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観測者ダリア ーC級冒険者ダリアの記録  作者: エドモンド椿


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16/18

再び見習いになった男

翌朝。


ダリアはギルドの裏手にある訓練場へ来ていた。昨日とは違い、今日は剣を振るためではない。


集められているのは、ダリアを含めて十人ほど。年齢はまちまちだったが、ほとんどが自分より若い。全員が背負っているのは、ギルドから貸し出された同じ形の革鞄で、中には水筒、縄、簡単な応急処置の道具、それから町の周辺を記した地図が入っている。


「今日は野外行動の実地研修を行う」


前に立った教官が声を張った。五十に届くかどうかという年頃の男で、腰には剣を差している。もっとも、今日はそれを抜くような訓練ではないらしい。


「場所は町の北にある訓練林だ。何度も新人研修に使っている場所だから、危険な魔物はほとんど出ない」


その言葉に、一人の少年が分かりやすく息を吐いた。教官の目がそちらへ向く。


「ほとんど、だ」


少年の顔が引き締まった。


「町の外に絶対安全な場所なんてものはない。訓練場所だからといって、周囲を見るのをやめるな。とはいえ、今日は魔物を倒す訓練じゃない。勝手に武器を振り回した奴は減点する」


「え?」


誰かが声を上げたが、教官は構わず続ける。


「見る。聞く。報告する。指示に従う。そして、生きて帰る。今日やるのは、そのための基礎だ」


ダリアは少しだけ眉を上げた。昔も似たようなことを言われた気がする。


当時は、魔物を倒せればそれでいいだろ、くらいに思っていた。


若かったというより、単に馬鹿だった。


「五人ずつ二組に分かれろ」


言われるまま、ダリアも近くにいた新人たちと一緒になる。そうして一行は町を出た。


          ◇


訓練林までは徒歩で一時間ほどだった。深い森ではなく、近隣の住民が薪を拾いに入ることもあれば、狩人が小動物を追うこともある。街道からもそれほど離れていない。


それでも木々の中へ入ってしまえば、町の姿はすぐに見えなくなった。


「ここから研修を始める」


教官が立ち止まる。


「まず隊列。前後の間隔を空けすぎるな。だが、前の奴が急に止まったときにぶつかるほど詰めるな」


新人たちがそれぞれ位置を調整し、ダリアは列の後ろから二番目に入った。


「歩くときは周囲を見る。足元だけ見て歩くな。だからといって、木の上ばかり気にするのも駄目だ」


教官が森を指す。


「全部を細かく見ようとすると、かえって何も見えなくなる。まずは普段と違うものを探せ」


新人の一人が首を傾げた。


「普段と違うものって?」


「例えば音だ。鳥が鳴いていたのに急に鳴かなくなった。木が揺れているのに風がない。道の途中だけ草が踏み潰されている。仲間が急に歩く速度を落とした。そういう変化だ」


ダリアは少し感心した。昔、自分が教わったときより分かりやすい気がする。


音、匂い、地面、木々の揺れ、前を歩く仲間の様子。結局は、そういうところを見る。


しばらく歩くうち、新人たちの足取りから少しずつ緊張が抜けてきた。鳥は鳴いているし、風も普通に葉を揺らしている。


そのときだった。


「止まれ」


教官が言った。大声ではない。それでもダリアの足は、その場で止まった。考えるより先に身体が反応していた。


前を歩いていた少女が二歩進み、さらに前の少年は何があったのか確かめようと、振り返りながら一歩横へ出た。


「そのまま!」


今度は強い声が飛ぶ。ようやく全員が止まった。


「今、止まれと言ってから動いた奴」


三人ほどがおそるおそる手を挙げる。


「どうして動いた?」


少女が答えた。


「聞こえたんですけど……何があったのか分からなくて」


「だから、自分で確かめようとした?」


「はい」


「順番が逆だ」


教官が列の前方を指した。よく見れば、少年の靴の少し先に、草の色へ紛れるような細い縄が張られている。その先には小さな木片がいくつか吊るされていた。


教官が縄を軽く押すと、からから、と乾いた音が鳴った。


「これは訓練用の鳴子だ。引っかかっても音が鳴るだけで済む。だが、実際の現場で『止まれ』と言われたとき、その先に何があるかは分からない。罠かもしれない。前の奴が魔物を見つけたのかもしれない。足場が崩れかけているのかもしれない」


少年が自分の足元を見る。


「何があるのか知りたくても、先に動くな。まず止まる。安全を確認して、それから理由を聞け。それから、止まった後も勝手に散るな。前が危ないから止めたのに、横へ避けた先に別の危険があったら意味がない」


先ほど横へ出た少年が気まずそうに頷いた。


「はい」


「よし。覚えたな。進むぞ」


教官が再び歩き始め、ダリアもその後を追った。


昔はこれで何度怒鳴られただろう。止まれと言われて足を止めたところまではいい。そのあと何があるのか見たくなって、勝手に横から覗き込んではまた怒鳴られた。


そんなこともあった気がする。


「……よく生きてたな、俺」


「何か言った?」


前の少女が振り返った。


「いや、なんでもない」


「前を見ろ」


教官の声が飛んでくる。


「あ、はい」


          ◇


次に足を止めたのは、小さな沢の近くだった。


「ここで休憩する」


何人かが荷物を下ろそうとする。


「まだ下ろすな」


全員の手が止まった。先ほどより反応が早い。


「その前に、この場所を見ろ。このまま少し休むだけなら問題ない。だが、一晩ここで過ごすとしたらどうだ。気になるところを挙げてみろ」


新人たちが周囲を見回した。


「沢があります」


「沢があると何が問題だ?」


「増水……とか?」


「そうだな。ここで雨が降っていなくても、上流で降っていれば急に水かさが増えることがある。川や沢のすぐそばに寝床を作るな。水が近いのは便利だが、近ければ近いほどいいわけじゃない」


別の少年が手を挙げた。


「あそこに足跡があります」


「どこだ?」


少年が指す。何人かがそちらへ動きかけ、途中で止まった。


教官が少しだけ口元を緩める。


「今度はいい。見つけた奴だけ確認してこい。踏み消すなよ」


少年が一人で近づき、しゃがみ込んだ。しばらく地面を見たあと、戻ってくる。


「小さい足跡です。たぶん……鹿?」


「鹿にしては小さいな」


「じゃあ、兎?」


「近い。全員、こっちへ来い。足跡は踏むな」


今度は指示を受けてから全員が近づいた。地面には、小さな窪みがいくつか残っている。


「角ウサギだ。前足より後ろ足の跡が大きく残る。それから、少し先を見ろ。二つずつ固まるような形で続いてるだろ。跳ねて進む獣はこういう足跡になりやすい」


少年が地面を覗き込む。


「鹿なら違うんですか?」


「鹿なら蹄だ。先が二つに割れた跡になる。猪なら似た形でも、もっと丸くて幅がある。ただし、足跡一つだけ見て決めつけるなよ。地面の固さでも形は変わる」


教官は自分の指で地面に簡単な形を描き、それから少し離れた草を指した。


「食べられた草、糞、毛、木についた傷、歩幅、周囲の環境。いくつかの痕跡を合わせて考える」


「分からなかったら?」


別の新人が尋ねる。


「分からないと報告しろ」


教官は即答した。


「適当な答えを作るな。『何か分からない足跡がある』も立派な情報だ。知ったかぶりして『角ウサギです』と言った結果、別の魔物だった方がよほど危ない」


新人たちが頷く。ダリアも何となく頷いた。その辺りは、昔も変わらない。


「よし。他にこの場所で気になるものは?」


全員がもう一度周囲を見る。ダリアも沢、木々、地面、風と順に眺めた。


危険というほどのものはない。当然だ。ギルドが何年も新人を連れてきている場所なのだから、最初から大きな問題のない地点を選んでいるはずだ。


それでも、一晩過ごす場所として考えれば気になるところはいくつかある。


「……そっち側は、あんまり良くないな」


気づけば口にしていた。


教官がこちらを見る。


「理由は?」


「あー……沢に近すぎるかな。水を汲むには楽だけど、地面が湿ってる。少し休むだけならいいけど、寝るならもう少し離れたい」


「その通り。湿った場所は身体を冷やす。夜は思った以上に体温を奪われるぞ。寝床を選ぶなら、平らかどうかだけじゃなく、地面が乾いているかも確認しろ」


教官が続ける。


「他には?」


ダリアは周りの新人を見た。


「俺ばっかり答えていいのか?」


「気づいてるなら言え。そのあと説明する」


「そうか。じゃあ……あそこも避けたいな」


少し離れた草むらを指す。一部分だけ、草が低く倒れている。


先ほど足跡を見ていた少年が目を凝らした。


「なんで?」


「獣道だと思う」


「足跡なんて見えないぞ?」


「足跡が毎回残るわけじゃないだろ。草が同じ方向に倒れて、そのまま奥まで続いてる」


教官が頷いた。


「その通り。何度も動物が同じ場所を通れば、地面に跡が残らなくても草や枝に形が出る」


新人たちを獣道の近くまで連れていき、折れた枝や寝た草を実際に見せる。


「じゃあ、絶対ここで休んじゃ駄目なんですか?」


「絶対ではない。他に場所がなければ使うこともある。だが、わざわざ獣が通る場所を選ぶ必要はないだろ。野外では『危険か安全か』だけじゃなく、『もっとましな場所があるか』で考えろ」


その言葉に、ダリアは少しだけ目を細めた。


昔はそこまで丁寧に説明された覚えがない。いや、説明されていたのに、自分が聞いていなかっただけかもしれない。


「まだあるか?」


教官に聞かれ、ダリアは沢から吹いてくる風を感じる。


「火を使うなら、置く場所も考えた方がいいな。この風向きで向こうに焚き火を置いたら、煙が全部こっちに来る」


「そうだな。風向きは煙だけじゃない。火の粉がどこへ飛ぶかも見る。乾いた季節なら、テント代わりの布や荷物へ飛び火することもある」


教官は全員を見渡した。


「水が近い。平らだ。それだけで場所を決めるな。地面、風、周囲の痕跡、逃げ道。全部見てから選べ」


新人たちがそれぞれ周囲を見直す。そのうち一人が、ダリアをじっと見ていた。


「なんだ?」


「……あんた、本当に新規登録?」


「あー、それ昨日も似たようなこと聞かれたな」


「なんて答えたんだ?」


「まあ、いろいろあったんだよ」


「絶対なんか隠してるだろ」


「人にはいろいろあるんだよ」


教官が手を叩いた。


「休憩。水を飲んだら十分後に出るぞ」


今度こそ全員が荷物を下ろした。


          ◇


午後は、野営の基礎だった。もっとも、本当に一晩泊まるわけではなく、日が落ちる前には町へ戻る。


「今から、この周辺で一晩過ごすつもりで準備しろ」


教官が縄と小さな木片を配っていく。


「最初は警戒用の仕掛けだ。自分たちが寝ている間に、何かが近づいたことへ気づくために使う」


縄の端に木片を二つ結びつけ、その場で軽く揺らす。からから、と音がした。


「目的は倒すことじゃない。近づいてきたものがいると分かればいい。だから今日は殺傷する仕掛けは作らない。そのあと、小動物を捕るための罠も作るが、それも形だけだ。今日は実際には仕掛けない」


新人たちがそれぞれ縄を受け取る。


「まず班ごとに、どこへ警戒線を置くか決めろ。二か所以上だ」


五人ずつ、野営地の周囲を歩き始める。ダリアの組では、朝から一緒だった少年が早速二本の木を指した。


「ここに張ればよくない?」


「いいんじゃない?」


別の新人も頷く。


ダリアは場所を見た。野営地から来た道へ戻るための、一番分かりやすい場所だった。


「そこは、やめといた方がいいんじゃないか?」


四人がこちらを見る。


「また?」


「またってなんだよ」


「じゃあ、なんで駄目?」


「そこ、たぶん自分たちが一番通るだろ。夜中に何かあって急いで出ることになったら、真っ先に自分たちが引っかかる」


「あ」


少年が縄を見る。


「じゃあ横に張ればいい?」


「横なら何でもいいってわけじゃ……」


そこまで言って、ダリアは口を閉じた。


「なんだよ」


「あー、いや。俺が全部言うのも違うか。ちょっと考えてみてくれ」


「急に教官みたいなこと言うなよ」


「俺も同じ研修受けてる側だからな。俺の答えがギルドの答えってわけでもないしな」


ぶつぶつ言いながら、四人が周囲を見始める。やがて一人が、先ほど見つけた獣道の近くを指した。


「あそこは?」


「なんで?」


今度はダリアが聞く。


「動物が来るなら、通り慣れてるところを使いそうだから」


「なるほどな」


別の一人は低い茂みの脇を指した。


「あっちは?」


「そっちはなんで?」


「向こう側が見えにくいから。何か近づいても、見張りから気づきにくそう」


「それも――」


「お前が採点するな」


横から教官が口を挟んだ。


「あ、すみません」


新人たちが笑った。


教官は二つの場所を確認する。


「どっちも悪くない。それから最初に選んだ帰り道のところ。ダリアが言ったことも覚えておけ。警戒線を増やせば安全になるとは限らん」


「多い方がいいんじゃないんですか?」


「自分たちが動けなくなったら本末転倒だ。夜中に逃げる方向、見張りが交代するときに歩く場所、水を取りに行く道。そういうところまで塞ぐな」


新人たちが頷く。


「仕掛けは敵だけが踏むものじゃない。自分たちも同じ地面を歩く。それを忘れるな」


それから設置に取りかかる。縄を木と木の間に張り、小さな木片を吊るす。触れれば木片同士がぶつかり、音が鳴る仕組みだ。


一人の少年が、胸の辺りまで縄を持ち上げた。


「これくらい?」


ダリアは縄と地面を見比べる。


「ちょっと高すぎないか?」


「そう?」


「その高さだと、この辺にいる小さい獣なら下をそのまま通りそうだな」


少年が慌てて縄を下げる。今度は地面すれすれまで下げた。


「じゃあこれくらい?」


「それじゃ今度は……」


言いかけて、ダリアは止まった。自分なら何となく高さを決める。だが、ここは研修だ。今のギルドがどう教えているのかを聞いた方がいい。


「教官、ちょっといいか?」


「なんだ?」


「この警戒線、どれくらいの高さに張るのが基準なんだ?」


教官がこちらへ来る。新人たちも集まった。


「決まった高さが一つあるわけじゃない。大事なのは、何に気づきたいかだ。例えば人間だけを警戒するなら、この高さでも引っかかるかもしれん。だが、この森で夜に近づいてくる可能性が高いのは何だ?」


「動物?」


「そうだ。角ウサギ、狐、小型の魔物。その辺りまで拾いたいなら、もっと低くする。ただし低ければいいわけでもない。低すぎれば草に隠れて絡むし、落ち葉や小枝で誤作動することもある」


少年が再び縄を見る。


「じゃあ、どの辺?」


「今日はこのくらいだ」


教官が少年の膝より少し下を示す。


「ただし、木の同じ高さに結べば終わりじゃないぞ。下を見ろ」


縄の途中だけ、地面が少し窪んでいる。


「ここだけ地面との隙間が広い。小さい獣なら、この下を抜ける」


「ああ……」


少年が縄を張り直す。


「縄を見るんじゃない。何がどこを通るかを考えて張れ。それから、風で枝が揺れて縄へ当たりそうな場所も避けろ。夜中じゅう鳴り続ける警戒線なんて、最後には誰も気にしなくなる」


「確かに」


「仕掛けは鳴ればいいんじゃない。必要なときに鳴るように作れ」


ダリアはその説明を聞きながら、張られた縄を眺める。


自分なら、たぶん最初から似たような場所へ張っていた。だが理由を一つずつ考えたわけではない。何度も野営して、何度も失敗して、そのうち身体が勝手に覚えただけだ。


「設置したら、班員全員で場所を確認。夜になって忘れれば、自分で引っかかる。撤収するときも、いくつ設置して、いくつ回収したか確認する。置きっぱなしにするな」


ダリアが少し眉を上げた。


「そこまで数えるのか」


教官がこちらを見る。


「昔どこかで似たことをやったことがあるのか?」


「あー……まあ、ちょっとな」


「なら覚え直しておけ。こういう決まりは事故があれば変わる」


「そういうもんか」


「そういうもんだ。経験がある奴ほど、昔のやり方で勝手に動くことがあるからな」


「耳が痛いな」


「ならよく聞いとけ」


「はい」


それについては反論できない。ダリアは自分たちの仕掛けの場所を、残りの四人と一緒にもう一度確認した。


          ◇


警戒線を作り終えると、次は小動物用の罠だった。


「野外で長く活動していれば、持ってきた食料だけでは足りなくなることもある」


教官は一本のしなる枝を選び、縄を結んで簡単な輪を作る。


「今日は基本の形だけだ。細かい種類は今後必要に応じて覚えろ。まず結び目。力がかかったときにほどけないこと。次に枝。細すぎれば折れる。太すぎればしならない」


出来上がった罠を地面へ置く。


「だが、一番大事なのはこれじゃない」


新人たちが首を傾げた。


教官は午前中に見つけた獣道を指す。


「どこへ置くかだ。どれだけ上手に罠を作っても、獲物が通らない場所に置けば何も捕れない。足跡、糞、食べられた草、通り道。何がいるかを見て、そいつが通る場所へ置く」


「餌は?」


新人の一人が聞いた。


「使うこともある。ただ、何でも同じ餌で寄るわけじゃない。知らない獲物を適当に捕まえようとするな。毒を持つものもいるし、解体できないものを捕まえても意味がない」


教官が立ち上がる。


「罠作りは縄遊びじゃない。何を捕るのか、なぜ捕るのかまで考えろ」


それから各班で実際に作り始めた。当然、最初からうまくはいかない。結び方が甘くてほどける者、枝の選び方が悪くて途中で折る者、作ることに夢中になり、いつの間にか班から離れかけて怒られる者までいる。


ダリアはというと、ほとんど考えることなく手が動いた。


「……お前、早いな」


隣の少年が言う。ダリアの手元には、すでに形になった罠がある。


「そうか?」


「そうだよ。俺まだ最初の結び目だぞ」


言われて初めて気づいた。昔は何度も作った。必要に迫られて、食料を減らさないために、暇つぶし半分で、後輩へ教えるために。手順など考えなくても、手が動く。


「慣れてるんだな」


少年が言う。


ダリアは出来上がった縄を見る。


「……まあ、そこそこ」


「それ便利だな。なんでも『そこそこ』で済ませられて」


「便利だぞ」


「今度から俺も使おう」


「やめといた方がいいぞ。怪しまれるから」


「お前が言うのかよ」


ダリアは少し笑った。


          ◇


その後も訓練は続いた。


地図を使うときは、紙だけを見て現在地を決めるのではなく、遠くに見える小高い丘や沢の流れる方向、特徴のある大木と照らし合わせる。目印だけを暗記して歩くのではなく、来た道がどちらなのかも意識するよう教えられた。


次は簡易担架だった。二本の棒と布で怪我人を運ぶ形を作る。


「きつく結べばいいわけじゃない。途中でほどけないこと。だが、必要になればすぐ外せること。怪我人を載せてから結び直す羽目になるような作り方はするな」


実際に一人を乗せ、掛け声に合わせて持ち上げる。


「前だけ勝手に上げるな。それから、運ぶ人間も交代しろ。怪我人一人を助けるために、運んでいる四人まで潰れたら帰れなくなる」


それから少し歩いたところで、教官が突然声を上げた。


「状況を変える。一人動けなくなった。水は残り半分。日没まで二時間。目的地まではあと一時間。どうする?」


新人たちが顔を見合わせる。


「進む?」


「でも帰るのに一時間以上かかるだろ」


「怪我人もいるし」


「誰かだけ先に行くとか?」


意見が分かれた。ダリアは口を出さなかった。答えを言うのは簡単だが、これは彼らが考えるための訓練でもある。


しばらく相談したあと、朝から何度も話している少年が代表して答えた。


「戻ります」


「理由は?」


「怪我人がいるし、このまま進んだら帰りが日没にかかるからです」


「採取依頼だったとしても?」


少年は少し迷った。


「……戻ります。今日取れなかった分より、帰れなくなる方がまずいから」


「依頼に失敗するかもしれんぞ?」


「それでもです」


教官が頷いた。


「それでいい。覚えておけ。依頼を達成できないと分かったとき、人は『ここまで来たんだから』と進みたくなる。だが、進んだ距離は帰りにも同じだけ歩く。怪我人がいればもっと遅くなる。日が落ちればさらに危険になる」


教官は来た道を指した。


「依頼の失敗は報告すれば済む。帰ってこなければ報告すらできない。引き返す判断を、恥だと思うな」


新人たちが黙って聞く。


ダリアも小さく息を吐いた。昔も何度も聞いた言葉だったが、昔の自分がどれだけ真面目に聞いていたかは怪しい。


          ◇


その日の研修は、それだけだった。強い魔物は出ず、隠されていた危険な罠もない。新人の一人が沢へ足を滑らせて靴を濡らしたくらいで、全員が日暮れより前に町へ戻った。


それでいい。新人を育てるために選ばれた場所で、毎回大事件が起きていては研修にならない。


翌日は応急処置、その次は採取。別の日には地図と方角の確認、野営、荷物の分配、獣や魔物の痕跡、集団で行動するときの合図、町を離れる前の申告と帰還後の報告についても教わった。


何か派手なことが起こるわけではない。角ウサギを見つけた新人たちが、先日教わった足跡と見比べて騒いだ日があり、よく似た草を薬草だと思い込んだ者は、教官に葉の形と匂いの違いを一つずつ教えられた。担架の結び方が甘く、怪我人役の教官を地面へ落としかけた班は、その場でもう一度最初から作り直した。


間違えれば止められる。なぜ間違っているのかを教えられ、それからもう一度やる。


新人研修とは、そういうものだった。


ダリアにも注意は飛んできた。主に、経験だけで勝手に判断しようとしたときだ。


地図に書き込む記号、採取物の記録方法、警戒用の仕掛けを設置したときの扱い。知っているものもあれば、知らないものもある。昔覚えたことをそのまま使えるものもあれば、少しやり方が変わったもの、新しく決められていたものもあった。


一つずつ、今のやり方に直していく。


改めて教わってみると、昔は失敗しながら身体で覚えたことが、今では最初から理由まで説明されている。何となくやっていたことに、ちゃんと名前がついていることもあった。


ずいぶん親切になったものだ。


それとも、昔の自分が単に人の話を聞いていなかっただけかもしれない。


たぶん、そっちだろう。


一方で、変わっていないこともある。一人で勝手に動かない。分からないものには不用意に触れない。異常を見つけたら報告する。無理をしない。そして、帰れるうちに帰る。


どれも昔は、耳にたこができるほど聞かされた。いつの間にか自分が後輩へ言う側になり、今はまた言われる側に戻っている。


妙な気分だった。


          ◇


「ダリア」


数日後、その日の研修を終えてギルドへ戻ったところで、教官に呼び止められた。


「ん?」


教官は手元の紙へ目を落としている。ここ数日の研修記録らしい。


「実地については、これでほぼ終わりでいい」


「もう終わりか?」


思ったより早い。


「登録時の確認でも経験者扱いだったからな。初心者向けの反復訓練はいくつか省略している」


「最初から全部省いてくれてもよかったんだけどな」


「実際に見ないでどう判断しろってんだ」


「まあ、それもそうか」


教官が記録を指で追っていく。


「野外行動、地図、応急処置、野営、採取、集団行動。問題なし」


「おお」


思わず声が出た。


「ただし」


嫌な言葉が来た。


「まだあるのか......」


「知ってるからって、勝手にやるな。特に、自分の経験だけで進めようとする癖がある」


「でも、分からないところはちゃんと聞いたぞ?」


「聞いたから問題なしにしてる」


「ならいいじゃないか」


「そういうところだ」


教官がため息をつき、記録用紙に何かを書き足した。


「必要になれば追加で呼ぶことはあるが、見習いとして必須の実地訓練はこれでほぼ修了だ」


「じゃあ、もう森で縄張らなくていいのか?」


「やりたきゃ勝手にやれ」


「いや、遠慮しとく」


「残ってる講習はちゃんと受けろよ」


「分かってる」


教官が紙を閉じる。


「それと、研修が終わったからってG級が終わったわけじゃない」


ダリアは頷いた。


「これからはG級向けに指定された仕事を実際にこなして、活動実績を作っていく。昇級には最低限必要な実績量がある。ただし、単純に何件やれば終わりって話じゃない。どんな依頼を受けて、どう終わらせたかも見る」


「じゃあ、何件やればいいって聞いても意味ないか」


「そういうことだ。問題なく続けていれば、条件を満たしたところで昇級審査の話が出る」


昇級。


ダリアは少しだけ黙った。


昔なら、ただ上へ行くための言葉だった。今の自分が目指すのは、まずF級。ずいぶん低いところまで戻ってきたものだ。


腰にしまった冒険者証へ手を触れる。そこに刻まれているのは、まだGの文字。


十年以上かけて進んだ道を、もう一度歩くことになる。


もっとも、今度は道を知っている。


「……分かった」


「なら今日は帰っていいぞ」


「はいはい」


教官が眉を上げる。


「あー……はい」


「よし」


ダリアは苦笑して、ギルドの出口へ向かった。


実地研修は、これでほぼ終わった。


なら次は、今の自分の名で仕事をする番だった。

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