206話
ルエルとアーケインの戦いを横目に、玲奈は走った。ルエルが教えてくれた、この部屋の右奥にあるものを目指して。
(っ、あれが……!)
遠目に分かったのは、灰色の靄が煙っていることだけ。魔術がかかっているのだ。近づくほど、玲奈の体の中がビリビリと痺れる感覚が強くなる。玲奈の中を巡る血が、反応しているのだ。靄が隠していたものの姿が、見えてきた。
古い石が積み上がっていた。石には血脈のような筋が幾本も入っていて、ドクドクと鼓動している。
(これが祭壇……)
思っていたより、小さかった。そして、その中央に、横たわっているのが、哭剣。
玲奈は息を止めながら、それに手を伸ばした。
真後ろの人影に、玲奈は気づけなかった。声がしたのと同時、足に激痛が走った。
「アァッ……!」
玲奈は膝から崩れ落ちた。ふくらはぎから、血がとめどなく溢れる。
「お前を殺すには、手順を踏む必要がある。直ぐには殺せない……しかし、これで動けないな」
(まずい……)
冷や汗が止まらないのは、痛みのせいか、失敗したことへの絶望故だろうか。後ろにいた男――ロアンは、剣にべっとりとついた血を軽く払った。
(いつの間に)
ベルナたちはロアンの足止めに失敗したらしい。玲奈は絶望に目を染めた。玲奈が母から授かった逆廻を発動できる条件は、傷を負ってない事だ。脹脛からはもう、ドバドバと血が流れている。
それでも、今は賭けるしかない。玲奈は目を瞑って、祈った。
(お願い……!)
――足の痛みが、和らいだ。
もしかして、時を戻せたのかもしれない。期待して目を空けた。そこに映るのは、変わらず血のついた剣を握る、ロアンの姿だった。
(っ……やっぱり、戻らない……)
「その顔を見たかった……」
ロアンが、膝をついた。敬愛する姫に忠誠を誓う、騎士のように恭しく、玲奈の手を取った。
「ずっと、焦がれていた。お前の顔が絶望に染まる瞬間を……ようやく俺は、手に入れた……」
玲奈は恐怖に呑まれる中で、痛みが引いていることに気づいた。
(傷が塞がってる……?)
血と一緒に母の魔力は流れ出し、時を戻すことはできなかった。しかし、まだ残っていた魔力が、不十分ながら玲奈の体の時間だけ、巻き戻してくれたのだ。
(まだ、何とかなる……!)
もう、時は戻せない。でも、まだ動ける。そして、ロアンにはバレていない。ここから巻き返しできるチャンスはある。
「この剣で、お前を刺せば……」
ロアンは祭壇に横たわる哭剣をじっと見た。再び恐怖に身がよだつ。それを押し除けるように、声を張った。
「あなた、お母さんを好きだったんでしょ」
「…………」
「その人の子を守りたいと思わないの」
「守りたい? 笑わせる……」
ロアンは、自身の剣を玲奈の胸元に一層近づけた。
「思いあがるな……。お前を、メイリの子供だと思ったことなどない。お前は、あの人の命を奪った、滞在人。悪女の血を引いた女……」
言いながら、眼は憎しみを増していき、終に目じりから涙が流れた。母への想いが詰まった雫だった。そんな感傷に浸っている場合ではないが、玲奈はその涙に、一瞬目を奪われていた。
(この人……)
二人は見つめ合った。どのくらいの時間だったのか、分からない。玲奈は、指先の一つさえ、動かすことができなかった。
「殿下」
それを切り裂いたのは、男の声だった。第三者の登場に、玲奈はびくりと跳ね上がる。それは、先ほど一声だけ聞いた、あの不気味な男のものだった。
「随分な姿だな、アーケイン」
「……」
血に塗れ、今にも倒れそうなアーケインが、足を引きずりながら近づいてくる。
(っ、ルエルは……!)
戦闘で隆起した壁が目隠しになって、玲奈のところからはルエルの姿は見えなかった。
「状況が変わりました。すぐに、その娘を刺し殺すのです」
「……どういう事だ。止めていたのはお前だろう」
「神殿は壊滅状態です。一方、反政府の手は未だ緩まない。万全を期すには、体を清めて女神の血に極限まで近づけたかった。しかし、そうも言っていられまい。その娘を、いつまで捕えていられるか……」
「俺の軍を舐めているようだな。お前たちの手を借りずとも反乱者の制圧など容易い」
「……殿下」
「しかし、すぐに殺していいというなら、俺には僥倖」
玲奈はたまらず叫んだ。
「クーデターを企んでいるのは神殿よ! 私をその剣で殺したら、女神は滅びるんじゃない、復活する!」
「黙れ」
ロアンは玲奈の喉を締める。
「その声で、戯言を吐くな……!」
「ぅっ……!」
「殿下! 哭剣で殺さねば!」
「分かっている!」
ロアンの手が離れ、玲奈はごほごほと咳き込んだ。
「往生際の悪い女だ……。お前などが、メイリの子供な訳がない。お前は悪女の子だ! メイリの血など、お前に、流れていない……!」
ロアンの剣を持つ手は震え、呼吸が浅くなっていく。玲奈は、その隙を逃がさなかった。ずっと、玲奈を助けてくれた魔術を使った。
下からの突風に、ロアンは目を瞑った。血だらけのアーケインは、反応が遅れた。もはや、未来視ができる魔力も残っていなかった。玲奈はロアンのひざ下から抜け出すことに成功した。
(剣は取れなかった……!)
哭剣は祭壇に置かれたままだ。あの剣が無ければ、玲奈の目的は達成できない。しかし、今は逃げるしかない。その先のことなど考えてられない。とにかく、命を繋ぐために走った。
(いやだ、いや、死にたくない……!)
今までで一番の命の窮地に立って、生への執着をはっきりと感じた。




