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第2話 声のない少女

「……は?」


それが僕の精一杯だった。


父は満足そうに腕を組んでいる。


一方、イナンナは何も反応しない。


僕と父を交互に見ているだけだ。


「次のアイドル?」


「そうだ」


「この子が?」


「そうだ」


「無理だろ」


即答だった。


失礼かもしれない。


だが事実だ。


アイドルは歌う。

アイドルは話す。

アイドルは観客を惹きつける。


目の前の少女はそのどれもできそうに見えない。


父は肩をすくめた。


「だからお前を呼んだ」


「意味が分からない」


「分からなくていい」


相変わらずだ。


説明を放棄する才能だけは昔から世界一だった。


「断る」


僕は言った。


父は少しも驚かなかった。


「そうか」


それだけだった。


だが次の瞬間。


「ならイナンナは処分する」


空気が凍った。


「は?」


「不要になった物を置いておく趣味はない」


僕は思わず父の胸ぐらを掴んだ。


「ふざけるな!」


父は表情を変えない。


「お前が断れば終わりだ」


「人間だぞ!」


「知っている」


その冷たい声が余計に腹立たしかった。


殴りたくなった。


本気で。


だが。


その時だった。


服の裾を引っ張られる。


振り返る。


イナンナだった。


彼女は小さく首を横に振った。


まるで。


『怒らないで』


そう言っているみたいだった。


僕は拳を下ろす。


最悪だ。


最初から断れる話じゃなかった。


「……分かったよ」


父は満足そうに頷く。


「流石は我が息子だ」


「黙れ」


父は笑った。


そして部屋を出ていく。


重い扉が閉まる。


部屋には僕とイナンナだけが残された。


静かだった。


気まずいくらいに。


イナンナは相変わらず床に座っている。


僕は立ったまま。


何を話せばいいのか分からない。


数分後。


先に負けたのは僕だった。


「名前」


イナンナが顔を上げる。


「本当にイナンナって名前なのか?」


小さく頷く。


「そうか」


沈黙。


また沈黙。


会話が続かない。


すると。


イナンナがノートを差し出してきた。


そこには。


『あなたは?』


と書かれていた。


「ああ」


僕は少し考える。


本名を名乗る気になれなかった。


父の息子。


財閥の後継者。


そんな肩書きが嫌だった。


だから。


ふと思いついた言葉を口にする。


「トリアイナ」


イナンナが首を傾げる。


「今日からそう名乗る」


『変な名前』


「うるさい」


『でも』


『似てる』


「何が」


イナンナは少しだけ考える。


そして書いた。


『私と』


僕は少し笑った。


初めてだった。


彼女が自分から会話をしたのは。


それだけで少し嬉しかった。


やがて部屋を出る。


イナンナは僕の後ろを歩いていた。


迷子みたいだった。


長い廊下。


大きな庭。


豪華な屋敷。


彼女は何もかも珍しそうに見ている。


「友達は?」


首を横に振る。


『いない』


「学校は?」


『行ってない』


短い文字。


だが十分だった。


屋敷の外へ出る。


夕日が沈み始めていた。


イナンナは空を見上げる。


少しだけ目を細めた。


その姿は妙に綺麗だった。


「なあ」


イナンナが振り返る。


「本当にアイドルになりたいのか?」


ノートを渡す。


彼女はしばらく考えた。


そして。


『わからない』


そう書いた。


予想通りだった。


『やれと言われた』


『だからやる』


それだけ。


夢じゃない。


目標でもない。


ただ与えられた道。


僕はため息を吐く。


最悪だ。


アイドルになりたいわけでもない少女をアイドルにする。


成功する未来なんて見えない。


だが。


次の文字を見て考えが変わる。


『でも』


ペンが止まる。


『アイドルって』


『楽しい?』


夕日が彼女の横顔を照らす。


不安。


期待。


好奇心。


全部が混ざった顔だった。


僕は少し考える。


そして答えた。


「知らない」


イナンナが固まる。


『知らない?』


「ああ」


『プロデューサーさんなのに?』


「違う」


僕は苦笑した。


「今日なったばかりだ」


数秒の沈黙。


そして。


声は出ない。


だけど確かに。


イナンナは笑った。


その笑顔は。


世界で最も愛されたアイドルよりも。


ずっと人間らしかった。


その時だった。


スマホが震える。


父からのメッセージ。


短い一文だけ。


アイドルゲーム開幕まで残り百日


僕は画面を見つめる。


百日。


たった百日。


その間に。


この声のない少女を。


世界一のアイドルにしろということらしい。


「無茶苦茶だ」


そう呟く。


すると隣で。


イナンナが首を傾げた。


まるで。


『面白そう』


そう言っているみたいに。


僕は思わず笑った。


この少女は。


案外とんでもないのかもしれない。


そう思った。

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