147話
それは、真夜中に起こった。
「陛下! お休みのところ申し訳ありません、緊急事態です!」
「なんだ……?」
九垓は部下の焦りの滲んだ声に、目を半分以上閉じたまま、応えた。
「泰斗様が川に落ちて重傷です」
その言葉に、すっと頭が覚醒した。
「っ、すぐ行く。今は」
「医務室に!」
「分かった」
杷南の声に飛び起きる。体はまだ怠さを訴えているが、そんなことを気に留められる場合ではなかった。向かう道すがら、杷南は状況説明を続けた。
「現場には美音様が居合わせていたようです。今はお部屋に」
「美音が? ……不味いな」
九垓は、状況を即座に把握した。
泰斗というのは、九垓の姉である舞連の次男だ。舞連には二人夫がいる。一番目の英慧との間の息子が、長男・冠夜。今年で十三歳になる。二番目の夫、華曜との間にいるのが、冠夜の一歳下の泰斗だ。
「華曜様は、美音様との不倫疑惑がもたれた後、舞連様とは不仲が続いております。その上、泰斗様は美音様に憧れていると専らの噂でした」
「そして、美音との逢い引き中に事故……姉上は怒り心頭だろう」
「並々ならぬ思いがあるのは自然なことかと。そしてこの状況に、雫那様が口を出してこないとは思えません」
現在、美音と絶賛喧嘩中なのが雫那だ。夫に手を出されたと、美音を宮から追い出せと九垓に直訴したのは記憶に新しい。
「姉上は」
「泰斗様に付き添われてます。雫那様にはお伝えしてません」
「それでいい。明日になっても暫く伏せておけ」
「そう長くは誤魔化せませんが」
「分かってる」
宮中のざわめきにいつまでも気づかない訳はない。ただ、本件には雫那は直接関係なく、なるべく遠ざけておきたい。当事者が多くなるほど、問題の解決は遠ざかる。
医務室に着くと、治療の最中だった。癒符師と呼ばれる医療従事者が三人、泰斗を囲んで治癒魔術を施している。まだ少年と言っていい体が、細く小さく見えて、九垓は眉をひそめた。足元では舞連が祈りを捧げていた。
「状態は」
「運ばれてきた時は低体温で一時危なかったですが、持ち直しました。頭を打っているようで、流血が見られます。止血しましたが、脳機能の異常を調べてる所です」
「分かった」
(最悪の状況は避けられたか)
九垓はふう、と重い息を吐く。そして舞連の背を擦った。
「姉上、命の危機はひとまず去ったようです」
「ええ……」
「そこに座っていると体を痛めますよ」
「目覚めるまで、ここにいます」
九垓は説得を諦め、医務官の一人に毛布を持ってくるように伝える。把南と共に部屋を出て、次の行き先は、美音の所だ。
「癒符師が在中の日だったのは幸いだったな」
「本当に。不在の日であったらと思うと、背筋が冷たくなります」
導士の中でも、癒符師の適性がある者は少ない。癒符師は需要に対し、いつも不足している。王宮の医務室にいつも癒符師が控えているわけではない。一月のうち、五日程は不在の日があった。
九垓は美音の部屋につくと、ノックもそこそこに扉を開けた。
「美音」
「兄様……」
「何があったか説明できるか」
美音は頷いた。
「二人で川の畔を歩いてたんです。そうしたら、急に泰斗の足場に穴が空いて、あっと思った時は、あの子は既に川の中に身を落としていました」
「その後は?」
「護衛の者に、すぐ連絡しました」
「……そもそも、お前は監視がついていただろう。泰斗に会いに行った時はどうした」
「撒きました。鬱陶しくて」
(リュウを外したのがここで効くか……)
九垓は内心、頭を抱えた。実際に、ズキズキと痛みを感じ出していた。美音は、幼い頃から魔術の造詣が深く、九垓には及ばないものの、舞連や雫那とは比べ物にならない腕がある。急ごしらえの監視では意味をなさなかった。
「なぜこんな夜中に泰斗と会っていた」
「数日前、二人で話したいと声かけられたんです」
「こんな夜中になったのは」
「日中に私たちが二人になれるところなんてありません」
「それはそうだな。昨晩にしたのは」
「監視の手が一番薄いと予想して」
「分かった。夜中に川の畔に行く必要はあったか? 暗がりの中では危険だろう」
「宮から近く、灯りがなくて、門番の目もない所となると、一番良かったんです」
美音の説明は淀みなく、九垓は納得した。が、問題は、そう思わない者たちがいるということだ。九垓は眉間の皺を深く刻みつけたまま、「今日は部屋から出るなよ」と言って、美音の所を後にした。
「今日はお休みになられては。泰斗様の容体が悪化するようでしたら、すぐに」
「ああ……」
明日からの事を思い、憂鬱になりながら、九垓は寝室へ戻った。




