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第5話:彼女の内海に漂う

 落下。あるいは浮遊感。

 闇に滑り落ちるような。

 緩やかに視界が開けてくる。

 明確な地面があるわけではないが、そうあれかしと考えれば着地ができる。


 デバッグ用のとして用意されていた開発陣の慈悲。

 心髄外科の効力の一端が、対象者の心の中へと入り込むものであった。


 見えている風景は先程のものとはまるで違うものだった。

 ここは心の内海とも呼ばれる場所。

 曇天。雲の代わりに広がっているのは鎖だった。

 木々の代わりに地より伸びるのは何かを掴もうとする手。

 下生えの代わりに広がるのはテストの答案やレポートたち。

 ここは外の世界とは違う。草紋 詩織という少女の、心の深いところであった。


 いかに彼女が親や与えられた役割に縛られているかがわかる。


 最初は愛情であったのかもしれない。やがてそれが行きすぎただけなのかもしれない。

 あるいは最初から子を最上のアクセサリにするために全力で磨く職人として動いていたのかもしれない。

 全人生を賭けたサディスティックな行いかもしれず、何も考えずに日常の沿線上に彼女を拘束していただけなのかもしれない。


 真実はわかりはしない。

 ただ、明確に存在する事実として、彼女は縛られることに苦しんでいた。


 進む。

 地より生える腕に指をさされ、天を覆う鎖が降りて縛られているものがあった。

 詩織だった。


 近付くものを見上げる。


「誰……?」


 うつろな瞳。


「オレが誰の何様なんてどうでもいいさ」


 この深層心理めいた世界に降り立つような描写は本来の心髄外科にはない。

 ある程度のパラメータを高めてから使用を選択すればあっさりと目的を達成できるもの。

 だが、ここは現実であり、現実とは結果事象を得るためには始点が必要であり、経過も必要なもの。


 ここに既存の攻略法など存在しない。


「詩織。ここは居心地がいいか?」


 小さくかぶりを振っている。


「どうして、私だけ縛られているの?」

「さあな」


 冷たい態度に彼女は少しだけ恨めしい表情を浮かべた。

 地より降りる鎖の量が増えた。

 手が蠢く。答案がざらざらと音を鳴らしながら風に舞う。


「あと少しで凌辱されるところだったな」

「……っ」

「何も得ず、自由を望みながらも求めはせず、汚され、」

「やめて!!」


 耳を塞ごうとする、けれど、塞ぎきりはしなかった。

 冷たく、手ひどい言葉だとしても一人で閉じ籠り切ることができない彼女の悲しさがあった。


「オレはお前を救ってなんてやれない。でも」


 手を伸ばす。


「こうすることはできる。オレの手を掴むなら、立つ手伝いはしてやれる。けれど選ぶのはお前だ。草紋 詩織」

「あ……わた、く、し……」


 手を伸ばし、しかし戻す。彼女の意思だけではない。

 木々が、鎖が彼女の手を伸ばさせまいとしていた。


 最後の一押しがどうしても必要なら、躊躇いは必要ない。


「来い、詩織」


 命令。

 救うことなどできずとも、冷たく命令することならできる。

 効率とはしばしば人の心を打ち捨てることがある。


「は、い」


 彼女がおずおずと手を伸ばし、指がオレの掌に触れた。

 そこに意志があった。

 であれば、それで十分だった。

 オレは彼女の指をなぞり、手を撫で、手首を掴む。ぐいと引っ張り上げる。

 彼女の体は軽々と持ち上がり、オレに抱き抱えられる。


「っ!!」


 驚きの表情を上げる詩織。

 抱き抱え支える片腕。

 もう片腕は、今、どうやって心髄外科を扱うかの決定的な部分がわかった。

 彼女の戒めが消えた今、この世界を切除できると魂が認識している。

 あとは、使用するだけだ。何度も何度もやっていた行いのように、それを命ずる。


「断ち切れろッ」


 指先が彼女の背後に伸びていた戒めたちに向けられ、言葉と共に心髄外科が発動する。

 それらは一瞬でメスで切り裂かれたようになる。掌を上に向ければ切られたそれらが自ら集い、紙片へと変わった。

 それはオレの体の中に溶け込むようにして消える。


 世界を覆っていたものは消え、そして──彼女の世界には晴天と、答案ではなく柔らかな鮮緑の下生えが広がる美しいものへと変わっていく。

 もはや他人の心に土足で踏み込む理由もなくなる。オレは緩やかに心の世界から消えていく。

 抱きしめられていた感覚が消えるからか、少し寂しそうな表情を見せて詩織はオレを見やる。


「お名前を伺ってもよろしいですか?」

「鬼伏。鬼伏 直衛」


 彼女は小さくオレの名前を繰り返した。


「また、お会いできますか?」


 そう言ってから、彼女は確かな心を以てかぶりを振るう。

 許可を得て行うのでは、それでは今までの自分と同じだと言うように。


「必ず、伺います」

「ああ。待ってる」

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