とも言えない寂しさを覚えた。
その寂しさの正体がわからず、結局、手を差し伸べることもできなかった。
「……あの時、幸殿に」
唐津の君は、そこまで言って苦笑した。
あの時、自分は何をしようとしていたのだろう。
今となっては、懐かしい思い出である。
「幸殿」
唐津の君が静かに呼びかけた。
幸は、唐津の君に藍色の瞳を向けた。
「……幸殿。私は、一度結婚をしているのですよ」
「そうでしたか……」
幸は、それだけ答えた。
「ええ。唐津に住み始めた頃のことです。商いをしている大金持ちの家に、一人娘がおりましてね。平民の娘でしたが、都を離れてしまえば、宮中での身分など何の役にも立ちません」
唐津の君は、少し苦笑した。
「ですから、自分の持つ『宮家』という地位を利用して、食べていくために、身を売ったのです」
幸は黙って聞いていた。
「地方の商人にとって、都とのつながりは、商いを広げていくうえで、何としても欲しいものでした。それが、罪を背負って都を追われた者との縁であっても、構わなかったのでしょう。私もまた、都から逃れ、何としても生き延びたいと思っていました。必死だったのです」
唐津の君は、遠くを見るように目を細めた。
「最初の夜は、情けなくて涙がこぼれました。その後も、愛のない相手との……その、営みは、私にとって苦痛そのものでした。それでも、耐えて続けていたのです」
幸は、突然始まった唐津の君の告白に驚きながらも、ただ静かに耳を傾けていた。
「その甲斐あって、やがて娘とは正式に夫婦となり、父親にも認められました。商いのいろはも教えてもらい、少しずつ仕事を覚えていきました。
ただ……妻との暮らしには、どうにも馴染めませんでした。
妻から求められることさえ、私には苦痛に感じられたのです。仕事を口実に、夜遅くまで家に帰らないこともありました。
今思えば、いつも心のどこかで、妻と都の姫君を比べていたのでしょう。
都の姫君なら、こんな言葉遣いはしない。こんな振る舞いもしない。
そんなことばかり考え、妻を見下していたのです。
妻には何の落ち度もありませんでした。ただ、私が勝手に都の姫君の面影を追い続け、妻を一人の女性として見ようとしなかった。それだけのことだったのです。」
唐津の君は、苦笑いを浮かべた。
「ある日、妻の妊娠がわかりました。父親をはじめ、一家の喜びようは、それは大変なものでした。しかし、私はまったく嬉しくなかったのです」
その声が、少し沈んだ。
「愛してもいない女性の子。そして、金のために抱かれた自分。そのことばかりが頭に浮かんでしまいましてね……。そんな自分の気持ちが、天に伝わってしまったのでしょうか」
唐津の君は、しばらく言葉を止めた。
「難産でした。地方には都のように薬師もおらず、妻も子も、出産の折に亡くなってしまったのです……」
「唐津の君様……」
幸は、まっすぐに唐津の君を見つめた。
「その一家の落胆ぶりは、そばで見ている私にも耐え難いものでした。私は、それまで妻にしてきたことを振り返り、自分のおろかさが情けなくなりました。妻は、私を大切にしてくれていたのかもしれない。それなのに、私は自分のことばかり考えていたのです」
唐津の君は、小さく息をついた。
「それからは心を入れ替え、商人として生きていこうと決めました。
ところが、義父が流行り病で亡くなり、私が商いを引き継ぐことになったのです。慣れぬ仕事に、なかなか手こずりましたが、どうにか商いも軌道に乗り始め、ようやく心にも余裕が生まれてきました。
そんな折、入道が亡くなったとの噂を耳にしました。本当かどうか確かめたく、都へ戻る途中、宇治の寺に立ち寄ったのです。そこで旧知の友と語らい、その後、宇治川のほとりを歩いていたところ、あなたに出会いました。
そして、あのときは成り行きとはいえ、あなたを抱きしめてしまった。
その瞬間、なぜか、あなたによく似た面影の女性を思い出したのです。しかし、どうしてもその人が誰だったのか、思い出せずにいました。
ところが、あの事件の折、佐紀殿の弟君である常尚殿を救い出したとき、ようやく思い出したのです。
かつて出会った、一人の巫女のことを……。そして、その女性があなたの母上だったことも」
「えっ……! お母様……」
幸は、藍色の瞳で唐津の君を見つめた。
「そうです。あなたの母上です。あの方も、あなたと同じ藍色の瞳をしておられました」
「母をご存じなのですか? 私は母のことを知りません。母は私を産み、その場で息絶えたと聞いております……」
「そうでしたか……」
唐津の君の表情が、わずかに曇った。
「私も当時、宮中の権力争いに巻き込まれ、結局、その巫女とは二度と会うことができませんでした。後になって亡くなったと聞き、悔やんだものです。もう一度会って、話をしたかったと……」
幸はしばらく黙っていたが、やがて懐から小さな包みを取り出した。
「私も、母や父のことは何も聞かされておりません。ただ、このお守りだけは、肌身離さず持っております」
そう言って、翡翠の勾玉を見せた。
「……これは?」
唐津の君は勾玉を見つめた。
しかし、目を引かれたのは勾玉そのものではなかった。その結び紐に目を留めたのである。
(これは……。やはり、あの噂は本当だったのか……)
唐津の君は、胸の内でつぶやいた。
「幸殿……私のつまらぬ話で、長々とお耳を汚してしまいましたね。申し訳ありません。ただ、なぜかあなたには話しておきたかったのです。何も飾らぬ、ありのままの私という人間を」
少し間を置き、唐津の君は穏やかに続けた。
「今は佐紀と愛を育み、その結晶である守にも恵まれました。あの頃の私には、こんな日が訪れるとは想像もできませんでした。
どれほど後悔しても、過去に戻ることはできません。けれど、今は生きていてよかったと、心から思っているのですよ」
そう言って、唐津の君は微笑んだ。
幸は、しばらく何も言わなかった。
ただ、唐津の君の横顔を静かに見つめていた。
佐紀は、廊下でそっと後ずさりした。
今の話を、聞いてしまったのだ。
夫の過去。そして、それを幸に語る夫の姿。
かつて夫が心を寄せた女性が、幸の母親だったということも。
夫婦になったからといって、互いのすべてを知っているわけではない。自分にさえ話していない過去が、夫にはあったのだ。
佐紀は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
けれど、不思議と嫉妬はなかった。
それどころか、話を聞けば聞くほど、夫が愛おしくなっていった。
(私は、この人と夫婦になり、心豊かに暮らしている。でも、この人は、ここに至るまでにどれほどの苦しみを味わってきたのだろう)
生きるために、心ならずも屈辱を味わい、望まぬ暮らしを受け入れなければならなかった夫。
その傷は、今も完全には癒えていないのかもしれない。
(これからは、私がこの人の心を支えていきたい。過去を忘れさせることはできなくても、これから先の人生を、少しでも穏やかで幸せなものにしてあげたい)
佐紀は胸に手を添えた。
夫の過去を知ったことで、自分がこの人の妻である意味を、改めて見つけた気がした。
そして、静かに微笑むと、二人のいる部屋へ戻ることなく、その場を離れた。




