第10話 会いたかった人へ
「初めまして」
その言葉に。
僕は違和感を覚える。
初めましてじゃない。
この人は。
僕の母親なのだから。
海夢は僕を見ている。
優しく。
どこか申し訳なさそうに。
「大きくなったわね」
それが母親としての最初の言葉だった。
僕は何も言えない。
怒りもあった。
戸惑いもあった。
会いたかった気持ちもあった。
全部が混ざって。
言葉にならなかった。
すると。
海夢は困ったように笑う。
「お父さんに似てる」
「それは悪口か?」
思わず返す。
海夢が吹き出した。
「うん」
即答だった。
父が眉をひそめる。
「失礼だな」
「事実だもの」
夫婦の会話だった。
それが妙に悔しかった。
僕が知らない時間。
僕が知らない人生。
二人にはあった。
そして。
その時だった。
海夢の視線が。
イナンナへ向く。
空気が変わる。
さっきまでの母親の顔じゃない。
もっと。
深い何か。
海夢はゆっくり近付く。
イナンナは固まっている。
当然だった。
目の前にいるのは。
世界一のアイドル。
海夢。
テレビの向こう側の人。
その人が。
今。
自分を見ている。
海夢は震える手を伸ばした。
そして。
イナンナの頬へ触れる。
「会いたかった」
静かな声だった。
イナンナが目を見開く。
海夢の目には涙が浮かんでいた。
「ずっと」
「ずっと会いたかった」
イナンナは混乱していた。
理由が分からない。
初対面のはずだから。
すると。
海夢は笑った。
泣きながら。
笑った。
「ごめんね」
「本当にごめんね」
その言葉は。
誰に向けられたものだったのか。
僕には分からなかった。
イナンナにも分からなかった。
ただ。
海夢が泣いている。
それだけは分かった。
しばらくして。
応接室。
海夢は紅茶を淹れていた。
世界一のアイドルが。
普通に紅茶を淹れている。
違和感しかない。
「意外だな」
「何が?」
「もっと特別な人だと思ってた」
海夢は笑う。
「よく言われる」
そして。
少しだけ寂しそうな顔をした。
「でも私は普通の人よ」
その言葉に。
父が小さく頷いた。
「そうだな」
海夢が父を見る。
「あなただけだったわね」
「ん?」
「私を海夢じゃなくて」
海夢は少し照れながら笑った。
「私として見てくれたの」
僕は黙る。
その言葉が妙に心に残った。
その時だった。
イナンナがノートを書く。
『どうしてアイドルになったの?』
海夢は少し驚いた。
そして。
懐かしそうに笑った。
「偶然よ」
静かな声だった。
「本当に偶然」
海夢は窓の外を見る。
遠い昔を見るように。
「昔ね」
「私はカメラなんて知らなかったの」
「だから普通に遊んでいたわ」
「普通に笑って」
「普通に走って」
「普通に転んで」
「その時だった」
海夢は指で四角を作る。
「誰かが私にカメラを向けたの」
「私は何も知らなかったから」
「ただ思うままに振る舞った」
「そしたら」
海夢は少し苦笑する。
「ついて来なさいって言われたの」
部屋が静かになる。
「それから」
「気付いたら私の姿が小さな液晶の中にいた」
イナンナが真剣に聞いている。
僕もだった。
海夢は続ける。
「最初は楽しかった」
「みんなが笑ってくれるから」
「みんなが褒めてくれるから」
「みんなが好きだって言ってくれるから」
そして。
少しだけ寂しそうに笑った。
「でもね」
「途中から分からなくなったの」
「みんなが好きなのは私なのか」
「海夢なのか」
部屋が静まる。
海夢は胸に手を当てる。
「そうしているうちに」
「自分が誰だったか」
「分からなくなった」
僕も。
イナンナも。
何も言えなかった。
そして。
海夢は父を見る。
優しく。
本当に優しく。
「あの人が言ってくれたの」
父が嫌そうな顔をする。
海夢は笑う。
「どうして私なの?って聞いたの」
「私なんかより綺麗な人はいる」
「私なんかより歌える人もいる」
「私なんかより人気な人もいる」
「だから聞いたの」
『どうして私なの?』
海夢は少し目を閉じる。
「そしたら」
父がため息を吐いた。
海夢は笑う。
「世界一可愛いからだろって」
僕は吹き出しそうになる。
父らしくない。
海夢は続ける。
「だから聞いたの」
『海夢が?』
父は首を横に振った。
『違う』
そして。
『お前がだ』
海夢の目に涙が浮かぶ。
「嬉しかった」
「だって」
「初めてだったから」
「海夢じゃなくて」
「私を見てくれた人は」
その言葉を聞いた時。
イナンナの表情が少しだけ変わった。
まるで。
何かを考え始めたように。
そして僕達はまだ知らない。
その夜。
天城ルナが。
テレビ越しに海夢を見ながら。
静かに涙を流していたことを。




