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第八話 第五章 対峙、そして

その建物は、古かった。

 都内の住宅街の一角に、ひっそりと建っていた。表札には「政策研究所」とあった。蔦が外壁を這っていて、窓は少なかった。派手さは何もなかった。でもそれが、来訪者を拒んでいるような圧すら感じさせ、かえって不気味だった。

 五人で来た。

 俺がアポを取った。PASSの代表として面会を申し込む、という形だった。向こうはあっさり承諾した。俺は少し拍子抜けした。その様子をみんなに報告すると、礼は「向こうが僕たちのことを少しナメてる証拠だと思う」と言った。それを聞いて、逆に背筋が伸びた。

 入口に男が一人立っていた。スーツ姿で、体格がよかった。俺たちを見て、何も言わずに中に通した。値踏みするような目だったが、警戒というより——侮蔑に近かった。

 建物の中は薄暗かった。廊下が長かった。空調は効いていたが、そのひんやりとした空気すら、無機質な空間を助長していた。

 天井や壁の所々にあるシミや汚れにさえ、常に誰かに見られているような錯覚を覚えた。

みんな無言で、足音だけが響いた。


 通されたのは、広くない部屋だった。

入口のドアを開けた瞬間、また空気が変わった。

 男は、すでにそこにいた。

 テーブルが一つ。椅子がいくつか。窓は一つで、カーテンが引いてあった。


 男は椅子に座って、テーブルの上で手を組んでいた。杖は脇に立てかけてあった。俺たちが入ってきても、立ち上がらなかった。

 「まあ、座りなさい」

 前と同じ言葉だった。でも今日は、座らなかった。

 男が初めて表情を動かした。わずかだったが、意外とそうだった。

 「結構です」と俺は言った。「立ったまま話します」

 男はしばらく俺を見た。それから小さく笑った。

 「そうか。好きにしなさい」

 「今日来たのは、お願いをするためじゃありません」

 俺の声は、思ったより落ち着いていた。

 「この制度を終わらせるために来ました」

 男は何も言わなかった。手を組んだまま、俺を見ていた。前のときと同じ目だった。遠い目だった。俺たちが見えているのかどうか、わからないくらい遠い目だった。

 「子どもが」と男は言った。静かな声だった。「何を持ってきた」

 「まず、彼女の話を聞いてください」

 俺は星良を見た。

 星良が一歩前に出た。

 男が星良を見た。一瞬、何かが男の目を走った。認識、だったかもしれない。

 「私は市来星良といいます」

 星良の声は静かだった。でも揺れていなかった。

 「あなたの組織に、いました。どのくらいの期間かは、はっきり覚えていません。でも確かにいました。自分の足で歩いて、自分の声で話して、自分の手で動いていた。でも、自分じゃなかった」

 男は何も言わなかった。

 「記憶は断片的です。全部は思い出せません。でも覚えていることがあります。私は何度か、この建物に来ていました。あなたの顔も、覚えています」

 星良は男を真っ直ぐ見ていた。

 「私が何をさせられていたか。どういう状態だったか。それを、今日ここで証言します。あなたの目の前で」

 男がわずかに体を動かした。

 「自分の意思で動いているつもりでした。でもその意思は、歪められていたと思います。私はあなたたちの組織に都合のいい形に、作り変えられていた。おそらく洗脳か何かされていたのかもしれません。それが、この制度の……いや、組織のやり方だった」

 部屋が静かだった。

 ミンミンさんが隣でメモを取っていた。手は震えていなかった。

 星良が続けた。

 「古谷先生のことも、覚えています。先生が私に何かを伝えようとしていた。でも私はその時、それを——」

 星良の声が一瞬止まった。

 「——正しく受け取れなかった。先生が死んだのは、私のせいじゃないとみんなは言う。でも私は、あの場所にいた。それだけは、事実です」

 誰も何も言わなかった。

 男だけが、静かに星良を見ていた。その目が、初めて遠くなかった。

「私は、先日有識者会議に出席した時、確信しました。あなたが、全てを操作していることを」

 わずかに、男の眉が動いた。


 「次は、これを見てください」

 礼が前に出た。タブレットを取り出して、テーブルの上に置いた。

 「ダミー会社を通じた出資記録です。制度に関連する民間企業——ガードマン派遣会社、専用アプリの開発会社、執行に関わる医療機関。全部に、あなたの資金が流れています。制度が使われるたびに、あなたに金が入る仕組みが、設計段階から埋め込まれていた」

 男は画面を見なかった。

 「それから、これ」と礼は続けた。「古谷将広先生のメモです。先生は断片的にしか気づいていなかった。でも残したメモを全部繋げると、この構造が浮かび上がる。先生は無意識に、あなたへの道を残していた」

 男がゆっくり口を開いた。

 「それが、何だというんだ」

 低い声だった。動じていない声だった。

 「公開します」と礼は言った。「今すぐ、ここで」

 「公開したところで」と男は言った。「誰が信じる。子どもたちが集めた、出所の怪しいデータを」

 「信じます」とミンミンさんが言った。

 男がミンミンさんを見た。

 「私たちのSNSのフォロワーは今、五十万人を超えています。メディアからの取材も来ています。地方紙だけじゃない、全国紙も、テレビも。あなたが今ここで私たちを追い返しても、このデータはもう、止められない場所に出ていきます」

 男はミンミンさんをしばらく見ていた。

 それから、初めて笑った。

 声を出して笑った。

 「面白い子どもたちだ」と男は言った。「だが、勘違いをしている」

 男がゆっくり立ち上がった。杖を手に取った。

 「この制度は、私が作った。この国の安全のために、私が設計した。多少の歪みは、必要なコストだ。それを理解できないのは、お前たちがまだ子どもだからだ」

 暖人は黙って聞いた。

 「そして」と男は続けた。「この制度には、まだ使い道がある」

 男の目が、俺を見た。

 「お前たちを、指定することもできる」

 部屋の空気が変わった。

 拓海さんの体が、わずかに固まった。ミンミンさんが息を呑んだ。星良が俺の隣で静止した。

 男は静かだった。怒鳴っていなかった。それがかえって、重かった。

 「この建物から出られなくすることもできる。お前たちの家族に、何かが起きることもある。それが嫌なら、今すぐそのデータを消して、家に帰りなさい」

 俺は男を見た。

「じゃあ、俺だってあなたを指定することもできる。」

俺は咄嗟に反論した。

「はっはっはっ!」

男は初めて、大きく笑った。

「この制度を止めに来たのではないのか?その君たちが、この制度を利用するのか。」

男は続けた。

「やはり、この制度は理にかなっている。奇しくもそれを、君たちが今証明したではないか」

俺は、しまった、と思った。

拓海さんが声をあげた。

「違う。この制度など無くても、人は正しい道を歩ける。間違った人は、他の法律が裁く。人は人を裁けない。法が、人を裁くんだ。」

拓海さんの言葉に、男は反応した。

「確かに、君の言うことは正しい。法が人を裁くのだよ。だからこそ、この制度は法律として存在しえるのだ」

「違う!」拓海さんはさっきより少し語尾を強めた。

「この制度は憎しみや悲しみしか生まない。法とは、人を守るものだ」


俺は何も言えなかった。ただ、拓海さんがこれ以上熱くなるのはよくないと、直感が訴えていた。


 突然、ドアが、開いた。

 最初に入ってきたのは、見知らぬ男だった。スーツを着ていたが、さっきの入口の男とは違った。その後ろに、また別の男が続いた。

 「警察です」

 強い声だった。

 部屋の空気が、一瞬で変わった。

 老いた男が振り返った。初めて、その目が揺れた。

 警察の男が老いた男に向かって歩いた。もう一人が脇を固めた。


 「収賄、所得税法、および金融商品取引法違反の疑いがあります。事情をお伺いしたいため、署までご同行ください。」


 老いた男は動かなかった。杖を握ったまま、警察の男を見ていた。それから、ゆっくりと俺たちを見た。

 何かを言おうとした。でも言葉が来なかった。

 初めて、言葉が来なかったのは向こうだった。

 警察の男が老いた男の腕に手をかけた。老いた男は、抵抗しなかった。杖をついたまま、ゆっくりと歩いた。

 ドアを出る直前、老いた男が振り返った。

 俺を見た。

 何も言わなかった。

 ドアが閉まった。

 部屋に、五人だけが残った。

 誰も動かなかった。

 最初に口を開いたのは、礼だった。

 「拓海さん」

 拓海さんが「ああ」と言った。

 「いつ動いてくれたんですか」と礼が聞いた。

 「あの日」と拓海さんは言った。「みんなで集まった後に、一人で行ってきた。証拠を全部持って、警察に。最初は相手にされなかったけど、粘ったら動いてくれた」

 俺は拓海さんを見た。

 「言ってくださいよ」

 「これは俺の仕事だと思ったからさ」と拓海さんは言った。

 妙に説得力があった。

 ミンミンさんが小さくうなずいた。星良は少し微笑んだ。礼が「そうですね」と言った。

 俺は天井を見た。

 古谷先生の顔が浮かんだ。星良が洗脳されたあの日のことが浮かんだ。何も言えなかった会議室が浮かんだ。全部が浮かんで、今度は沈まなかった。

 「終わった」と俺は言った。

 誰も返さなかった。でも全員が、同じことを思っていた。


 制度廃止の政府発表は、それから一週間後だった。

 ニュースで流れた。ミンミンさんがグループLINEにリンクを貼った。既読がついて、誰もコメントしなかった。それでよかった。


――

 海に行ったのは、八月の終わりだった。

 みんなで行った。電車を乗り継いで、砂浜に出た。平日だったから、人が少なかった。

 波が来て、引いた。また来て、引いた。

 ミンミンさんが萌ちゃんを連れてきていた。萌ちゃんが波打ち際を走り回っていた。ミンミンさんがその後ろを追いかけていた。

 拓海さんがその様子を、少し離れたところから見ていた。

 何も言わなかった。ただ見ていた。

 礼は砂浜に座って、スマホを見ていた。いつも通りだった。

 遠くの入道雲は、ゆっくりと形を変えていた。はるか遠くの水平線に、船が見えた。ゆらゆらと、のんびりと見えた。


 暗くなってから、花火をした。

 安い花火セットだった。礼が「こういうの、やったことない」と言った。星良が「嘘でしょ」と言った。礼が「本当に」と言った。星良が笑いながら火をつけてやっていた。

 俺は自分の花火が燃え尽きるのを見ていた。

 「ねえ」と星良が言った。

 「何」

 「そういえばさ、ハルト、私に告白した?」

 俺は花火を持ったまま、星良を見た。

急に恥ずかしくなって、少し視線を逸らせた。

 「……なんのことだっけ」

 星良がしばらく俺を見た。

 「ふふふ。そっか」と星良は言った。


 波の音がした。

 星良が新しい花火に火をつけた。光が広がって、砂浜を照らした。


ベタつく湿気の多い潮風さえ、今は心地よく感じた。

 「夏だね」と星良が言った。

 「ああ、夏だな。もうすぐ終わっちゃうけどな」と俺は言った。

今年の夏は、ずっと忘れないだろう。

「セラ、来年の夏も、海、来ような」

星空を見たまま、俺は小さな声で言った。

「うん、来年も、再来年も、すっと来ようね。みんなで」


 みんなで、か。その言葉が少しだけ喉に刺さった小骨のようだったが、まぁ、それもいいな、と思った。


 満天の星が俺たちを優しく包んでいた。吸い込まれそうなほど、黒く遠い海の向こうまで、星空は果てし無く、どこまでも続いていた。何年も前からそうであったように、きっと何年先までも、そうであり続けるのだろう。


花火が燃えて、静かに消えていった。


 完

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