第1話 代わりを作る話
突然だが、この日本という島国で最も世界を変えた文化といえば何だろうか。
漫画か。
アニメか。
ゲームか。
いや。
アイドルだろう。
かつて、一人の少女が世界を魅了した。
彼女のステージが始まれば人々は争いを忘れた。
戦争が終わったわけではない。
貧困が消えたわけでもない。
それでも人々は彼女を見ている間だけ、憎しみを忘れることができた。
そんな少女だった。
その名は海夢。
世界で最も愛されたアイドル。
そして。
ある日突然、姿を消した。
世界は第二の海夢を求めた。
だが後に僕は知ることになる。
世界が求めていたのは海夢だった。
そして僕が出会ったのは。
海夢の代わりではない。
イナンナという少女だった。
「ついて来い」
数年ぶりに再会した父親の第一声はそれだった。
久しぶりだな、でもない。
元気だったか、でもない。
相変わらずだ。
僕はため息を吐きながら父の背中を追う。
財閥家の本邸。
家を出てから随分経つが、この場所の居心地の悪さだけは変わらない。
広すぎる庭。
高すぎる天井。
無駄に豪華なシャンデリア。
壁一面に飾られた美術品。
何もかもが僕を拒絶しているようだった。
『お前はここに相応しくない』
そんな声が聞こえてくる気さえする。
玄関ホールを抜ける途中。
巨大な液晶モニターが目に入った。
そこに映っていたのは一人の少女。
白いドレス。
長い黒髪。
眩しいほどの笑顔。
数万人の歓声。
「あの人か」
思わず呟く。
海夢。
世界で最も愛されたアイドル。
世界を変えた少女。
父が少しだけ振り返った気がした。
だが何も言わない。
僕もそれ以上は口を開かなかった。
やがて父は屋敷の奥へ進む。
見覚えのない廊下。
見覚えのない扉。
僕がこの家にいた頃には存在しなかった場所だ。
そして。
父は巨大な両開きの扉の前で足を止めた。
「見ろ」
重い音と共に扉が開く。
そこは円形の部屋だった。
真っ白な壁。
真っ白な床。
真っ白な天井。
そして中央。
少女が一人だけ座っていた。
最初の感想は。
汚い。
だった。
ボサボサの髪。
擦り切れた服。
裸足。
部屋だけが綺麗なせいで、その少女だけが異様に浮いて見える。
父が手を振る。
「来なさい」
少女は反応しない。
もう一度。
「来なさい」
それでも動かない。
聞こえていないわけではない。
少女の視線は確かに父を捉えている。
それなのに動かない。
父は困ったように頭を掻いた。
「相変わらずだな」
「何なんだよ、この子」
「後で説明する」
それが一番信用できない。
後で説明すると言う人間は大体説明しない。
僕は少女を見る。
少女も僕を見ている。
感情のない目ではない。
ただ。
感情を外へ出す方法を知らないような目だった。
ふと。
昔読んだ絵本を思い出す。
赤ずきん。
森に迷い込んだ少女。
目の前の少女は妙にそれに似ていた。
「赤ずきんみたいだな」
思わず呟く。
その瞬間だった。
少女の手が動いた。
胸の前で。
小さく。
ゆっくりと。
左右に。
そして上下に。
何かを伝えるように。
何かを描くように。
「……まさか」
僕は目を見開く。
その動きを知っていた。
ほんの少しだけ。
昔。
母から教わったことがある。
あれは。
手話だった。
少女は真っ直ぐ僕を見ている。
そしてもう一度。
手を動かした。
意味は分からない。
だが言葉であることだけは分かる。
「お前……」
僕が口を開こうとした瞬間。
父が肩を叩いた。
「紹介しよう」
嫌な予感しかしない。
父が何かを紹介するときは大抵ろくなことにならない。
「彼女の名前はイナンナ」
少女は黙ったまま。
いや。
話せないのだろう。
「そして」
父は満足そうに笑った。
「お前が育てる次のアイドルだ」
数秒。
理解が追いつかなかった。
僕はイナンナを見る。
ボサボサの髪。
声のない世界。
そして父を見る。
「……は?」
それが僕の精一杯だった。
父は当然のように言う。
「アイドルゲームを開催する」
「優勝者には海夢の後継者として世界デビューの権利を与える」
「そして」
父はイナンナの肩に手を置いた。
「この子を優勝させろ」
僕は笑った。
笑うしかなかった。
目の前の少女は。
喋れない。
歌えない。
アイドルですらない。
なのに。
世界最大のアイドルオーディションで優勝しろと言う。
相変わらず。
この父親は狂っていた。
だが。
その時。
イナンナがノートを差し出してきた。
いつの間に持っていたのか。
小さなノートだった。
そこには一言だけ書かれていた。
『アイドルって楽しい?』
僕は固まる。
その文字には。
夢も。
希望も。
覚悟もなかった。
ただ。
純粋な疑問だけがあった。
僕は少し考える。
そして答えた。
「知らない」
イナンナが首を傾げる。
「でも」
僕は苦笑する。
「これから知るんじゃないか」
イナンナはしばらく僕を見つめていた。
それから。
ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間。
初めて会った気がしなかった。
そして僕はまだ知らない。
この少女が。
僕の人生も。
父の人生も。
海夢の人生も。
全部変えてしまうことを。




