196話
アデルが玲奈の母である、メイリに初めて会ったのは、二歳の頃だった。はっきり覚えていないが、それでも、兄がとても嬉しそうにメイリと手を繋いでいた光景は、しっかりと覚えていた。
ロアンは魔術の訓練が好きで好きでたまらないようだった。メイリに会えるからだ。訓練の日は朝から、何なら前の日の晩からずっとそわそわしていた。そして、彼女がやって来ると、一目散に飛びついていた。
「メイリ! 遅い!」
「ふふ、すみません。おはようございます」
「おはよ!」
まだ物心ついたばかりの子供が魔術の訓練をするのは、酷なことである。しかし、メイリが教師とあっては、ロアンはそれを一欠けらも苦だと思わなかったようだ。上手くやれば、メイリが褒めてくれるからだ。メイリが帰っても、ロアンはいつも一人で練習に励んでいた。時には、幼い体は耐えきれず、親に隠れて痛みに悶え、血反吐を吐いていた。そんな情熱は到底もてないアデルとの力量差は、一歳という年齢差以上に、どんどんついていった。
そんな優秀な兄を見て、父も母も、それはもう持て囃した。
「すごいなロアンは。まだ五つだというのに、こんなに難しい術を会得してしまうとは」
「ええ。アデルも、お兄さんを見習うのよ」
アデルの人格形成の基には、子供のころの兄への劣等感がある。兄には敵わないという思いが、無力感を生んでいた。当の兄は、両親の賞賛など歯牙にもかけず、一人の女性しか見ていないのだから、なおさらやりきれなかった。
兄にとっての最初の転機は、彼が六つのとき。メイリが、結婚したのだ。相手は、冴えない導士だった。メイリは優秀なのに、何でその男を選んだのか、全く分からない。兄は暫く落ち込んでいた。ロアンがメイリを姉のように慕っていると思っていた両親は、幼いながらに恋心を抱いていたとそこで知ったが、子供の淡い初恋だと、微笑ましく感じているようだった。アデルは分かっていた。あれは、そんな生暖かい感情ではない。ロアンが魔術を特訓する風景を思い出した。あんな、自分の身を傷つけるような行為は、もっとずっと、強い衝動に身を燃やさなければ、できないだろう。
少し経って、メイリが妊娠した。ロアンは、自分の気持ちに整理をつけたようだった。また、メイリと楽し気に話すようになっていた。何を話していたのかは知らないが、遠巻きに見るロアンの表情は、彼女への愛で溢れていた。とても愛おしそうに、メイリの膨らんだ腹を優しく撫でていた。
このころ、一度、兄に聞いたことがある。
「メイリが好きだったんじゃないの?」
「なんだ急に」
「だって、兄ちゃん最近、楽しそう。メイリが好きなら、赤ちゃん生まれてくるの、楽しみにしてるの変じゃん」
「お前はガキだな」
自分だってまだ六つで、一つしか違わない癖に、ロアンはやれやれとため息をついた。
「メイリが幸せなら何だっていいんだよ」
「変なの」
「そんなことより、お前はもっと魔術をちゃんと身に着けろ。そんなんじゃ、メイリの赤ちゃんに笑われるぞ」
「俺にそんな失礼なことしたら、泣かしてやるさ」
「その時は、俺がお前を懲らしめるぞ」
「……なんだよ! 兄ちゃんのばか!」
メイリの子供が生まれる前から、ロアンはすっかりその子の騎士気取りだった。夕食の場でも、メイリの子供は自分が守ると、しょっちゅう豪語するので、アデルは辟易していた。
でも、心の中では、失恋を経てなお、深く他人を想い愛へと昇華した兄へ、より一層の羨望を抱えていた。
二つ目の転機――それは、メイリの子が、宣告を受けたことだった。アデルもロアンも、詳しくは知らされなかった。ただ、メイリの姿をぱったりと見なくなって、ロアンは酷く心配していた。体調が悪いのか。お腹の子に何かあったのか。頻りに両親に聞いていた。
「二人に話があります」
ロアンとアデルが母に呼び出されたのは、暫く後のことだ。
「先日、メイリは無事に出産しました」
「本当!? 元気なの!? 男の子? 女の子!?」
ロアンが身を乗り出して母に詰め寄った。母は沈痛な面持ちで、続けた。
「女の子ですよ。しかし、元気とは言い難いでしょう」
「……なんかあったの」
「メイリの子に、宣告が下されました」
「宣告って……どんな」
聞き返したのはアデルだ。二人は、貴類が下す宣告について、もう学んでいた。国家の成り立ち、神殿と王家の結びつき。母の表情。結び付ければ、それが良いお告げではないと悟った。
「再び、ラプラトの先祖返りが現れた。それが、メイリの子だと」
「うそだ!」
母はロアンの悲鳴を無視して、続けた。
「メイリの娘は、成年を迎えた際に、死刑処分が決定しました」
二人は、息を呑んだ。
「だめだ!! やめて!」
「ロアン、気持ちはよく分かります」
「認めない! 父さんに話に行く!」
「ロアン!」
母は、暴れる兄を力づくで抑え込もうとしたが、兄の精一杯の抵抗に引っぺがされた。
「ロアン!」
ロアンは走って、父へ直談判しに行った。アデルも気になって、兄の後を追った。父の書斎の中から、ロアンの叫びが聞こえてくるのを、部屋の外でじっと聞いていた。数十分して、部屋が開いた。
「兄ちゃ……」
「退け」
兄の聞いたことのない冷たい声に、アデルはびっくりして後ずさった。ロアンは、失意に瞳を染めていた。固まっていると、後ろから父に肩を叩かれて、振り返る。
「父さん……」
「部屋に行きなさい」
「本当に、赤ちゃんは死刑になっちゃうの」
父は、従わない息子にため息をついたが、腰を落として視線を合わせた。その顔は、かなり疲れているようだった。
「成年になってからだ。それまでは、異界の地にて平穏な生活を送れる」
「異界? メイリも行っちゃうの?」
「いいや」
「そんなの……メイリも、赤ちゃんもかわいそう」
「……ああ。そうだな」
ロアンは翌日、メイリに会いに行ったようだった。アデルは行く気になれなかったので、どんな話をしたかは分からない。
一週間後、またも酷い知らせが来た。メイリが、危篤になったとのことだった。出産のダメージが癒えていない中、精神に負荷がかかり、魔力の放出が止まらないという。
今度ばかりは、アデルも母と一緒に見舞いに行った。ロアンはというと、聞いた瞬間に、城を飛び出したので、もう着いているはずだ。
「悲しいことがあると、人は死んじゃうの?」
アデルは母に聞いた。
「悲しいだけでは死にません。でも、彼女の体は子を産んだばかりで、ボロボロだった。そんな状態で、激しく抗議活動をして、挙句、我が子を手放してしまった。……もう、治癒機能が働かないようです」
「……ふうん」
メイリの実家につくと、メイリの父親が出迎え、中に入れてもらった。弱弱しく横たわるメイリの傍らに、兄が背中を丸めて震えていた。ほかには誰もいない。夫は、妻の死の間際だというのに、ここには滞在していないのだろうか。
辺りを見回しながらベッドへ近づくと、ロアンがメイリの手を、ぎゅっと小さな両手で握りこんでいるのが分かった。アデルも母と一緒にメイリに近寄るも、メイリは目を瞑ったまま、微動だにしなかった。彼女はもう死んでいるのではないかと薄っすら思ったが、到底口には出せなかった。
誰も喋らないまま、時間だけが進む。十分程経って、母はロアンを促した。
「あまり長居しても、メイリの体に良くありません」
ロアンは返事しなかったが、顔を上げると、メイリの手を放して、母の後について行った。そのロアンの表情に、アデルはまたも、びっくりして後ずさった。
その瞳は、深い恨みの色を灯していた。




