1.屋敷
私は坂道を上がりながら後悔していた。残暑とは思えないほどの日差しが容赦なく肌を焼く。コンクリートの照り返しによって、道の先がゆらゆらと揺れて見えた。そんな中でも、まだまだ元気な蝉の声が騒がしい。
「遠い」
日陰で足が止まる。立ちはだかる坂道を見て心が折れそうになる。
私は交通費をケチっていた。少しでも修理代に回したかったから。
「はぁ」
自業自得でしかないが、ため息が出る。
何気なく封筒を日に透かしてみる。届けるだけで高額の報酬なんて、どれだけ価値のあるものが入っているのだろうか。私は魅入られたように封筒を見た。
「開けてみたい」
今、私は何を言った?駄目だ。暑さで頭がやられている。
馬鹿なことをする前に再び歩き出した。到着したのは、それから数十分後だった。
◯
「はぁ、着いた」
そこには周辺の家屋から浮くほどの、古く立派な門が待ち構えていた。塀が左右に長く続いている。それだけで敷地の中が広いことが容易に想像できる。
「本当にここか?」
もう一度住所を確認する。間違いない。汗を拭いて、インターフォンを押そうと手を伸ばした。
ボタンに触れる直前、脇戸がギィと音を立てて開く。
「お待ちしておりました」
扉の先に、少し首の長い和服の老婆が立っていた。
腰が曲がり、頭が前に出ていて首が詰まって見える。この暑さの中でも汗一つかいていない。口には出せないが妖怪じみている。私は心の中でろくろ首を思い描いた。
「すみません。骨董屋の店主から届け物で」
「どうぞ。旦那様がお待ちです」
「えっ?」
私はてっきり、入り口で封筒を渡したら帰れると思っていた。しかし、老婆は中に入るのをじっと待っており、封筒を受け取る気はないようだ。
「お客様」
老婆の呼びかけにハッとして我に返る。いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。私が中に入ると老婆は扉を閉める。そのまま先導するように歩き始めた。お年寄りとは思えないほど足取りはしっかりしている。私は慌てて後を追った。
あれだけうるさかった蝉の声が聞こえなくなっている。そのことを、私はこれっぽっちも気にしなかった。
◯
本宅までは少し歩いた。
素人目にも手入れの行き届いた日本庭園が出迎える。池には美しい模様の錦鯉が数匹優雅に泳いでいる。観光スポットみたいだ。
母屋もそれに見劣りしない立派な日本建築だった。玄関は広く奥行きがあり、そこから長く廊下が伸びているのが見える。床や柱は艶のある色で滑るような質感だった。作りが古いためか、少し薄暗いが風は通っていて涼しく感じる。
私は老婆の案内に付き従いながらキョロキョロと中を見渡す。
障子や襖が閉まって室内は見えないが、相当な部屋数がある。ただ、どこにも人の気配はない。一度だけ視界の端に赤いものが見えた気がする。そちらを見ようとしたときに老婆が止まった。
「旦那様。お客様をお連れしました」
客間に入ると、座卓と来客用の座布団が用意されていた。挟んだ向かい側でその人は待っていた。
年齢は四十歳くらい。体は大きく、肩幅ががっしりしている。短髪で眉が太く、目はややつり気味。口が大きく顎が広い。
(角があれば、鬼のようだ)
決して口には出せないがそれが第一印象だった。ピリピリとした雰囲気が目の前の人物から漂っているのは間違いなかった。もしかしたら、私が遅かったことに怒っているのかもしれない。背筋に緊張が走った。
「失礼します」
座布団に正座する。私は親に怒られる子供のように縮こまった。
「約束の物は」
鬼……いや、家の主人は低く唸るような声で、端的に言った。
「はっはい!これです」
主人は封を開けると中を覗き込む。見た瞬間、口元が綻んだ。何が入っているんだろうか。確認するには少し長い。まるで魅入られているようだ。
「旦那様」
老婆の声に主人が我に返った。咳払いをして、手紙を取り出すと、じっくりと黙読し始めた。沈黙が流れる。怒鳴られる気配はない。
ただただ気まずい雰囲気が漂っている。少なくとも私はそう感じた。ここで取れる選択肢は限られていた。
「すみません。トイレ借りれますか?」
◯
幸いトイレは近く、一人になれた。
部屋へ戻ろうとした時、何かが転がってきて足に当たった。拾い上げてみると、それは鞠だった。
「どこから?」
鞠の転がってきた方に視線を向けると、赤い着物の裾が廊下の角に消えていくのが見えた。落とし物だろうか。私は鞠を返そうと人影を追った。
「ちょっと!これ、君のでしょ?」
返事はない。六、七歳くらいの子供だ。この家のお嬢さんだろうか。
すぐにおかしいことに気づいた。
大人と子供の歩幅で距離が縮まらないなんて。ずっと一定を保っている。早歩きになっても、それは同じだった。
走って追いかけようかとも思ったが、人様の家の廊下を走るわけにもいかない。それに見知らぬ大人に追いかけられたら、逃げるのもわからなくはない。
そうだ。老婆に渡せばいい。
踵を返そうとした私の背中に、くすくすと笑い声が届く。振り返ると、彼女は廊下の角から半身を出して、こちらを見て笑っていた。
私と目が合うと少女の口元が動く。
「の」
「ろ」
「ま」
人生で最速のスタートダッシュを切った。
「待てぇ!!」
キャハハと笑う声が響く。追いかけっこが始まった。私は全力で走った。ドタドタと足音を立てながら必死に追う。少女は足音も立てず、滑るように走っていく。
「ちょこまかと!」
どうにか近づいて、捕まえようと何度も何度も手を伸ばした。少女は軽やかに避けていく。私に残っているのは意地だけだ。その執念の末に少女を廊下の突き当たりまで追い詰めた。
「はぁはぁ」
息を荒げ幼い女の子に迫る姿を、他人に見られなくて本当に良かったと思う。
油断なくジリジリと距離を詰めた。少女はまだくすくすと笑っている。その姿に少女らしさはなく、老獪な大人の余裕すら感じられる。
確実に掴める距離になって私は跳躍した。そして、信じられない光景を目の当たりにした。
少女は音もなく後ろに下がった。すると、どういうことなのか。そのまま壁に吸い込まれるように消えていった。
驚いている暇はない。このままだと壁に激突する。私は足に力を込めて踏ん張ろうとした。だが、この家の床は思っていた以上に滑りやすかった。
私は派手に転んだ。視界が回転し頭を強く打つ。世界が暗転していく。
最後に目にしたのは、少女がこちらを覗き込んでいる姿だった。




