第一話
「有村、ちょっといいか」
十七時を過ぎた頃、植田部長に呼ばれた。
いいか、という言い方をするが、ダメです、とは言えない。断れたことは一度もない。周りの同僚たちが、微妙に視線を逸らした。見ていない振りをするのが、この会社の作法だった。
植田部長のデスクの前に立った。部長は椅子に座ったまま、腕を組んで俺を見上げた。
「これ、どういう計算したんだ」
資料を突きつけられた。集計の一行が抜けていた。気づいたのは今日の午後で、すでに修正版を提出してあった。そのことを言うと、部長の声がひとつ低くなった。
「修正すればいいと思ってんの?ミスしたことが問題なんだろ。なんでわかんねえんだよ。」
わかっています、と俺は言った。気をつけます、と言った。
部長はそれで終わりにしなかった。座ったまま、腕を組んだまま、俺を立たせたまま、最初から説教を始めた。立たされながら聞く声は、大きくなくても十分に重かった。俺の仕事の何がいけないかを、淡々と、順を追って説明した。俺は頷き続けた。周りの同僚たちは黙々とパソコンを叩いていた。聞こえていないわけがなかった。
三ヶ月前、俺は一度だけ言い返したことがある。それほどひどいミスではないと思います、と言った。部長の顔が変わった。その日は終電まで残らされた。翌日も、その翌日も、何かにつけて呼びつけられた。朝礼で俺の名前が何度も出た。みんなが見ていた。見て、目を逸らした。
それ以来、俺は何も言わなくなった。
十五分ほどで部長の説教が終わった。じゃあ頼むよ、と言って立ち上がり、すっきりした顔でコートを着て帰っていった。十七時半。定時ぴったりだった。
俺のデスクには、赤いボールペンで修正を入れられた資料と、今夜中に仕上げるよう言いつけられた追加の書類が残っていた。一つ一つの書類に顔を近付けながら内容を確認した。
同僚たちが一人ずつ帰っていった。お疲れ様です、という声が遠ざかるたびに、オフィスが静かになった。二十二時。俺は一人になっていた。
窓の外に、夜の街が広がっていた。無数の光が遠くまで続いていた。どの光の下にも、誰かの生活があった。植田にも、生活があった。家があって、家族がいて、明日も普通に出社してくる。
七年前、十八歳の誕生日に届いた通知を思い出した。国からのあの事務的な一文——本日付をもってあなたに選択権が付与されました。自宅の部屋で受け取って、ふうん、と思っただけだった。使うとは思っていなかった。使う必要があるとも思っていなかった。
あの頃はまだ、世界がそれほど悪いものだとは思っていなかった。
社会人になって、まさかこんな目に合うとは思っていなかった。将来が見通せなかった。この苦痛が永遠に続くのかと思うと、絶望しかなかった。
スマートフォンを手に取った。アプリケーションを開いた。名前の入力欄に、植田浩二、と打った。住所や生年月日などはわからない。わかる情報は会社名だけだ。三回のうちの、一回目。送信した。
――対象者指定を承認しました。執行予定日まで168時間の猶予があります。
画面を閉じた。コートを着た。電気を消してオフィスを出た。
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翌朝、俺がオフィスで始業前にコーヒーを入れていると、植田が出社し、すぐに駆け寄ってきた。
顔色が悪かった。昨夜眠れなかったのだと思った。
「有村、お前!」
声が震えていた。
「なんで俺なんだ。心当たりが全然ない。説明してくれ」
俺は自分のデスクに向かった。
「おい、聞いてるのか。なんでだよ。俺、何かしたか」
俺はパソコンを立ち上げた。
植田の声が大きくなった。「ふざけんな。冗談じゃないぞ。取り消せ。今すぐ取り消せ」
周りの同僚たちが来始めていた。みんな見ていた。見て、目を逸らした。同じ作法で。でも少しだけ、同僚たちの目が温かく感じられた。
しばらくして、植田の声のトーンが変わった。
「……わかった。俺が悪かった。指導が行き過ぎたなら謝る。だから取り消してくれ」
俺は画面を見ていた。
「頼む。家族がいるんだ。子どもがいるんだ。わかるだろ、有村」
俺には関係なかった。
翌日、植田は封筒を持ってきた。デスクの上に置いた。「百万、用意した。これで頼む」
俺は封筒を見なかった。
植田はその後も毎日来た。声が日に日に変わっていった。怒鳴る日もあった。泣きそうな声の日もあった。百万が二百万になった。俺はずっと、何も言わなかった。
言うべき言葉が、何もなかった。
謝られても、金を積まれても、俺が取り戻したいものは戻ってこなかった。あの十七時の光景が消えるわけでもなかった。植田のデスクの前に立たされて、周りの全員に聞こえる声で詰められたあの時間が、なかったことになるわけでもなかった。
指定から七日が過ぎた次の日の朝、植田は出社しなかった。
昼前に、総務から連絡が入った。植田が死亡した、という内容だった。選択権制度に基づく執行、と説明された。それだけだった。誰かが小さく息を呑んだ。オフィスが静かになった。
しばらくして、誰かがまたキーボードを叩き始めた。
俺も、画面に顔を近付けた。
植田は最後まで理解していなかった。たぶん、本気で。
それが、どうにも許せなかった。
帰り道、駅までの道をぼんやりと歩いていた。すでに怒りはなかった。あったのはほんの少しの達成感と開放感、少しの安堵。ただ、歩いていると、「家族がいるんだ」という声が、脱ぎ忘れたタグみたいに首のあたりにあった。触らなければ、どうということはないが。冬の夜の空気が冷たかった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
彼女からだった。今日どうだった? という短いメッセージ。
俺はしばらく、その文字を見ていた。
伝えたいことはいろいろあるはずだけど、まとまらない。
「まぁ、普通だったよ」とだけ打って、送った。
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「ハルト、何見てるの?」
星良は暖人のスマホを覗き込んだ。
「おい、なんだよセラ。人のスマホを勝手に覗くな!」
「いいじゃんそんなの。で、何見てるの?」
「ん?ああ、ニュース。また指定執行だって。まぁ、俺には関係ないけどね。そんなことより、次の期末の英語、わかんねぇから教えてよ。」
「もぅ、いつもそうなんだから。あんまり私ばかりアテにしないでよね。」
その口調とは裏腹に、星良の表情は少しだけ照れくさそうで、うれしそうでもあった。
これから起こることなど、知る由もなく。
十二月の冷たい風が吹いた。
星良が肩をすくめる。
反射的に、暖人は少しだけ歩幅を寄せた。
それが自然だったのか、ただ寒かっただけなのか、自分でもわからなかった。




