188話
サディへの接触を図っている間、玲奈はルエルに再び、祭壇へと呼び出された。今度は一人で、最下層まで下っていく。
「ルエルさん?」
しかし、奥まで進んでも、ルエルの姿は無かった。どうしよう、と佇んでいると、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「――ッ!?」
バッと振り返るのと、ぎらりと輝く金属の光沢が玲奈の頬をかすめるのが見えたのは同時だった。
「なっ……」
玲奈の頬から、血がつ、と滴る。
「っ、どうして」
「悪いね」
ルエルは微笑みを携えて、再びナイフを手に突進してきた。玲奈は目をぎゅっと瞑り、時を戻した――
「っ!?」
が、目を開けた先では、ルエルがナイフを手に突進してきていた。
(なんで!)
戻ったのは、ほんの一秒足らず。戸惑っている内に、再びナイフが横っ面を突っ切る感覚がした。
(全然戻ってない! どうして!)
もう一回、逆廻を発動した。しかし、目を閉じて一瞬のブラックアウトの後、映った光景は、ほとんど同じ。一秒も戻っていなかった。
(なんで。まさか魔力が減ってるの?)
「命の危機を前に直立不動とは感心しないな」
「っ」
逆廻は、無限に使えるわけではない。魔力が減っていくことを感じられる筈だと、記憶で母は言っていた。玲奈は、使えなくなる予感を感じられなかった。なにか、兆候があったのだろうか。分からないが、今はここをどうにか切り抜けるほかない。首筋にも、うっすらと切り傷が刻まれた。痛みを感じるほどではない。
肌身離さず持っていた魔石を砕いた。
(戦っても勝ち目はない、逃げるしか)
足に魔力を最大限集中させて、一気に放出し、出口へ駆けるも、ルエルは容易く追いつき、わき腹に空砲をくらった。
「うっ……!」
ズサ、と冷たい床に頭から倒れこむ。背中にゴツン、と固いものが当たった。祭壇の棺だ。痛みに耐えながら体を起こせば、ルエルがナイフを手に、コツコツと足音を響かせた。立ち上がろうとすると、透明な杭が飛んできて、玲奈の手足を棺に磔にする。
「いやっ……」
必死にもがくも、杭はびくともしなかった。その間にも、ルエルが距離を詰めてくる。ルエルの表情は、感情が読めない。
(怖い――)
玲奈の心臓が、恐怖に早鐘を打つ。もう一度、逆廻をしようと試みるも、やっぱり何も変わらない。ナイフが近づいてくる。
(駄目だ、何もできない、もう駄目なの、死んじゃう、やだ)
パニック状態で、玲奈の恐怖がピークに達したとき――
棺に埋め込まれた水晶が、強い光を発した。
* * *
玲奈の視界は、真っ暗になった。音も聞こえない。ルエルはどこに行ったのだろう。これはルエルの使った魔術だろうか。玲奈はもう、死んでしまったのだろうか。無音の暗闇に、体がぽっかりと浮いていた。
やがて、誰かの荒い呼吸が聞こえた。走っているようだ。光も見えてきた。光は段々大きくなっていって、視界が白一色になった――
* * *
男が走っている。少年と青年の狭間といった年頃だ。茶色の髪を振って、懸命に逃げていた。
彼は、幼いころに、予言を受けた。自分には、破滅の大悪女・ラプラトの血が濃く出ているという。そして、その血が魂と合わされば、ラプラトは現世に復活するという――。
ラプラトの復活を試みる勢力に身柄を狙われたため、齢七つにして、父親は彼を異界の地へ送り込み、逃がすことを決めた。出発の前に、父親は彼を呼び出した。
「発つ前に、いくつか伝えておく」
「うん」
「まず、異界への転移についてだ。行き来を可能にするのは、十月に一度、神星が重なる力を利用する。しかし、異界から戻ってくるには莫大な命力がいる。十年の蓄えが必要だ」
「俺が戻ってくるのは、早くても十年後ってこと?」
「そうだ。戻るにはこちらが呼び寄せるしか手段がない。目印を体に付け、それを依代にする」
彼は頷いた。向こうで問題が起きても、自分の意思で戻ることはできない。父が呼び戻す日を待つしかない。
「それと、これを説明しておく」
布に恭しく包まれた中から出てきたのは、鞘だった。柄の部分は星空のように煌めき、先端部分は実体がない。粒子が浮かんで、惑星の自転のように回っていた。
「これは?」
「血禍の鞘だ。兆し子とラプラトの血の繋がりを断つもの。これで、ラプラトの復活を防げる。貴類からもたらされたものだ」
「貴類から?」
それは、父親が誰にも言わず、自分の心のうちにのみ留めておいた秘密だった。この秘具を受け取ったのは半年前。すでに、弟の裏切りは判明していた。
「じゃあ、すぐそれを使えば、問題は終わるんじゃないの」
「そうもいかない。第一に、これを使うには、お前は幼すぎる。成年を迎えなければ、血禍の鞘の負荷に耐えられない。第二に、鞘に合わせて、哭剣が要る。王家が簡単に渡してはくれまい。お前が向こうに行っている間に、それを我らの手中に納めねばならん」
弟は、王家に神殿がクーデターを企んでいると、偽の情報を流している。まだ王家はどちらを信頼するのか見極めている最中といったところだが、情勢は厳しかった。予言を受けてからというもの、父に厳しく育てられたおかげで、彼は幼いながらにとても賢く、すぐに状況を理解した。
「それ、どうやって使うの?」
「まず、哭剣で肌を切りつけ、兆し子の血を流す」
「え……それをしたら、女神は蘇ってしまうんでしょ」
「そうだ。強大な力で、剣から押し出でんとするだろう。それを抑え込むには、お前は幼すぎる」
「……大きくなれば、抑え込めるの?」
「そこで必要なのが、この鞘だ」
父親は鞘をかちりと鳴らした。
「貴類が言うには、哭剣で流した血に呼応し、お前の血の中から女神の紋様が現れるという。それが、核だ。女神の力は凄まじく、お前を乗っ取ろうとする。鞘が無ければ、そのまま女神に呑まれてしまうだろう。核を哭剣で壊し、この鞘に剣を納める。鞘の粒子が血を吸い込めば、血分は完了する」
「分かった」
話は終わったかと父を見返すと、父の顔は、険しく、そして複雑そうに歪んでいた。
「父さん?」
「……まだ、伝えることがある。この鞘の、もう一つの使い方だ」
「もう一つ?」
「血分は、復活を遅らせるに過ぎない。またいずれ、兆し子が産まれ、同じことが起こる。ただし、蘇った女神を前にして、鞘が示す刻字を読み上げれば、神性が崩壊し、女神は永遠に消滅するという……ただし」
彼は、父の言葉をじっと待った。
「ただし、崩壊する時、兆し子もまた、その影響を受ける。避けることはできない」
「……死ぬってこと」
父は僅かに、頷いた。
「分かったよ、父さん」
そして、彼は異界へ送り込まれた。




